奇跡についての哲学

奇跡とはなにか。哲学とは、物事の本質を捉えるという意味である、としたところで、書いてみたい。自分のために。備忘録として。要領を得ない文章になるがご容赦を。

理屈に合わないことが起きた時にそれを奇跡だと判断される。しかし、それは現実で起きることはない。だいたい人間の想定内のことだ。サイコロをふり続ければ、いつかは望みの数字がでる。なら猿がタイプライターを無限にランダムに叩き続ければいずれシェイクスピア作品が書けるのか? と問われるかもしれない。それが起きたら奇跡だ、と言う人だっているだろう。

奇跡の30代 奇跡の40代 奇跡の50代 奇跡の60代 奇跡の70代 奇跡の80代 奇跡の90代 化粧品は奇跡を起こすことができるのだろうか。人間の想定を超えた『奇跡』それは、矛盾。理屈に合わないことは起こらない。60代が、20代見られる奇跡は、起きるだろうか。ひとつでも、そんな事象が観測されたら、奇跡ではなくなる。革命が起きて、それが人類の常識となる。そういった客観的な自然法則によって、奇跡というものは定義されてきた。それなら、奇跡は起こらないのだろうか。

『奇跡は起こらないから奇跡だ』という言葉を知っている。

『信じなければ奇跡は起こらない』という言葉も知っている。しかし、私はこれも、真実だと思う。つまり、物事を捉えているのは、人間であり、言葉を定義しているのは、人間である以上、主観だということだ。

奇跡は、人間が気づいた主観であって、客観的な奇跡は起こりえない。それに気づいて、感動しませんか? 人は、自分が、こうだと思うことしか起こらないんです。

いつまでもタイプライターを無限にランダムに打鍵すれば、あなたもシェイクスピアのような作品を書けるということを、信じて、騙されてみませんか。奇跡は起きるから、奇跡なんです。なんて。

私は、好きな場所に行けるんです。普通の人が当たり前に行けるところに、行けないと思っていました。それは一般的に行けて当たり前のことなんですが、私には、奇跡のようなことです。こわくて行けません。でも、奇跡は主観だとわかったら、できそうな気がしませんか。

物事は捉え方で変わります。なら、奇跡が起こることを信じてみることが、一個人の想定の限界を超えることができるかもしれませんよ。

タイプライターを無限に打鍵しましょう

じゃなくて、こんな私でも外に出て、好きな場所に行ける

そう思いました。終わり。

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