見出し画像

私、齢21と、この社会のルッキズム


世界がハードモード

ルッキズム、しんどすぎる。しかしそれは、どうにもこうにもこの社会のあらゆる所に根付いてしまっていて、本当に毎日毎日出くわす。頭で理解さえすれば手なずけられるかとも思ったが、生まれた時から既に隣にいたルッキズムはいつの間にか私の中にも寄生していたみたいで、私の体を蝕んでは他人までも傷つけたりしている。

私は今21になりたてだが、18歳、19歳の時。自分の体が気持ち悪く思えて仕方なかった時期があった。人より濃いめの体毛、人より肉のついた体(数値的には平均的体重だった)、ニキビやほくろのある顔の皮膚、全てが気持ち悪かった。ある日はもういっそ誰の目にも映らないように老けてしまえ、おばさんに早くなってしまえと思って、ある日はこの肌のハリまで失ったら本当に何も無くなってしまうからもう1歳も歳をとりたくないと、10代にして思った。

奴とは、どうしても関わらざるを得ない。私は人の眼差しに晒される時期の女性であり、外見のコンプレックスも強めに抱えているので、私事としても周囲の若い女性の状況を見る中でも、平均以上にはルッキズムを感知していると思う。アカデミックな内容には程遠く届かないが、こういった小さくともリアルな声(私は思ったことは割とデカめに口に出てしまうタイプだが)から話を始めることが重要だと一旦信じてみる。

Q.「整形は努力か?」 A.「そういう話ではない」

一定の美の基準を生涯永続的に追い求めること、それは当然に簡単なことではない。「整形は努力」。「ダイエットは努力」。間違いない。外見のことを考えて夜を明かしたり、美容施術をあれこれとリサーチしては安くはない対価を払ってきた身として、そこは完全な同意だ。
だけど、私たちをそこへと駆り立たせるものがなんなのか、というところには立ち返る必要がある。そもそも「何のために努力しているのだろうか」、あるいは、「何のために努力させられているのだろうか」ということだ。
言うまでもないと思うかもしれないが、私たちは「美に執着」しているからこそ「努力」するのだ。何故か。実はそれは決して自発的に望んで手にしたものでもなければ、生まれながらに持っているようなものでもない。

「社会が私たちを美へ駆り立てる」
社会が、私たちに要請しているからだ。そして私たちは、それに応えなければ生きられない。個人が自主的に選び取ったかのように巧妙に見せかけた、ルッキズムへ取り込まれることを拒否し得ない私たちへの、実質的な強制である。

もちろんそれをどれほどまで真に受けるかは個人差がある。私は平均程度に規範を内面化する方だが、もろに取り込んだ人は「ほぼ完璧」の状態まで外見を持って行ったり、はたまた強迫観念から摂食障害になったりする。「ほぼ」というのは、オリジナルで完璧な身体など私たちの頭の中にしか存在しないからだ。
あるいは規範と自分自身の齟齬に折り合いを付けることに成功した人たちは、日常的にそこまで気にしない場合もあるだろう。自分でそう思っていても、不意に他者から言葉を投げかけるのは避けられないのだが。

商業とルッキズム

カネとルッキズムは固く結びついている。私たちが二重への強迫観念に駆られるほど美容整形外科に手術案件が舞い込んでくるし、奥目を気にし出せばカラコンや奥目向けビューラーが売れる。
私たちが外見を気にしすぎた終着点は美容業界が潤うことで、逆に「美」を売りにする業界からすれば、私たちが美に執着する方が好都合だ。ありもしないコンプレックスが人の手で作り出される。美容施術の多様化、広範化とともに、「自分の身体を改善する手段があるのに、しない」ことは個人の選択の範囲に落とし込まれ、人格否定の意味まで帯び始めた。

普段触れるテレビやスマホにはルックスの優れた芸能人や俳優、アイドルが沢山出てくる。その「美しさ」を口に出して褒めたり、「ああなりたい」と憧れ目標にすることも、一概に悪と言うつもりはないが、残念ながらルッキズムの論理には乗っかっている。私なんて重めのKPOPオタクで、毎日アイドルたちの顔の造形やら身体比率を見ては感嘆しているが、その「偏りを楽しむ」という営みも節度を守らなければ簡単に自分や他人の首を絞めるだろうと思う。

ルッキズムを取り込んでしまうと、その美の基準に自分が当てはまっていない時、自分を肯定できないダメージを食らう。ルッキズムって、私たちが日々直面しているものって、そういうものなのだ。
社会から「こうであるべき」と要請される形と自分の形に齟齬があった時、お前はここにいちゃいけないと、切り裂かれるような感覚を覚える。そんな状況下で1番手早い解決方法が、自分の体の方を変えることであろう。

美容はエンパワメントか、それとも魔窟か

ツイッターでこういった投稿がバズっていたことがある。美容系のYoutuberよる動画で「奥目解消法」のメイクアップ方法が一躍有名になって、みんなその「新しさ」に驚いていた時だ。そのツイートは「奥目・出目という概念が普及したために余計に生きにくくなった。今まで自分が奥目だなんて気にしたこともなかったのに。」というものだった。
整形やメイクその他どの美容施術も、時に私たちの生きる気力や社会的機会を不当に奪う外見の悩みを解消する効果を、大なり小なり持っている。その意味では「エンパワメント」(この語の正確性については後に言及する)なのかもしれない、ということは自分自身の経験としても感じている。

実際、18、19の時に抱いていたような自分の身体へのとてつもない嫌悪感は、全身脱毛が終盤に差し掛かった頃にはある程度なくなっていた。ツルツルな二の腕や太ももを触って満足したし、夜ごとに自分の体を確認しては、何故こうなのかと際限もなくイラついて叫び出したい衝動に襲われるようなことはなくなった。10キロ痩せて二重になってからは、人々が心なしか今までより優しかったし、友達が増えた。
もちろん環境が変われば私の心も前向きに積極的になった。繰り返すが、体を作り変えることには恐怖や痛みが伴う。その身体で生きることの苦しさから逃れるために、あるいはより理想的な人生を手に入れるためにそこへと出向く人たちの勇気や向上心、主体性は否定できるものではない。

しかし「美容」は、本質的にコンプレックスに付け込んでいる。

多様化・広範化した美容施術の選択肢は、それまで存在しなかったコンプレックスを生み出しては、駆られた人々が自ら美容に還元されるようなシステムが稼働している。それまで気にしたこともなかった体の一定の特徴が非規範的なものとして貶められ、解消すべき問題点がでっちあげられる。差異が可視化されるとそれは何故か即時に均等なものではなくなり、一定の価値観によって優劣付けられ、「優」の方にいなければいけないという強迫が常に働く。

実はエンパワメントという語の正確な意味は「本来ある力を取り戻す実践」である。ヒューライツ大阪によると、暴力や社会的な抑圧の中で力が失われた状態にある人が、「自己を尊重したり、他者との協働で本来持つ力を発揮し、自己選択、自己決定できるように働きかけ再びパワーを獲得すること」である。要するに「エンパワメント」の源流には「ありのまま存在が認められる」ということがある。これは、「美容がコンプレックスを解消する」という状況を示す文脈での「エンパワメント」とは若干意味のずれがあることが分かるだろう。

ルッキズムが蔓延る社会という土壌の上にこそ整形はエンパワメントなのだ。

つまり、そもそもルッキズムに対して私たちが主導権を握っていないから、コンプレックスはコンプレックス足りえ、私たちは外見で悩むのだ。
社会構造自体の妥当性を問うのならば、やはり手放しで美容を賛美することはできない。生じてしまったコンプレックスに対して逐一対応することは対症療法であり、一方ルッキズムを問い直すことは原因療法といったところではないだろうか。

外見で人を判断しないことは無理

この題に対しての考えを先に述べておくと「そりゃそうだ」だ。どうしても外見で印象は左右されてしまう。だがこの手の言葉にはルッキズムへの解像度をも少し高める必要があると思う。
ルッキズム:「外見に基づく偏見や差別」。「諸々の外見的特徴値基づいて人を区別し、とりわけ一方を不利に扱うこと(=差別)」。
「特に若い女性に対して。極めて均一化された外見的な美を要請する規範」

例えば仕事相手が5日間風呂に入っていないような容貌だったら、だらしない人なのかなと危機管理能力が働くのは当然だ。または、いつも惹かれる好みの顔や好みのスタイルがあるのも当然だ。
ルッキズムから脱却しようというのは、「外見だけに基づいて人の価値を判断するのはやめよう」ということだ。
「ブスすぎて(デブすぎて)女じゃないでしょ」「就活の場で顔採用」「目は二重で色白が絶対カワイイに決まってる」そういうのをやめろという話だ。多分、そんなに難しいことじゃないと思う。

そろそろやめたい集団幻覚

二重埋没(20万)、全身脱毛(35万)、縮毛矯正(2万)、歯科矯正(100万)、ほくろ除去(1万)、眉毛アート(2万)、ダイエット(10kg)、肌管理(2万)(失敗)
18~21までにした美容施術の数だ。これだけやってもまだまだ終わらない。私の体は生きてるから毎日代謝を続けるし、毎日歳をとる。その限り、これは終わらないのだと思い、未来から目を伏せたくなる時がある。
「人を外見で判断しないなんて無理じゃん?」こんな一言では決して終わらせられないほどに根深く、精神や体を追い立てる問題。これがルッキズム。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?