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「スネルの屈折点」 1985             「ジャパノミクス」ってなんどいや? (17)

光学理論で「スネルの法則」という有名な公式があります。ストローをコップに斜めに刺したときストローが曲がって見えます。光が異なる媒体を通るとき、光の進行方向が屈折する原理を明らかにしたのがこの法則です。

振り返ってみると、1985年前後が、日本経済のその後の成功と失敗をともに準備する屈折点だったといえるでしょう。この時期の前後を境に、媒体、つまり社会の「空気」が一変したからです。

では、1985年には、どんなことが起こったのでしょうか。クロニクルにしてみましょう。

1月 中曽根・レーガンの日米首脳会談で、米国製品目について日本の参入 障壁を引き下げることを協議する日米MOSS協議(Market- oriented sector-selective talk)開始。

3月 科学万博(つくば博「人間・居住・環境と科学技術」)開催、2033万 人を動員。
  青函トンネルが、20年余りの難工事を経て本坑全貫通、本四架橋3ルートのうち、6月に大鳴門橋が開通、12月に明石海峡大橋の事業化が決定(全面開通は1998年)

4月 電電公社からNTTへ民営化、専売公社からJT発足、国鉄民営化は2年後の1987年に実現。
 中曽根首相「国民一人当たり100ドルの海外製品購入を」(100ドルショッピング)をテレビ中継。

6月 アメリカ半導体工業会が日本の半導体市場の閉鎖性等を理由に通商法第301条(不公正貿易慣行に対する制裁条項)提訴。

8月 日航ジャンボジェット機が御巣鷹山に墜落。

9月 G5(5カ国蔵相会議)で「プラザ合意」。
 乗用車対米輸出一部自主規制。
 ファミコン「スーパーマリオブラザーズ」発売。
 上海宝山製鉄所(現在の中国国有持株会者宝鋼集団)が新日本製鉄の全面 協力により完成。

11月 ジュネーブにてゴルバチョフ、レーガンによる米ソ首脳会談。

12月 1983年11月に着工された赤坂六本木地区再開発「赤坂アークヒルズ」その全容を現わす。(1986年3月に竣工)

この年、アメリカの上半期経常収支赤字年率▲1243憶ドル、それに対し日本の経常収支黒字年率447億ドル。
12月末の日経平均株価は13000円、米国ダウ平均1500ドル、ドル/円年平均レートは238円から168円まで急騰。

この年の5月、首都圏改造に関する「ある構想」が発表されています。

国土庁大都市圏整備局監修『首都改造計画- 多核型連合都市圏の構築に向けて-首都圏整備協会, 19 8 5年』です。

やや長いですが、当時の「空気」を実感するために、あえて紹介します。

「中枢管理機能をはじめとした業務管理機能は、産業構造のソフト化、サ-ビス化の進展等を背景とし、 我が国の経済発展を支える機能として、今後、量的にも、質的にも、一層その比重を高めるものと見込まれる。このような状況の中で、国土の均衡ある発展を図る上で、業務管理機能を国土に適正に配置することが必要である。東京大都市圏においても、新しい地域構造を構築し、東京大都市圏が中枢的、国際的な機能を十分に発揮していく上で、業務管理機能の適正な配置を図ることは極めて重要な課題である.この業務管理機能の規模を事務所床需要で見ると、事務用機器の導入、執務環境の向上ともあいまって、今後も高い需要が見込まれ、 東京都区部においてだけでも昭和7 5 年までに約5000ヘクタールの床需要が発生すると予測される。
この旺盛な事務所需要に見られる業務管理機能について、その適正配置を図るため、東京中心部において増大する業務管理機能の誘導による業務核都市等における集積を図ることが必要である。この場合、都心部での事務所立地の規制による抑制は、高次の本社機能, 国際金融機能等都心部に立地し、我が国の経済を先導していくことが期待される機能をも減殺するおそれなしとせず、また、事務所における業務は多様であり、しかも、変化していくものであることから、事務所の性格、機能をとらえ、選択的に立地抑制を行うことは技術的に極めて困難である。したがって、当面、経済性、効率性等の経済合理性の観点から事務所立地が東京都心部よりも業務核都市等を指向する条件を整えることを施策の基本的な方向とすることが適当である。
このため、業務核都市と東京中心部を連絡する交通・情報通信体系の整備を図るほか、業務核都市等においては、公共施設等の整備、 都市計画制度の活用等により、魅力ある業務市街地を形成することと併せ、業務管理機能の業務核都市等への誘導のための施策展開を図ることとする。」
 
回りくどくてわかりにくいのですが、この提言の趣旨を要約するとこうなります。

ー 強いジャパンマネーを求めて、東京はニューヨークにつぐ世界の金融センターとなるであろう。そのために、金融機関をはじめとするグローバル企業のオフィス需要はますます高まり、2000年(昭和75年)までに5000ヘクタール(霞が関ビル312棟分)が必要となる。しかしながら、実際には、都心部にそんなに多くの高層ビルを建てるだけの土地はないのであるから、首都一極集中を避け、オフィス機能を東京外縁都市に分散・集中させ(多核的連合都市圏)なければならない。ー

このように、この提言は明らかに東京圏のビルの高度利用のみを推進せよとしているのではなく、首都機能の広域分散とそれをつなぐ交通・通信インフラの拡充を目的としたもので、こうした構想は、田中角栄の「日本列島改造論」以降、特に目新しいものではありません。

しかし、この構想が、国鉄などの民営化や「金余り」による高揚感の中で発表されたため、本来のあるべき文脈が「都心の金融オフィス需要の高まりが地価と賃料と土地価格の上昇を呼ぶ」と曲解、あるいは利用されて不動産バブルの発火点となりました。

実際に、人々は、こう考えたのです。

「1980年代にこれらの懸案(赤字国債、輸出主導への反発下での内需拡大、国鉄赤字問題、外資への門戸開放等)を一気に解決して一石何鳥もの効果があると考えられたのが、不動産市場だった。不動産と株式の売買で資金を作り、さらに土地に注ぎ込んで値段を上げろ。民有地の価格も青天井で上げろ。好景気に乗り、ビル建設もラッシュだ。東京は世界の金融センターとなる。そのためには霞が関ビルの何百棟分が足りないから、もっとつくれ、と国土庁が舞い上がって膨大なビル需要予測を発表する。国家公認の不動産、株ブームによる大好景気志向の(のちにバブルといわれる)一大キャンペーンである」(桃源社社長・佐佐木吉之助「蒲田戦記 政官財暴との死闘2500日」2001年11月)
桃源社という会社は、1980年代に急成長した不動産開発会社で、都心におよそ150棟のビルを保有し、現在大田区役所庁舎になっている国鉄蒲田操車場跡地を落札したことで有名でした。その後桃源社は破綻しています。

今となっては、ずいぶん乱暴な話と思われるでしょうが、こういった会話が、当時の不動産業界の現場で、大真面目でなされていたのです。

この頃から、人びとの心に「勤倹貯蓄」から株式や土地などに対する投機へと向かうマインドが生まれ、社会の「空気」が変わり始めたのです。そして、モノづくりに比類ない力を発揮した「ジャパノミクス」日本型経営システムが、「自信」と「欲望」、過剰流動性(金余り)による「高揚感」に結びつくことによって「バブル経済の生成と崩壊」を準備することになります。

さらに、1986年4月、人々のマインドリセットを促すもう一つのレポートがあります。所謂「前川レポート」です。
「前川レポート」とは、前川春雄日本銀行総裁を座長とする私的諮問機関「国際協調のための経済構造調整研究会」がまとめた報告書のことです。

当時、従来の冷戦構造から貿易不均衡といった経済問題へ焦点が変わっていく中で、「フォーリン・アフェアーズ」が、日本経済のありようを「ジャパン・プロブレム」として取り上げられるなど、「ジャパン・バッシング」(「日本叩き」日本の貿易黒字の拡大、市場開放の遅れ、産業政策のあり方、国際貢献の仕方などの各面についてアメリカが加えた批判/有斐閣「経済辞典」第5版)が先鋭化し、これにどう対応すべきかということが喫緊の課題となっていました。

「前川レポート」では、こうした批判に対して、「GNP比3.6%もの巨額な貿易黒字は、日本経済にとって危険であり、これからは黒字削減、輸出依存型産業構造の転換、市場開放、金融の自由化・国際化を図るべきである」とし、具体的には巨額な公共投資を中心とする財政出動と民間投資を拡大させるための規制緩和、市場の拡大、金融の自由化など日本経済の構造の改変にも踏み込んで、「構造問題」に光を当てたのです。

さらに、この「スネルの屈折点1985」以降の動きにまで時計を進めてみましょう。

1985年のインテル、ナショナルセミコンダクタ等米3社による日本のメーカー8社に対するダンピング提訴を受けて、1986年に「日米半導体協定」が締結され、日本のメーカーは協定で定めた最低価格以下では販売できなくなります。これは、明らかに自由競争を制限する「政治的」価格カルテルで、反自由市場主義的ですが、ここでは面妖にも米国の国益と日米関係の平穏が優先されたのです。これ以降、日本の半導体産業は振るわなくなってしまいます。

1987年になっても対日圧力が緩むことはなく、2月に「敵対的貿易慣行国」規定法案、3月に金融報復条項を含む包括通商法案が出されます。5月には、産業スパイ事件として「東芝機械ココム違反事件」(ココムとは、1949年,東側の「封じ込め政策」の一環としてアメリカの主唱により資本主義諸国が結成した,共産圏への戦略物資・技術の流出防止を目的とする協定機関)が摘発され、当時の東芝の会長社長が辞任に追い込まれました。
その他の貿易交渉においては、1988年に牛肉・オレンジの輸入自由化交渉はまとまりますが、同時期に米下院で可決された「スーパー301条」、「包括貿易法案」に基づき、翌年1989年にはスーパーコンピューターなど対象とした懲罰的貿易制限が発動されます。そして、この年「日米構造協議」がスタートします。

1987年に、日本の銀行の海外資産が1986年に世界一になったとのBIS報告が発表されます。
これに対し日本の銀行は、欧米の銀行に比して財務的に(簿価上の)自己資本が脆弱であるとして、1988年に銀行の自己資本の充実を求める自己資本規制(バーゼル合意)が成立し、その後、漸次強化されることになります。このいわゆるBIS規制は、後に不良債権問題処理の足かせとなって、日本の銀行は塗炭の苦しみを味わうことになります。

 
中曽根政権の自由市場主義的政策の目玉として、1986年のNTT株の一般投資家向け公募に続き、1987年には、国鉄の民営化が断行されます。
さらに5月の日米首脳会談を踏まえて、面妖にも、好況期における総額6兆円もの大型緊急経済対策が打たれ、インフラ投資が活発となります。国家的事業である「青函トンネル」「本四架橋」の供用が開始され、日本の流通網が北海道から四国・九州まで整備され、民間でや「東京ドーム」が完成しました。

1987年の総裁選で宮沢喜一氏(蔵相)が提唱した「国民資産倍増計画」は、社会資本整備に伴う資産効果と税収のバランスを前面に打ち出した経済政策ですが、こういった政策提言は人びとの思惑を誘い、卸売物価が低く抑えられたまま、不動産や、株などの金融資産だけが、突出して上がり始める。

かくして消費税の導入やリクルート事件で動揺する竹下政権の下でも、日本経済は過熱し、日経平均株価は30000円を突破し、外貨準備は1000憶ドルを超えます。

1980年代の終わりごろには、ついに強い通貨「ジャパンマネー」が、大挙して国境を越えます。日本の有力企業が、めぼしい海外資産の獲得に走り始めたのです。

ソニーは、1987年に米CBSレコード部門を円換算2700億円で買収、さらに、ハリウッドの映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメントを円換算5200億円で買収します。

三菱地所は、ニューヨークのランドマークであるロックフェラーセンタービルを円換算1200億円で入手し、この年の「ニューズウイーク」には「日本はアメリカの魂を買った」と皮肉られ反感を買います。

セゾングループは、インターコンチネンタルホテルを円換算2880億円、青木建設がウェスティンホテルを1730億円で買収し、オーストラリアや東南アジアのリゾート地には多くの日本資本のホテルが林立します。

松下電器産業は、映画会社ユニバーサル(当時MCA)を7800億円で買収、コスモワールド社が米西海岸の名門ゴルフ場のペブルビーチ・ゴルフリンクスを1250億円で取得します。

当時としては、貿易黒字で貯め込んだおカネを、海外投資に振り向けておカネを回すことが世界経済にとって「良いことである」という意見もありましたが、むしろ、世界からは札束で世界を買い漁る日本というイメージが先行して定着してしまったことはまぎれもない事実です。

1990年は、前講でも触れましたように、対日赤字の根本原因が日本の経済社会構造にあるとみたアメリカとの「日米構造協議」がスタートします。その後、この「日米構造協議」は、後に「包括経済協議」に格上げされ、日本の産業の将来を担うと期待された半導体、スーパーコンピューター、金融などの多くの重要な基幹分野を間断なく締め上げることになります。露骨な内政干渉ではないかという意見もありましたが、日米同盟や経済の対米依存といった立ち位置の脆弱さから、当時の日本ではこれに応じざるを得ない状況でした。

屈折点で媒体が変われば、直進している光も屈折して見えます。

1985年以降、人びとのマインドや価値観、つまり「空気」が大きく変わりました。「欲望」が募り、堅実よりも投機、倹約よりも消費が選好され、それを政府をはじめ社会が煽る「ユーフォリア」が蔓延します。です。そして海外が日本経済を見る目も、驚異、羨望から妬視へと変容しました。

このようにして「ジャパノミクス」も「空気」という媒体を通して、異形なモノとして歪んで見えるようになったのです。

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