裏切られたことがないし、愛されてばかりだった

「裏切られた」
中学生の頃、わたしの実家の固定電話にかかってきた電話の内容がこれだった。
相手は泣いていた。
今も、わたしは、裏切られるという意味について考える。
意味のわかりにくい言葉だった。わたしは裏切られた経験がなかったからかもしれない。それほどに、人を信用していたとも言えるし、人に期待していなかったともいえる。
そもそも、信じるとはどういう意味なのだろう。確率の話しだろうか。でも、1%でも、ハズレる確率があるものを信じて「裏切られた」と感じるのだろうか。いや、そういう意味ではないのだろう。
わたしは、電話の相手の本性を知らない。話しを頷いて聞くことしかできない。だから、「裏切られた」と言われても、そう思いたいからそう思っているのだ、という感想だった。なにが本当で、なにが嘘かわからないからだ。
話しが終わった頃に「いつでも連絡していいからね」と返した。それから、間隔をおいて電話がかかってくるようになった。

それから倍以上の年齢を積み重ねて、その人は結婚をして、子供を産んだ。わたしは、その人に裏切られてないと思う。ただ、忘れようと思った。その人の顔を見ても綺麗だとはもう思わない。他の人がその人に向けるものと似たものとなるだろう。わたしは、家族から愛されているし、クラスメイトたちを信用している。電話の主と違うところがあるとしたらそういうところだったと思う。わたしは、人から裏切られたことがない。人は嘘をつかないと思ってる。嘘をつかれたとしても、それは相手が本性を隠していて、それを自分が見誤っていただけのことだ。裏切られたことにはならない。そういった純粋なところがあるから、わたしは、相手の言動に傷ついてしまうのだろうと思う。「誠」はどこにあったのか? と。言葉をそのままの意味で受け取ろうと思う。これからどんなことがあっても、絶対に大丈夫だよ。

わたしは、愛されている。
わたしも、わたしを愛してる。
不確かな未来に向けた「信用」としてはそれでいいじゃないか。誰もわたしを裏切っていない。

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