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オッペンハイマー

映画「オッペンハイマー」が偶然上映していた。公開前に一部映画館でフライングというか先行上映したみたいだ。

アインシュタインが相対性理論を明らかにした後、量子力学なる学問が台頭してきて、物理学の教科書で一番多くのページを割かれる時代のちょっと後の出来事。戦争のために理論物理学が停滞した代わりに、集大成として巨大なエネルギーを放つ爆弾を作ってしまった物語だ。

原子爆弾の開発者とされるオッペンハイマーが主人公ということで、日本ではやや否定されがちな映画だが、原爆の話というより、彼の心の中の葛藤、原爆が出来てしまったことで多くの関係者が悩み、考え方の相違や嫉妬などからお互いを落としあう様子が描かれている。

組織に属している経験があれば、割と普段から味わっているような出来事かもしれない。ただスケールが大きく違う。プロジェクトの影響力が何十万人の命にかかわるからか、理性では隠し切れない人間性がより強く露わにされるんだろうと思う。

妻やラビ、ボーアなど信頼できる理解者たちの支えがなければ、彼の精神は崩壊してたのかもしれない。そしたらドイツ、ソ連が原爆を先に開発し、世界は別の姿になっていたかも。と、観ている間に思考が脱線していく。今ある世界は案外不確実で偶然によって作られてきたんだと感じる。

苦悩の主人公はアインシュタインのもとへ行き、彼の今後の生き方を決めたであろう言葉をかわす。

アインシュタインは量子力学を理解しなかったそうだ。これの真偽は置いといて、量子力学がもたらすもの、従来の通常爆薬なんかでは実現できない圧倒的なエネルギーを放つもの、いずれ水素爆弾へと進化し人類の滅亡につながる未来を誰よりも先に理解したために、理解しない姿勢をとったのではないか?とか、様々な想像が浮かんでくる。

いずれにしても、アインシュタインは、誰よりも理解したうえで沈黙しているように見える。

科学者とはなんだろう?と考え込んでしまった。
科学への探求心、未知の現象や世界の成り立ちを解き明かしたいという欲求が根本にあって科学者をやっているのだと思う。しかし周囲から期待されることは、ただの性能の良い道具としての役割。変な自我をもたず、今回の物語であれば原子爆弾を実現すること、その後の核開発を世界に先行して進めていくことだけが求められている。政治家からみたら科学者を集めることは、スポーツカーを買うのと同じような感覚かもしれないと思った。

ちょうど科学者の立ち位置があいまいになった時代。ただ冒険心のような探求心でやりましたとか、言われてお金もらったからやりましたでは済まなくなるほどに影響力が強くなった20世紀前半。結果として人類が何度も滅亡するだけの核兵器が世界中に置かれている現実。そのことをはっきり分からせてくれる転換点として、原子爆弾があるんだろうと思う。

広島の原爆資料館に行くと、直視できないほどの悲惨さに圧倒されて感情的になる。しかしこの映画は怒りとか非難などの感情にとらわれずに見たほうがいい、そのほうがはるかに多くのことを吸収できる。

観る前と後では、別の世界に生きてるみたいに感じる。世界への捉え方が変わる。もやもやが長く残る、翌日のテンションは確実に落ちる映画ではあるが、気持ちが落ち着いた後に、何度も見たい。

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