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「ジャパノミクス」って、なんどいや? (6)

第6講 不適切?な「ジャパノミクス」日本型経営システムの放擲

ともあれ、華々しい「レーガノミックス」や「サッチャリズム」が纏っていた「斬新さ」ゆえに、当時の日本のオピニオン・リーダーであった人びとの目には「ジャパノミクス」という日本型経営システムが色褪せて見えたに違いありません。「ジャパノミクス」に対して抱いたその「後進的」な意識が、欧米との通商交渉を経て、自由市場資本主義の教義を丸呑みする素地となり、あたかも「レーガノミクス」や「サッチャリズム」の政策をなぞるように、日本においても、国鉄、郵政、電電公社など準国営企業の民営化や様々な業種における規制緩和(ディレギュレーション)、日本版金融ビッグバンなどの自由主義的経済政策が導入されていくことになるのです。

1980年代から2000年代のはじめに至るまで、アメリカなどとの貿易交渉が継続して進められましたが、議論は当初の個々の産品の取り扱いから、やがて「ジャパノミクス」という日本型経営システムそのものが机上に乗せられるようになります。そこでは、日本型経営システムが、アングロサクソン型経済システムに対し「後進的なもの」「異質なもの」さらに進んで「不公正なもの」「アンフェアなもの」であるということが前提となっていて、これをいかに是正させるかについて交渉の対象とするようになったのです。

ところで、アングロサクソン型経済システムとは、かつて「ジャパノミクス」の「カンパニー・キャピタリズム」に対峙するところの「キャピタリスト・キャピタリズム」(株主資本主義)で成り立つ経済システムにほかなりません。そして、このシステムが前提としているのは、自由市場資本主義の教義であり、これを世界に広げるグローバリズム思考です。日本は、熾烈な通商交渉を通じてその教義を学び、感化され、やがて「ジャパノミクス」を放擲し、グローバリズムの潮流に自ら身を投げたのです。

しかし冷静にみて、そもそも当時の日本経済は急速な円高に苦しんでいたとはいえ、深刻なスタグフレーションには陥ってはいませんでした。それどころか、むしろ各企業の不断の経営努力と連続するイノベーションにより原油価格上昇によるコストプッシュ部分を消化しつつありました。具体的には、技術的な創意と工夫やTQC活動によって草の根的に生産システムを「カイゼン」効率化することで、円高に抗して相応の輸出競争力を維持できていましたし、マクロ経済的にも、未だイギリスやアメリカのような深刻な財政赤字や貿易赤字にも悩まされることもなかったのです。何より国民の勤労意欲や士気は高く、「持ち前の」倹約の美徳で貯蓄率も維持して「省エネ」や「ロボット化」などに向けた企業の投資意欲も旺盛だったのです。大づかみにいえば、当時の日本では、「ジャパノミクス」はまことに「よくやっており」、労働生産性が高くイノベーションが連続的に生起し、成長エンジンも健在であったわけで、つまり日本の「サプライサイド」には問題がなく、そもそも「レーガノミクス」や「サッチャリズム」が必要とされる経済状況にはなかったのです。

通商交渉についていえば、「新自由主義」を標榜しているはずのアメリカの貿易政策こそ、とりわけ日本に対し保護主義的といわざるを得ないものであって、経済システムそのものは、日本の方がはるかに市場的でありました。仮に相互主義を徹底したとしても、半導体や自動車、家電など日本製品に高付加価値産品が多かったために、日米の貿易の不均衡が解消しない可能性が高かったのが実情でした。それは、実際に争点となったのが、日本の高付加価値産品のダンピング認定や特許権の問題であり、アメリカの牛肉やオレンジなどの農産品の自由化であったことをみれば容易に想像がつきます。
このようなアメリカ側のまことに「居心地の悪い」立ち位置を解消するためには、日本固有の国民性や社会的基盤そのものの異質性に焦点を当て、その基盤に立つ日本の経済システムそのものの「不適切」性を問題視して、これを是正させる(あるいは脆弱化させる)べきであるとする政策的判断があったと考える方が自然です。

そして、いずれにせよその後の歴史の教えるところでは、日本は、この潮流に身を任せて、公共事業体の民営化(JR,郵政、JT,NTT)、政府による諸規制(レギュレーション)の撤廃、非関税障壁の撤廃と市場開放、自動車や半導体などの「自主的」輸出規制、製造業の生産拠点や技術の海外移転の促進、さらに金融開放(「日本版金融ビックバン」)、時価会計の導入(財務会計ビックバン)」など、日本の経済システムの基盤に関わる部分の「改革」を官民挙げて次々に実行していくことになったのです。

これらの「改革」の適切性については、いまだ様々な議論が定まらないといってよいでしょうが、現実はすでに既成事実化しています。そして、後に詳しく触れることになりますが、やがてアメリカで起こったことが「失われた20年」後に日本でも起こります。アメリカやイギリスと同様に、自由市場資本主義的な「構造改革」によって、所得格差は拡大し、貧困率は上昇し、地方は疲弊してしまったのです。
日本における「新自由主義」的経済政策の導入は、「経済の活性化」、「生産性の効率化」、「社会的公平」といった部分で、本来期するところの成果を得ることは少なく、むしろその副反応として、「貧富と教育格差の拡大」「中間層の希薄化」「金融力の低下」「財政の赤字」「国内製造業の弱体化」「社会福祉や社会インフラ投資の停滞」「首都圏への過度集中と地方の衰退」を受けとってしまっています。

それでは、なぜ、当時の日本がこのような合理性に問題のあるかもしれない政策を急いで受入れてしまったのでしょうか。ひょっとしたら、日本は、欧米諸国の自由貿易政策の下で繁栄を手に入れたのであるから、今、アメリカが苦しんでいることを尻目に、日本のみが自由貿易のメリットを享受し繁栄を続けていくのは、道義的にも「不適切である」ーというような極めて情緒的な気分が作用していたのかもしれません。たとえば、1985年の中曽根康弘総理大臣が行なった「国民一人あたり100ドルの外国製品を買いましょう」という国民向け談話です。これは、日米貿易不均衡を緩和する目的で行なわれたものですが、日本国民のみならずアメリカ国民に対してもずいぶんと失礼な話だなという印象を持ったものです。

実は、そうした「適切」と思えないような政策の選択に、1990年代に決定的な影響をあたえたのが、バブル経済の崩壊なのです。次講では、いよいよバブルの崩壊がもたらした日本人の社会的信頼の喪失について考えてみたいと思います。

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