愛、愛するでも意味が違う

受け取る人の感じ方が、違う。例えば誰かが「愛とは差別である」という定義をしたところで、「愛」ってなに? ってところで、わたしはつまずく。そもそも、愛するという動詞と、愛って別物のような。結局は、自分がどう感じるかだから、「愛とは差別である」と言ったところで、それは差別しちゃってる時点で、愛ではない、とも言える。「愛することは差別である」ならまだわかる。それは、愛という行為を伴っているからだ。差別である可能性はある。でも、愛とは差別であるでは矛盾している。あるのは納得感だ。

差別とは、不当に区別されるという意味があるが、それは明らかに行動しているのでは? 行動とまではいかないまでもその兆しを感じる。しかし、愛という概念を、行動と結びつけたら、それは、心として不純なものになる。そこに愛する、ということの難しさがある。差別して、特別扱いをすること、それが、愛だとしたら、それは行動をする(表現する)ということになる。なにも行動しないと、それは愛ではないかのような、誤解が生まれる余地がある。正解なのかもしれないけれど。誤解かもしれない。

憎悪の対義語が愛ではなく、憎悪と愛はその対象と対象以外への差別であるとしたら、人類愛の対義語が愛となる。大切な人を限定すること。なるほどなと思う。でも、まだ、議論の余地はありそうだ。

わたしの見解というか、よしもとばななさんの『「違うこと」をしないこと』という本で読んだ見解としては、愛はもっと利害関係とは遠いつかみどころのない概念のような気がする。それを、差別とは言いたくないが、現実、愛することで、利害関係が成立しているように感じるし、差別をしているように感じることもあるだろう。

そもそも、自分が愛してると感じていれば、それで充分で、それを行動に移そうとしている時点で、本質を見失っているような。意識しなくても、それをできている状態が愛してるな気がする。それを、言葉にすることで、時間によって変わる気持ちの自分に不実だと思うし、他者に向けて言う場合、不誠実であるようにも思う。



備忘録。今日も「おれは、おれのことを愛してる」と脳内リピートして、頑張って車に乗った。公園を歩いた。言葉は祈り。明日も、頑張れる。大丈夫。車に乗れる。頑張らなくて、緊張しないで乗れることが望ましいが。大丈夫。リラックス。たのしいことを想像しよう。

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