「ジャパノミクス」って、なんどいや?(1)~(14)

第1講 「邯鄲の夢」

「なんどいや?」は、私が通っていた学校で飛び交っていた方言で、関西弁の一種ですが厳密には播州弁です。これを私が育った河内弁で言うと「なんでんねん?」、あるいは「なんなん?」。私が今住んでいる横浜では「なんでございますか?」という意味です。

で、「ジャパノミクス」というのはなんどいや? ということですが、まずは「邯鄲の夢」のお話から始めたいと思います。

「邯鄲の夢」とは、唐の小説「枕中記」の故事の一つで、これをネタに芥川龍之介が短編小説に仕上げているので、読まれた方も多いと思います。言葉自体は、人の栄枯盛衰が所詮夢に過ぎない、儚いもののたとえとして使われてきました。

さて、1980年代に日本は高度経済成長を遂げてアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、未来の「産業のコメ」といわれた半導体産業で圧倒的な世界シェアを持ち、強くなった円(つまり円高)は、いずれドルにつぐ国際通貨となって、東京が世界の金融センターになることを人びとは疑っていませんでした。そんな時代に育った私は、今になってそんな時代もあったことを思い出し、ふとこの故事を連想してしまうのです。
日本経済は、ニクソンショック(ドルの金兌換停止、1ドル=360円の固定相場制の廃止)やオイルショック(石油産油国による原油価格の引き上げ)などで、1970年までの年率10%もの高度経済成長はさすがに減速しましたが、持ち前の勤勉さと技術革新による生産効率の改善で1980年代に入ると再び力強く成長軌道に乗り始めました。この日本経済の強靱さの秘訣は、欧米とは異なる日本型経営システムにあるのだとして、これを当時「ジャパノミクス」と呼んだのです。そもそも「ジャパノミクス」という言葉は、当時の日本経済のシステムを説明するのに普通に使われていた造語で、単に、ジャパニーズとエコノミクスを約めたものです。そして、今を生きる多くの人びとにとってはでは考えもつかないことですが、この「ジャパノミクス」というシステムこそが、それからの世界経済の新しい普遍的なシステムになっていく可能性が高い、という意見を持つ人が多かったのです。

ところが、その「ジャパノミクス」なるものは、ある時期から全面的に否定され、「その全否定の上に」今日の日本の経済システムが築かれているということを認識している人は、今はほとんどいないのではないでしょうか。そう、この「ジャパノミクス」なるものは、日本の戦後経済史からそっくり抜け落ちているのです。試みに「ジャパノミクス」を検索エンジンで検索してみましたが、それを適切に説明してくれるサイトをなかなかみつけることはできませんでした。ひょっとしたら、少し前の経済用語辞典には出ていたかもしれませんが、そこまで改めて調べてみるには及ばないでしょう。つまり、いまや「ジャパノミクス」は、「死語」であるといってよいのです。

しかし私は、これから1980年代以降の経済事象を辿るにあたって、あえてこの「ジャパノミクス」日本型経営システムという用語を繰り返し使いながら筆を進めたいと考えています。この用語が、日本経済史から姿を消したことと、それから数十年続くことになる日本経済の沈滞との間にはなにか大きな関連性があって、それを解き明かすキーワードだと思うからです。

私に近い世代では、ひょっとしたら「ジャパノミクス」を「日本経済を奈落に落とした元凶であった」といった苦い記憶としてしか残していない人が多いかもしれません。その苦い記憶というのは、おそらく次のようなものです。

⑴「ジャパノミクス」は、そもそも日本でのみ通用する「異形の」資本主義であり、国際社会に通用可能な普遍的な経済システムではなかった。

⑵「ジャパノミクス」は、日本の「不公正な」貿易慣行を生み出し、世界経済における「公正な」取引を阻害するものであった。

⑶「ジャパノミクス」は、貿易相手国に不況と失業を「輸出」し、「近隣窮乏化」をもたらした。

⑷「ジャパノミクス」は、日本の経済構造を「硬直化」させ、長期間にわたるデフレ経済からの立ち直りの「障害」となった。

⑸「ジャパノミクス」は、公正な市場競争と労働市場の活性化の障害となり、企業や個人投資家の適切な投資意欲や労働者の勤労意欲を阻喪させた。

⑹「ジャパノミクス」の存在が、グローバリズムへの対応を「躊躇」させ、日本が世界の経済成長から取り残される結果を招いた。

⑺「ジャパノミクス」は、政財官界の癒着と利権を生み、金融の「腐敗」の温床となり、それがバブルの崩壊と深刻な金融危機を生み出した。

さすがに、これだけの罪状が並びますと、かつての高度経済成長を支えた「ジャパノミクス」も立つ瀬がないでしょう。これが、バブルの発生と崩壊、引き続き起こった金融危機、デフレスパイラルの原因を日本型経営システムの欠陥に求める「ジャパノミクス元凶説」です。確かに、1990年から2011年頃までの「失われた20年」の日本の経済の凋落は、「ジャパノミクス」日本型経済システムが壊れていくプロセスの起点と終点に完全に符合しています。
確かに、このように「ジャパノミクス」のために日本経済が沈んだんだと考えることは出来ますが、逆説的に「ジャパノミクス」が壊れたから、日本経済が沈んだんだともいうことも出来るのです。その因果関係は、実は想像以上に複雑で判然としていません。ただいえることは、その20年間に、「ジャパノミクス」日本型経営システムは壊れて、日本経済も沈んだという事実があったということだけなのです。

次回は、それを解き明かすために「ジャパノミクスと欧米との通商摩擦」について筆を進めてみたいと思います。


第2講 「ジャパノミクス」と世界

そもそも「ジャパノミクス」がもてはやされたのは、日本の経済が世界第二位の経済大国として頂点を極めた1990年の頃までのことです。日本経済は1980年代の中頃からはバブル景気に浮かれ、これに少なからず危うさを警戒する人びともいましたが、多くは、政治はともかく、日本経済の先行きに対しては楽観的で、経済界や行政の舵取りに対しては比較的高い信頼を寄せていました。日本経済には確かにいくつかの問題はあるもののそれは致命的なものではなく、むしろ欧米に比べれば日本はうまくやっている、といった見立ての方が一般的でありました。

一般に「ジャパノミクス」は「カンパニー・キャピタリズム」(会社資本主義)というふうに定義され、企業の永続性(いまでいうサステナビリティ)に最大の価値を置いていました。それに対して、アングロサクソン系の資本主義は、短期的に株主利益の極大化を目指す「キャピタリスト・キャピタリズム」(株主資本主義)であって、わが「ジャパノミクス」の方が、マクロ的な経済課題に対して有効で優れているのではないかという意見をのせた本が、当時の書店の経済書コーナーの棚にたくさん並んでいました。

現に、高名な経済学者の森嶋通夫氏が「イギリス病」と断じた活力なきイギリス経済や、鉄鋼業や自動車産業のなどの基幹産業が凋落し、ベトナム戦争後は基軸通貨としてのドルへの信認も怪しくなってきたアメリカ経済を尻目に、日本は、草の根的な企業努力と労働生産性の向上によって、第二次石油ショックを乗り越えつつありました。
今となっては、荒唐無稽に聞こえますが、欧米は歴史上の黄昏を迎えつつあって、いずれ経済の中心はアジア・太平洋に移る、その時、日本は、経済力においてアメリカと肩を並べ、やがて凌ぐことになるかもしれないという近未来予測まで立てられるようになっていたのです。例えば、初学者や若手社会人向けに出版されていた「ゼミナール日本経済入門」シリーズの1989年4版1刷の序章は、次のように書き起こされています。―「戦後40数年、日本は世界各国の人々からうらやまれるような力強い経済発展を遂げた」そして成功したジャパノミクスが機能すれば、これからは「大西洋経済圏が斜陽化し、太平洋経済圏が繁栄する」ー

実際に、日本経済は、高度経済成長を経て1980年代には、ドルベースの一人あたりGNP(国民総生産)でアメリカを抜き、1991年には世界のGDPに占める日本のシェアが15.6%となり、世界第2位の経済規模になっていました。しかも、将来分野とみられていた半導体や民生用電気機器や自動車、造船、鉄鋼業、それに金融業などの国家的な基幹産業において圧倒的な競争力を持っていたのです。

ソニーの盛田昭夫氏は「MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略 1987年」で、企業は常に新技術を育て、新しい魅力ある製品を提供し続けていかない限り、厳しい生存競争を勝ち抜いていくことができない。だからこそ、テクノロジーを磨き、優れた品質の製品を生み出して、新たなマーケットを開拓していく、それが「日本企業の共通した」経営理念である。換言すれば、「絶えざるイノベーションは日本企業の最大の強みである」と胸を張ったのです。

問題は貿易面でした。日本は、1981年以降連続して経常黒字を計上し続け、1992年には初めて1000億ドルを超えます。そして、アメリカを始め各国は、拡大する「通商国家」日本に対して「日本機関車論」(オイルショック後の世界不況を克服するために日本が牽引車になるべきだとする主張)で期待を寄せる一方で、貿易収支不均衡の是正を要求し、自国では保護主義的貿易政策を採って国内産業を守りたいと考えるようになりました。

その前後で、先の盛田昭夫氏と石原慎太郎氏が共同で執筆した「NOといえる日本」という書物が、1989年のベストセラーになります。この二人の論客は、こう主張します。―米国の経済政策や企業経営にこそ問題の本質があるのであって、同じ資本主義、市場主義の土俵で戦っている貿易相手国である日本に対して一方的に「不公正である」と言い募る方が、むしろアンフェアである。日本企業は、これまでニクソンショックやオイルショック等の外部環境の悪化に晒され、厳しい経営を強いられてきた。それでも公正な資本主義のルールをしっかりと守り、生産性の改善やコスト削減に血のにじむような努力をしてきた。今の状況は、米国企業がその努力を怠ってきたことにも一因がある。このようなアメリカの主張や政策は、公平公正な自由貿易を前提とする民主的資本主義国家間の貿易交渉において、より不適切である。政府も財界も、アメリカにたいし右顧左眄せず、経済的にも政治的にも自立して言うべきことはきちんと言おうではないかー。

理論上は、日本の経済が成長して他の国から資源や半製品をより多く買えば、その分相手国の経済も潤うはずでって、日本経済が大きくなって、外国からモノを買い、外国に安いモノを供給することは双方に利益になるというのが自由貿易論の公理である。従って、日本の貿易の拡大は世界経済を攪乱させるとか、日本経済の拡大が外国の産業に一方的に被害を与える というような非合理的な意見に対してはきちんと反論すべきであるというのが、当時の人びとの共通した認識でありました。(図説 「日本経済の将来」~日本経済センター 1980年)
このように、1980年代は日本経済に関する議論が、国内外の知識人の間で活発に行なわれた時期でもありました。

次回では、そのいくつかを詳しく紹介しましょう。


第3講 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と「高度成長の時代」

まず紹介するのは、当時有名なアメリカの社会学者エズラ・ファイヴェル・ボーゲル氏による「ジャパン・アズ・ナンバーワン」です。これは、日本で70万部も売れました。

この著書の中で、ボーゲル氏は戦後の日本経済の高度成長の要因を日本人の国民性や歴史・社会的な側面に求め、欧米の経営システムにはみられない「日本型経営システム」の優位性を評価しました。古来日本人の国民性には「倹約」「勤勉」を徳とし、計算力や読書習慣などの「学習意欲」がビルトインされており、戦後の優秀な官僚によって指導された経済政策・産業政策が、そうした人的基盤を持つ企業群の競争力や成長を後押ししてきたと論じたのです。

その一方で、日本の高度経済成長を仔細に分析し、日本経済の将来に一抹の懸念を投げかけた官庁エコノミストがいました。経済企画庁出身で当時東京工業大学教授であった香西泰氏は、その著書「高度経済成長の時代」(日本評論社 1981年)の中で、高度経済成長を5つの視点から総括しています。
⑴ 高度経済成長は、先進国へのキャッチアップの過程でイノベーションが  連続的に生起してもたらされた。そこには、日本の国家と国民の繁栄への情熱と、まだ完全には欧米化していない日本人の行動様式があった。
⑵ 高度経済成長は、市場条件に敏感に反応する市場メカニズムに依拠して実現された。
⑶ 高度経済成長は、日本社会に特徴的な制度、慣行、行動様式のもとで実現された。
⑷ 高度経済成長は、資源の海外依存と国内の消費水準の向上に対し、加工産業を中心とした技術革新による供給力と輸出力の強化をバランス良く両立させるかたちで発展を遂げる過程であった。
⑸ 高度経済成長は、日本が小国として、世界平和・自由貿易・技術移転を享受しつつ達成した。

この5つの視点から浮かび上がってくるのは、意外にも現代の我々の頭の中にある「閉鎖的、硬直的で非市場的な日本」つまり「市場資本主義の劣等生」といった日本経済のイメージと異なる「平和的で柔軟で活力ある日本経済の現実」の姿です。そして、戦後期の未だ欧米化しきれていない日本人固有の行動様式こそが、高度成長期の日本経済を「市場資本主義経済の優等生」たらしめたとしていることです。旺盛な企業家精神、労働者の高い規律と士気、学習意欲と高い教育水準、産業変化に対応する雇用機会の創出、所得の高位平準化などによる理想的な「市場メカニズム」の働きが、日本の高度経済成長を支える要素となっていたというわけです。

香西氏はさらに筆を進めます。日本は、欧米先進国に追いついてしまうことで、フロンティアを見失い、やがて大きな喪失感に襲われるにちがいない、一方で、「ジャパノミクス」は、今後世界から問題視されるに違いない。だからこそ、これからの日本経済の明日の繁栄を確保するために、日本人は捨て身の努力をしなければならない、と読者に覚悟を求めて結んでいます。

その努力とは、われわれ日本人が、オーストリアの制度派経済学者のシュンペーター氏が定義した「アニマル・スピリット」を持ち続け、捨て身でイノベーションを「起こし続ける」ことなのです。「イノベーション」というカタカナ言葉はとても便利な使い勝手の良い用語なので、「我が社の発展にはイノベーションが不可欠だ」とか「我が国はイノベーションを生み出す活力ある社会にしなければならない」という風に、現代人は、とても安易に使っています。また時に「イノベーション」は「技術革新」と同義に使われることが多く、AIやシステムなどの技術分野での「新機軸」ばかりが注目されがちです。
しかしながら、「イノベーション」という概念は、シュンペーター氏の著書「経済発展の理論」(岩波文庫)で紹介されたもので、その訳者である塩野谷祐一、中山伊知郎、東畑精一各氏は、これを「新結合」という漢熟語に翻訳し、次のように厳密に定義して紹介しているのです。
-「新結合」とは、 ⑴新しい財貨(商品・サービス)の生産 ⑵新しい生産方法の開発 ⑶新しい販路の開拓 ⑷新しい原材料の供給源(サプライチェーン)の獲得 ⑸新しい組織の実現 なのです。

この定義からわかるように、「イノベーション」といえば、なんとなく「無」から「有」を生み出すようなイメージを持ちがちですが、実は、「有」と「有」との「新しい結ばれ方」のことであると理解するほうがより適切なのです。つまり、「イノベーション」とは、単なる「発明」ではなく、技術と技術、技術とヒト、ヒトと組織、組織と技術、組織と組織、などの間の新しい組み合わせのことなのです。

香西氏は、戦後日本の高度成長というものが、こういったイノベーション~いわば技術と組織の柔軟な結合、昇華~が連続して生起したことでもたらされたと指摘しているわけなのです。「経営の神様」ピーター・ドラッカー氏も、香西氏と同じことを、より分かりやすい表現で述べています。
日本企業は、継続的な組織的「カイゼン」の積み重ねによって、やがて生産活動のすべてが変わる。それが製品のイノベーションをもたらし、さらにサービスのイノベーションをもたらす。さらに、それがプロセスの刷新をもたらし、事業の刷新をもたらす、という仕組みを持っていると分析しているのです。そして、こういった連続するイノベーションこそが日本経済の強みであったと結論づけています。

もし、香西氏やドラッカー氏の見立て通りだとするならば、その後の日本経済が沈んだのは、こうした連続的イノベーションを起こすための思想だとかヒトと技術と組織とを結合するシステムが、どこかで機能不全を起こして働かなくなったからではないかと考えることができます。

このことを掘り下げるために、次回はビル・エモット氏の有名な著書「日はまた沈む」から考えてみたいと思います。


第4講 「日はまた沈む」

そして、1990年に出版されたビル・エモット氏の「日はまた沈む」です。そのキャッチーな表題もあってベストセラーになっています。その後の日本経済の歩みをかなり正確に言い当てたこの本を、当時手にした読者の多くは私も含め、頭で理解するとしても、これをそのまま素直に受け入れることには心理的な抵抗感がありました。
私たちの中には「まあ、そういう見方もあるでしょうが、これからの日本経済はおそらくそうはならないだろう。多少減速はするだろうが、これまでのように課題を乗り越えて日本経済は引き続き成長するだろう」という感覚があったように思います。お節介な忠告、あるいは羨望ややっかみなどを感じる向きも少なからずありました。

しかし、今改めて読み返してみると、この本は、実に先見性に充ちたもので、そこで示されたいくつかの論点については、今振り返って誠に残念ながら、相当程度正鵠を射たものです。
例えば「16%もあった個人貯蓄率がいずれ4%程度まで低下するだろう」といった見通しにしてもほぼその通りになっているし、また人口ボーナスの消失と人口オーナスの重圧、豊かさと引き換えに国民の経済活力は低下をするだろうといった予想もほぼ当たっています。

当時の日本では「アメリカ人は浪費家で貯蓄率が低いが、日本人は倹約家で貯蓄率が高い」、「日本は貯蓄したおカネを、銀行などを通じて効果的に最新の設備投資に振り向ける技術立国だ」、「アメリカは格差社会で貧富の格差が大きく労働者の勤労意低が低い、それに対し日本は格差のない勤勉な「一憶総中流社会」で、生活の向上に向けた意欲が旺盛である」といった通説が一般的で、それがこの後もしばらくは信じられてきました。

しかし、この信念は21世紀を待つことなく、ほとんど妄信であったことが、すでに明らかとなっています。

例えば貯蓄率の問題。後に詳しく論じるつもりですが、日本の貯蓄率は、2020年以降コロナ感染症の影響で若干上昇したものの、それまでの基調としては4%程度まで低下していました。

企業部門では、バブル崩壊とその後の金融危機、2009年のリーマンショックで、クレジットクランチ(信用収縮、融資枠の縮小)の痛手を受けた経験から、手元流動性を高めて財務上の備えを優先するようになりました。財務会計的にいえば、財務リストラクチャリングにより資産を圧縮する一方で利益準備金などの内部留保を増やし自己資本比率を高める戦略を重視するようになりました。そのために、人件費を減らし、将来に向けて必要とされる投資におカネを回さない、構造が定着するようになりました。これには、厳しいときにこそ、倹約、勤勉を美徳とする国民性が与るところが大きかったといえますが、主だった企業がこのような企業行動をとると、労働と資本と技術進歩率の正関数である経済成長率は必然的に低下していきます。

また、現代の日本社会は「一億総中流」といったものではなく、富裕層とワーキングプアといった階層の貧富の「格差」、地方と大都市圏、郊外と都市部、親の貧富に起因する教育環境の「格差」、地方での高等教育の低下など、様々な面で「格差」が拡大し、公平性と平等性が損なわれ、社会の安定性すら懸念されるようになりました。

エモット氏の「日はまた沈む」は、このように日本経済の将来を鋭く分析したわけですが、これが当時広く注目された背景には、当時欧米から見た日本経済への羨望と嫉妬の視線の存在があったことも否定できません。日本人は、外国人の目をとても気にする民族なのです。

そして、エモット氏は2017年に日経新聞社から「西洋の終わり」(日本版)を出版しています。その第7章「日本という謎」で現代の日本経済について、次のように書いています。
ー強い円で超低金利の借金をして、海外の資産を買い込んでいた日本は、世界の頂点に立ったかに思えた。・・・そして、大暴落が起こると、経済システムの大部分が凍りついた。シュンペーターが資本主義の精髄とした「創造的破壊」(イノベーション)は、日本に存在していなかったー
前講の香西氏の分析とは全く真逆の意見です。面妖なことに、日本の「イノベーション」や「アニマルスピリッツ」は突然消滅してしまったのでしょうか。

1990年から東日本大震災までの「失われた20年」は確かに日本に内在していた矛盾や問題が一気に噴出して演じられてきたものであったには違いありません。しかし、その本質に迫るには、それだけで説明するのでは十分ではありません。単なる経済変動論や統計学的分析とは異なる歴史的視点や経済思想から、これを見ていくことがどうしても必要です。
例えば、この時期並行して、強い円を背景にひたすら貿易黒字を積み上げる「増長慢な日本」に対する通商交渉が、アメリカやイギリスで主流となった自由市場資本主義とグローバリズムの旗印の下で、強硬に推し進められたということの背景を、歴史的、思想史的に探ることがとても重要な意味を持ってきます。

これについて述べる前に、少し時代を遡って、イギリスのマーガレット・サッチャーとアメリカのドナルド・レーガンの登場に触れておく必要があります。その後の通商交渉の論点は、この時代の両国の経済政策と深い関係があるからです。
ということで、次回は「サッチャリズム」と「レーガノミクス」です。


第5講 「レーガノミクス」と「サッチャリズム」

1981年、ロナルド・ウィルソン・レーガンが、ベトナム戦争疲弊した疲弊したアメリカを立て直す、「強いアメリカ」の復活を標榜して第40代大統領として登場しました。もちろん、アメリカ市民に「強いアメリカ」の復活をアピールするためには、誰に対して強いのか?つまり「仮想敵国」の存在が必要です。一つには、軍事的・政治的にはソヴィエト社会主義共和国連邦であり、今ひとつは、経済面における「敵対的貿易相手国」としての日本が、それです。日本は安全保障上は同盟国ですが、経済的にはアメリカに対して敵対的な国家と見なされていました。

レーガン大統領就任当時のアメリカ経済は、深刻なスタグフレーション(景気が後退していく中でインフレーションが同時進行する現象)に苦しんでいました。そこで、レーガン大統領は、就任早々に停滞するアメリカ経済を立て直すために、
⑴ 政府支出の抑制
⑵ 大幅減税
⑶ 規制緩和(ディレギュレーション)
⑷ 通貨供給を一定とすること
を柱とする新しい経済政策を発表します。これまでの高福祉社会の実現とケインズの総需要管理政策を否定するこの政策は、後に「レーガノミクス」と名付けられることになります。
この「レーガノミクス」には二つの骨格がありました。
一つは、この経済的苦境は、労働生産性や労働意欲の低下、設備投資の減退などの「供給サイド」に問題があってもたらされたものであるから、ケインズ経済学が教える裁量的な財政支出よりも、減税による設備投資の喚起こそが有効であると主張する「サプライサイド経済学」です。
もう一つは、シカゴ学派のミルトン・フリードマン氏の主唱する「新自由主義」・「市場主義」・「小さな政府」による経済運営と通貨供給増加量一定を原則とする「マネタリズム」といわれる金融政策です。

また、その少し前にイギリスに保守党のマーガレット・サッチャー首相が登場しています。「ゆりかごから墓場まで」の高福祉国家の実現を目指した労働党政権下で「英国病」と呼ばれるまで疲弊していたイギリス経済を再建するために、サッチャー首相は新自由主義的経済政策を強いリーダーシップの下、強力に推し進めていきました。具体的には、公共的分野にも市場原理を導入して、鉄道をはじめとする国営インフラ企業の徹底した民営化を進め、金融面では、規制緩和と自由化を柱とする「金融ビッグバン」を断行し、こちらは「サッチャリズム」といわれました。

結論から言えば、アメリカは「双子の赤字」といわれる貿易赤字と財政赤字を抱えることとなり、イギリスにおいても「シティ」つまり金融だけは、強くなったものの肝心の製造業が衰退し、貧富の格差の拡大を招いたり、インフラ投資が行き渡らなかったりして、両国とも経済政策としては、必ずしも成功したとはいえないものでした。
戦後1960年代までのアメリカ経済の繁栄は、そもそも総需要管理を政府の役割として重視したケインズ政策と、これによって生まれた分厚く豊かな中流層によってもたらされたのですが、「レーガノミクス」によって経済活動を自由競争に委ねて以降、超富裕層と庶民との間の所得格差がどんどん拡大、貧困率が上昇し、逆に中流層が薄くなって、現代のアメリカ社会は分断し安定性が損なわれているといわれています。

しかし、それでもこの1980年代の「レーガノミクス」と「サッチャリズム」の華々しい登場を契機として、国際経済の世界では「自由市場資本主義」が教義としての正当性を確立し、普遍的価値としての「グローバリズム」を進めるべきであるという大きな潮流が定着しました。
その背景に、ソヴィエト社会主義共和国連邦の崩壊と冷戦の終結、中華人民共和国における鄧小平の市場主義導入の試みといった大きな国際政治上の流れがあり、世界はやがて民主主義・自由主義へと収斂していくだろう(フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」1989年)という思想的な流れもありました。
かくして経済面では、「グローバリズム」の下に集う国や経済主体は、すべからく「自由市場資本主義」の教義に従って経済活動をすべきであるというような考え方が有力となり、それに沿って国際間の通商交渉や経済上のルールの取り決めが整えられていくようになりました。

例えば、実際の日米通商交渉では、「グローバリズム」「自由市場資本主義」の教義に従って、専ら日本に対しては貿易障壁を下げることを求めながら、自国アメリカにおいては、一部の輸入産品に対し懲罰的高率関税や、輸入数量制限といった露骨な保護貿易主義的な政策をとるような、面妖なことが行われました。一見矛盾するこのような対日政策の論拠となったのは「相互主義」(本来は、相手国の自国に対する待遇と同様の待遇を相手国に対して付与するという前向きな考え方)の逆用です。
「自由市場主義の国」アメリカからみれば、日本の市場に参入しづらいのは、日本経済が非自由主義的でアンフェアな構造になっているからである、従って、「公平性」の見地から、アメリカがフェアだと満足する水準に到達するまで、相手国の日本が経済構造の変革にも努力すべきであり、それまでは、強権的に自国の市場を閉ざしたり、懲罰的な関税政策を用いてもよい、という理屈なのです。この考え方で法制化されたのが、1988年の「包括貿易・競争力強化法」で、「スーパー301条」で有名な法案です。「グローバリズム」「自由市場資本主義」の教義の下では、その実現のためには「目には目、歯には歯」が許されるということです。またこうすることが、政治的にアメリカ市民のコンセンサスがもっとも得やすいという実利的な政策でもありました。

しかし、国際経済学者のキンドルバーガー氏が指摘したように、「自由主義貿易が自国に利益をもたらすことが明白な場合においては、その正当性を相手国なり世界に向けて主張するが、政治的経済的利害対立が生じた場合は、理性よりもナショナリズムといった感情論が政治と政策を動かし、保護主義的貿易政策が臆面もなく選択される」ようなことが行なわれることは歴史が証明しています。まさに、当時の日米通商交渉でみられたことであり、遡っては、17世紀の英蘭戦争、19世紀のアヘン戦争や20世紀の大恐慌時のブロック経済、現代21世紀の米中経済摩擦と幾度となく繰り返されてきたことなのです。

もう一つ、自由市場資本主義とグローバリズムの流れを、一層加速させる事象が20世紀の末に起こります。IT革命です。自由市場資本主義の教義が金融工学やICTと結びついて、金融テクノロジーに革命の引き起こしたのです。金融取引のアルゴリズムの高度化と超高速化は、アメリカを中心としたネットバブルの急速な膨張とその崩壊(1998年の「LTCM破綻事件」など)、今世紀初頭の「リーマン・ショック」(2008年)という深刻な問題を起しつつも、アメリカ経済に活況をもたらし、グローバル化の流れに沿ってますます金融技術は高度化し、複雑化してきました。いまや金融技術はあらゆるものを金融商品化し、しかも実物経済に分かちがたく紐付けられているために、金融市場の与える動揺の影響は計り知れないほど大きく、それにもかかわらず、一般の人々には知り得ない巨大なブラックボックスとなっています。

こういった、自由市場資本主義やグローバリズムの「先進的」な潮流に晒されて、当時の日本のリーダーであった人びとの目には「ジャパノミクス」が色褪せて見えたに違いありません。

次回は、日本における「自由市場資本主義」と「構造改革論」について触れていきたいと思います。



第6講 不適切?な「ジャパノミクス」日本型経営システムの放擲

ともあれ、華々しい「レーガノミックス」や「サッチャリズム」が纏っていた「斬新さ」ゆえに、当時の日本のオピニオン・リーダーであった人びとの目には「ジャパノミクス」という日本型経営システムが色褪せて見えたに違いありません。「ジャパノミクス」に対して抱いたその「後進的」な意識が、欧米との通商交渉を経て、自由市場資本主義の教義を丸呑みする素地となり、あたかも「レーガノミクス」や「サッチャリズム」の政策をなぞるように、日本においても、国鉄、郵政、電電公社など準国営企業の民営化や様々な業種における規制緩和(ディレギュレーション)、日本版金融ビッグバンなどの自由主義的経済政策が導入されていくことになるのです。

1980年代から2000年代のはじめに至るまで、アメリカなどとの貿易交渉が継続して進められましたが、議論は当初の個々の産品の取り扱いから、やがて「ジャパノミクス」という日本型経営システムそのものが机上に乗せられるようになります。そこでは、日本型経営システムが、アングロサクソン型経済システムに対し「後進的なもの」「異質なもの」さらに進んで「不公正なもの」「アンフェアなもの」であるということが前提となっていて、これをいかに是正させるかについて交渉の対象とするようになったのです。

ところで、アングロサクソン型経済システムとは、かつて「ジャパノミクス」の「カンパニー・キャピタリズム」に対峙するところの「キャピタリスト・キャピタリズム」(株主資本主義)で成り立つ経済システムにほかなりません。そして、このシステムが前提としているのは、自由市場資本主義の教義であり、これを世界に広げるグローバリズム思考です。日本は、熾烈な通商交渉を通じてその教義を学び、感化され、やがて「ジャパノミクス」を放擲し、グローバリズムの潮流に自ら身を投げたのです。

しかし冷静にみて、そもそも当時の日本経済は急速な円高に苦しんでいたとはいえ、深刻なスタグフレーションには陥ってはいませんでした。それどころか、むしろ各企業の不断の経営努力と連続するイノベーションにより原油価格上昇によるコストプッシュ部分を消化しつつありました。具体的には、技術的な創意と工夫やTQC活動によって草の根的に生産システムを「カイゼン」効率化することで、円高に抗して相応の輸出競争力を維持できていましたし、マクロ経済的にも、未だイギリスやアメリカのような深刻な財政赤字や貿易赤字にも悩まされることもなかったのです。何より国民の勤労意欲や士気は高く、「持ち前の」倹約の美徳で貯蓄率も維持して「省エネ」や「ロボット化」などに向けた企業の投資意欲も旺盛だったのです。大づかみにいえば、当時の日本では、「ジャパノミクス」はまことに「よくやっており」、労働生産性が高くイノベーションが連続的に生起し、成長エンジンも健在であったわけで、つまり日本の「サプライサイド」には問題がなく、そもそも「レーガノミクス」や「サッチャリズム」が必要とされる経済状況にはなかったのです。

通商交渉についていえば、「新自由主義」を標榜しているはずのアメリカの貿易政策こそ、とりわけ日本に対し保護主義的といわざるを得ないものであって、経済システムそのものは、日本の方がはるかに市場的でありました。仮に相互主義を徹底したとしても、半導体や自動車、家電など日本製品に高付加価値産品が多かったために、日米の貿易の不均衡が解消しない可能性が高かったのが実情でした。それは、実際に争点となったのが、日本の高付加価値産品のダンピング認定や特許権の問題であり、アメリカの牛肉やオレンジなどの農産品の自由化であったことをみれば容易に想像がつきます。
このようなアメリカ側のまことに「居心地の悪い」立ち位置を解消するためには、日本固有の国民性や社会的基盤そのものの異質性に焦点を当て、その基盤に立つ日本の経済システムそのものの「不適切」性を問題視して、これを是正させる(あるいは脆弱化させる)べきであるとする政策的判断があったと考える方が自然です。

そして、いずれにせよその後の歴史の教えるところでは、日本は、この潮流に身を任せて、公共事業体の民営化(JR,郵政、JT,NTT)、政府による諸規制(レギュレーション)の撤廃、非関税障壁の撤廃と市場開放、自動車や半導体などの「自主的」輸出規制、製造業の生産拠点や技術の海外移転の促進、さらに金融開放(「日本版金融ビックバン」)、時価会計の導入(財務会計ビックバン)」など、日本の経済システムの基盤に関わる部分の「改革」を官民挙げて次々に実行していくことになったのです。

これらの「改革」の適切性については、いまだ様々な議論が定まらないといってよいでしょうが、現実はすでに既成事実化しています。そして、後に詳しく触れることになりますが、やがてアメリカで起こったことが「失われた20年」後に日本でも起こります。アメリカやイギリスと同様に、自由市場資本主義的な「構造改革」によって、所得格差は拡大し、貧困率は上昇し、地方は疲弊してしまったのです。
日本における「新自由主義」的経済政策の導入は、「経済の活性化」、「生産性の効率化」、「社会的公平」といった部分で、本来期するところの成果を得ることは少なく、むしろその副反応として、「貧富と教育格差の拡大」「中間層の希薄化」「金融力の低下」「財政の赤字」「国内製造業の弱体化」「社会福祉や社会インフラ投資の停滞」「首都圏への過度集中と地方の衰退」を受けとってしまっています。

それでは、なぜ、当時の日本がこのような合理性に問題のあるかもしれない政策を急いで受入れてしまったのでしょうか。ひょっとしたら、日本は、欧米諸国の自由貿易政策の下で繁栄を手に入れたのであるから、今、アメリカが苦しんでいることを尻目に、日本のみが自由貿易のメリットを享受し繁栄を続けていくのは、道義的にも「不適切である」ーというような極めて情緒的な気分が作用していたのかもしれません。たとえば、1985年の中曽根康弘総理大臣が行なった「国民一人あたり100ドルの外国製品を買いましょう」という国民向け談話です。これは、日米貿易不均衡を緩和する目的で行なわれたものですが、日本国民のみならずアメリカ国民に対してもずいぶんと失礼な話だなという印象を持ったものです。

実は、そうした「適切」と思えないような政策の選択に、1990年代に決定的な影響をあたえたのが、バブル経済の崩壊なのです。次講では、いよいよバブルの崩壊がもたらした日本人の社会的信頼の喪失について考えてみたいと思います。


第7講 自由市場資本主義の「双子の兄弟」~日米構造協議と構造改革

1980年代から、様々に形を変えて20年以上も間断なく行われた日米通商交渉の推移をクロニクル的に辿っていけば、アメリカの対日交渉の戦略性が透けて見えます。当時アメリカは、自由主義的市場主義の旗印のもと、日本に対して個別産品の関税の引き下げなど貿易の自由化を求める一方で、特許権侵害やダンピング認定によって、日本企業によるアメリカの基幹分野、将来分野にかかわる対米輸出に制限をかけるなどしていましたが、やがて対日赤字の縮小が進まないことの原因は、日本の経済「構造」にあるとして、その是正、具体的には、政治主導による「ディレギュレーション」(規制緩和)と実物市場・金融市場の急速な自由化を強硬に迫るようになります。「日米構造協議」といわれたこのような通商交渉を長く続けていくことで、「ジャパノミクス」日本型経済システムはその強みを、徐々に削がれていったのです。やや穿ちすぎかもしれませんが、この時期、日米通商交渉とほぼ重なるように起こったバブル経済の崩壊と金融危機を契機として「ジャパノミクス」が融解し、「失われた20年」という日本経済史上空前の災禍に見舞われたという事実関係は否定することはできません。

そして、この長期低迷期を脱した2012年以降、今に至るも、その後遺症として「少子高齢化」「巨額な公的債務」「競争力や生産性の低迷」といった資本形成・労働力確保・技術革新といった重要な経済要素に関わる深刻な問題に私たちは直面しているのです。

実体験として記憶にとどめている人は少なくなりましたが、半導体製造分野で、日本がより低廉で高性能な製品の開発に成功しつづけ、世界の市場を席巻していた時代がありました。しかしながら、当時大学には電子工学を目指す優秀な学生が集まり、多くの研究者がこの将来の基幹技術の確立に成功していたにもかかわらず、結果として、日本はその競争優位性を維持することに失敗してしまったのです。
その原因として、日米半導体協議によって課せられた輸入価格と数量の制限により、直接的には経済的な妙味が得られなくなった、つまり儲けられなくなったということ、それによって、日本国内での技術開発意欲を削がれたということにあったことが挙げられます。経済学の教えるところでは、企業は、儲からないところには、おカネやヒトや技術といったリソースを投じるようなことはしません。そのことで実際に「アニマルスピリッツ」を持つ優秀な技術者が国外に流出し、技術流出につながったといわれています。

その帰結は、今に見ることが出来ます。日米通商交渉において、制限を受けた分野の隙間を埋めるように、半導体・エレクトロニクスのほかにも、鉄鋼や造船、自動車産業において、この時期の近隣新興国の発展はすさまじく、多くの分野の製造業がキャッチアップされ、数量的にはもちろんのこと、技術面においても、もはや太刀打ちできない状況となってしまっています。

また、20世紀末に日本から半導体産業の覇権を取り戻したアメリカでは、この時期、インターネット技術や金融技術におけるダイナミックなイノベーションが、シリコンバレーを中心に巻き起こりましたが、これが日本に、大きなうねりとなって波及することはありませんでした。

当時アメリカや新興国において、半導体やインターネット、通信、液晶技術などの近未来の基幹的技術の開発と応用が、政策的に手厚く保護され、戦略的に育成されていたにも拘わらず、こと日本に関しては拱手傍観の体で、かつて通産省(MITI)が果たしたような戦略的な育成政策が採られるようなことはなく、むしろ、自由市場資本主義の優等生たらんとして、政府が個別の産業政策にコミットすることを憚っていたように思われてなりません。

一方、アメリカとの通商交渉のさなかに起こった1990年のバブル経済の崩壊は、日本経済に壊滅的打撃を与えるとともに、かねて内在していた経済社会における歪みをも露呈させることとなりました。
1992年に住専問題や佐川急便事件の処理を巡って自民党政権が倒れ、細川連立内閣が誕生してから後は、政局は流動化しいわば「司令塔のない」状況になります。1990年代半ばには、阪神淡路大震災やオウム真理教事件など社会を震撼させる事件が相次いで起こる中で、企業トップが相次いで何者かに襲われて殺害されたり、政財界や金融界の不祥事が多発し、多くの大企業や金融機関が破綻しました。

こうした20世紀末の社会的不安の時期に会社の倒産やリストラ、手取り給料の減少、資産の下落やローンの重圧によって、金銭的にも窮迫した人々の中に、これまでの「ジャパノミクス」は信用できないといった不信感が兆し始めます。そして、この「信頼感の喪失」こそが、その後の日本経済にとって致命的な意味を持っていたのです。

「ジャパノミクス」というのは、経済理論でも経済政策でもなく、経済構造そのもののことを指しています。これは、歴史的に日本の経済社会を成り立たせてきた暗黙の社会的コンセンサスに根ざした固有のもので、国、企業、国民など経済主体間の「相互信頼」によって堅く結ばれた土着的な経済システムでありました。それだけに、暗黙の相互信頼が損なわれることで、あれほど堅牢に見えた「ジャパノミクス」という日本型経営システムは、あっというまに融解し始めることになったのです。

まず、「ジャパノミクス」の下部構造としての金融システムは、言うまでもなく「信用」で成り立っています。企業への「信用」や銀行への「信頼」が揺らげば、当然実体経済は危地に陥ります。しかも、この「信用」「信頼」は一旦揺らいでしまえば、これを復旧させることは容易なことではありません。人びとは「疑心暗鬼」に支配され、そこでは古典派経済学の説くように、経済合理性だけで人びとの経済行動を導くことは不可能です。ですから、この金融危機は、「信用」が回復したことを、人びとが確信するまで絶対に収束しないのです。現に1990年代後半の金融危機は、小泉純一郎内閣の竹中平蔵氏が指揮した2002年の「金融再生プログラム」の荒療治によって主要銀行の不良債権を徹底的に潰し(実際には貸倒引当を立てるために自己資本を増強させること)て、銀行に対する「信用」を回復させることで、ようやく収束に向かったのです。

一方、上部構造である「ジャパノミクス」という日本型経済システムは、健全な財政、貿易収支、経済成長を前提とする総需要管理政策を基本としていました。しかしバブル崩壊のもたらした逆資産効果は強烈で、一気に実物経済を収縮させ、小出しの財政出動では、到底景気を浮揚させることが出来なくなりました。そこで登場してきた処方箋が、アメリカやイギリスですでに実践されてきた「自由市場資本主義」的経済政策なのです。具体的には国有から民間への経済主体の移管、政府介入の抑制、内外の競争環境の整備、ディレギュレーション(規制緩和)といった、いわば「上からの市場化」政策で、これらを一括りにして「構造改革」としたのです。この「構造改革」は、明らかに「日米構造協議」と双子の兄弟のような関係にあります。

そもそも当初から「構造改革」の「構造」とは何を意味し、そこをどうして改革しなければならないのかといった議論があまりなされていなかったように思います。それでも「構造改革」を語れば斬新でもっともらしく、「ジャパノミクス」の有効性やケインズ政策を語れば古くさく、その論者は「守旧派」のレッテルを張られかねない社会的空気が醸成されるようになりました。
「構造改革」とは、文字通り「既存の」構造の否定であり、それを支えてきた「既存の」経済システム、経営システムの否定、さらに広くは政権や政治体制の否定にもつながり、現状に不満を持つ人々にとって受け入れられやすい時代環境が後押ししていた面もあります。ですから、本来、構造上の問題があったとすれば、これを適切なものに改善しようとするべきなのですが、当時はこれを二元論に落とし込んで、とりあえず否定する、すなわち守旧派を「ぶっ壊す」ことから議論が始まったのです。

そこで、次回は、礼賛から数年を経ずして巻き起こった強烈な「ジャパノミクス」批判と「構造改革」論について、当時の議論を振り返ってみたいと思います。


第8講 「ジャパノミクス」融解のはじまり

ー「敗戦の焼け跡から今日の日本を建設してきたお互いの汗と力、知恵と技術を結集すれば、大都市や産業が主人公の社会ではなく、人間と太陽と緑が主人公となる「人間復権」の新しい時代を迎えることは不可能ではない。1億を越える有能で、明るく、勤勉な日本人が軍事大国の道を進むことなく、先進国に共通するインフレーション、公害、都市の過密と農村の過疎、農業の行き詰まり、世代間の断絶をなくすために、総力をあげて国内の改革にすすむとき、世界の人びとは文明の先端をすすむ日本をそのなかに見出すであろう」ー
これは、田中角栄元総理大臣の「日本列島改造論」(1972年)から引用した一節です。
いま、これだけ希望に満ちた力強いメッセージを発信できる政治家は、残念ながら見当たりません。

「日本列島改造論」は、1972年に出版されたもので、丁寧に読んでいけばわかりますが、単なるアジテーションではありません。約15年後の昭和60年(1985年)までに日本が直面するであろう問題点をまず示し、そこから「バックキャスト」してその解決のために今何をすべきであるか、極めて具体的な数字を並べて自身の言葉で書いているのです。データ収集や構想の文書化には有能なスタッフがいたでしょうが、田中角栄氏自らの構想を言葉したものとみて間違いないでしょう。興味深いので、これについては、いずれ詳しく触れてみたいと思います。

閑話休題。
1970年大坂万博(EXPO70)で日本中が盛り上がったころから、高度経済成長の要件の一つであった自由貿易と輸出主導経済モデルに陰りが出始めます。そもそも万博後景気は踊り場に入る、との観測はありましたが、1971年に「ニクソンショック」という想定外の大事件が起こります。ベトナム戦争による軍事費拡大などで財政が悪化したアメリカが金とドルとの兌換停止を宣言したのです。これによって、1ドル=360円という固定相場制から、円の平価は大幅に切り上がります。1972年には、沖縄返還問題と絡んで日米繊維交渉が決着しますが、その結果主要輸出産業であった繊維業は厳しい状況に陥ります。さらに1973年に第1次石油ショックが追い打ちをかけます。原油価格の上昇が、軽工業から重機械工業への転換を図りつつあった日本経済に深刻な打撃を与えることは避けられない状況となりました。
かくして外部環境の変化によって、有利な平価と低廉な製造原価によって加工貿易で稼ぐという日本の経済成長モデルの前提条件が崩れてしまったのです。田中角栄氏が、「日本列島改造論」を引っ提げて総理大臣になったのはこの頃のことです。

田中角栄氏の「日本列島改造」の試みは、オイルショックと「ロッキード事件」により挫折しましたが、それでも1980年代を通じて日本経済は、個別企業による連続的イノベーションと生産性の向上への取り組みにより、第2次オイルショックなどのさらなる外部環境の悪化を乗り越えて堅調に推移しました。
しかし一方で、輸出主導で貿易黒字を積み上げる日本と欧米諸国との間の貿易摩擦は、次第に深刻化していきます。
ところが、当時の経済誌などを読むと当時の日本の受け止め方が意外にのんびりした論調が多いことに気付かされます。
ー 日本も他の欧米諸国もそれぞれ、社会的・歴史的背景が異なってはいても、ともに市場主義と自由貿易を「是」とする民主主義国家であって、自由貿易は市場原理の働きによって世界経済を活性化させるという共通認識があるはずだ、従って、相互理解を深めて誤解を解き、お互い歩み寄る努力をすれば、いずれ軋轢は解消することが出来るであろうー、
とする見方が多いのです。

しかし、1989年ベルリンの壁が崩壊し、1991年のソヴィエト社会主義共和国連邦の解体により、東西の冷戦は清算されます。また、自由民主主義と隔絶した中国は天安門事件後も鄧小平の「改革開放路線」は歩みを止めず、共産党一党支配の下でマーケットメカニズムの導入が試みられつつありました。そうした時代の流れを受けて、日本や欧米諸国の間には、自由市場資本主義の正当性が、歴史によって証明されつつあるとの共通認識が芽生え始めました。こうした状況を踏まえたフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」(1992年)は大きな反響を生みました。
自由市場資本主義の担い手である欧米型民主主義が勝利を収め、これからの世界は「自由主義」「市場主義」の教義の下で、統合へと向かうであろう、といったグローバリズムの機運が盛り上がり主流をなすようになっていったのです。
そうなると、当然そのグローバリズムのヘゲモニーは誰が握るのか、という点が問題になります。すなわち、「自由主義」「市場主義」を共通項としてもつ「資本主義国」対「資本主義国」の競争があらたに生まれてくることになったのです。
そこで最初に標的とされたのが、ともに敗戦国でありながら驚異的な経済成長を達成した西ドイツ(当時)と日本なのです。「資本主義国」同士の競争は、現象面では「貿易戦争」です。
最初の議論としては、巨額な貿易黒字を抱える両国には世界経済を牽引する義務があるとする「日独機関車論」が持ち出され、さらにドル/円、ドル/マルクの為替レートを多国間交渉、協調介入の枠組みで解決すべきだと考えられました。これが、1985年の先進5カ国によるプラザ合意の伏線となったのです。
しかし、プラザ合意後確かに急速な円高の流れは進んだものの、日本では、「草の根的」企業努力でその影響を吸収してしまい、アメリカの対日赤字は想定ほどには縮小しませんでした。しかも、1980年代の中頃になると、プラザ合意後の円高と総需要喚起のための無理な財政政策で過剰流動性が生まれ、日本経済はバブル景気の時代に突入します。
一方、アメリカでは、対日貿易赤字が縮小しないのは、「異質」で「不公正」で「不公平」な日本の経済構造と日本企業のダンピングなどの経済行動に問題があるからだという、やや感情的で荒っぽい議論が強まってきました。それが、1987年の「包括通商法案」による対日半導体報復や富士通に対する特許違反事件の摘発、1989年4月の包括通商法スーパー301条の適用(スパコン、衛星)、1990年の対米輸出自動車自主規制などの厳しい貿易制限といった形で突きつけられるようになっていったのです。

こうした外部環境の変化に直面しても、まだ1980年代は「企業の永続性」「雇用の安定性」「成長」を普遍的な価値とする「ジャパノミクス」に対する人びとからの信頼は厚く、日本経済そのものにに大きな動揺がみられるようなことはありませんでした。

しかし、それが一変します。

1990年代に入ってバブル経済は崩壊します。バブル崩壊による景気の低迷で国富を失い、人びとの現実の暮らしが厳しくなり、もう日本の経済成長に自信が持てなくなったことで、これまでの日本の経済社会を支えてきた人びとの価値観が変質し始め、前講で触れたように、日本社会の根っこにあった「相互信頼」に基づく共同体意識も揺らぎ始めます。
これまでは外部環境が悪化しても「相互信頼」に支えられた日本の経済社会の岩盤までが揺らぐことはなかったのですが、長引く不況で閉塞感が高まり、インチキや不祥事が次々と露呈していく中で、政治家や行政官僚のみならず、日本企業の体質そのものの正当性が疑われるようになってきました。人びとは社会への信頼を徐々に失っていったのです。

そして、 この時期の日本での政治面・経済面での相互信頼の揺らぎをさらに加速させたのが、この時期に世界的に自由市場資本主義とグローバリズムという価値観が、急速に日本の経済社会に浸透していったことなのです。自由市場資本主義、特にアングロサクソン型の資本主義が主流となり、グローバル化していく世界の中で、「ジャパノミクス」はおかしい、という議論が、海外からのみならず国内でなされるようになります。

例えば、龍谷大学教授であった奥村宏氏は、大企業の株式所有構造、つまり企業間における「株式の持合い」に着目し、日本型資本主義の特色を「法人資本主義」と名付け、「アングロサクソン型資本主義」との相違点を問題視しました。日本の企業は誰のものかという「所有」の問題を考えたとき、日本の企業間にビルトインされていた「株式の相互持ち合い」という慣行があることは大問題であって、これが資本主義の前提となる公正な競争環境と健全な日本経済の発展を阻害している原因であると論じました。現在の政策投資株解消の淵源はここに始まっているのです。

次回は、この奥村宏氏の「法人資本主義論」から始めたいと思います。


第9講 「法人資本主義論」と「経済構造改革論」が「ジャパノミクス」を        
    追いつめる!
 

1980年代までの日本の経済構造は、企業間の「株式相互持ち合い」によって企業系列や企業集団が形成されていて、さらにその内部に「終身雇用」「年功序列賃金」「企業別組合」が重層構造をなし、それを外から政・財・官が「三位一体」で支える仕組みとなっていて、奥村氏はこれを経営者主導の「会社本位主義」または「法人資本主義」の経済体制と呼び、これこそが戦後日本の経済成長を支えてきたのだとします。

しかし、こうした企業間の「株式の相互持ち合い」は、経営者の支配力と防御力を高めることを目的としているために、一般株主は不当に軽視され、自由市場資本主義における健全な日本の経済社会の形成の妨げになっているとして、「法人資本主義」の問題点を以下のように整理しています。

  1.  株式所有の空洞化(株式市場の流動性の阻害)をもたらし、業績と連動しない株価維持システムを作りだし、株式市場を歪めた(バブルの発生)。

  2.  系列内外の業務提携を支える株式の持合いが、企業経営に対する監視機能を弱め、結果として無能な経営者による放漫経営(経営者のモラルハザード)を生み出した。

  3.  この監視機能の無効化が、会社不祥事の温床となり、その続発に歯止めをかけることのできない経済構造を生み出した。

  4.  年功序列に甘えて死ぬまで会社にしがみつく「会社本位人間」が前提の雇用関係(従業員のモラルハザード)を常態化させ、企業の活力を阻害した。

この「法人資本主義論」は、折からのバブル経済の崩壊の過程で、たとえば、財テク(本業外の金融商品や土地取引で高収益を稼ごうとする財務戦略)の失敗による企業破綻や、「持ち合い崩し」(当座の資金捻出、あるいは決算時の益出しのための持合い株の大量売却)による株価急落、株式売買にかかわる数々の金融不祥事、政・財・官の癒着スキャンダルなどが、明るみに出ることで、日本型経営システムを「誤った異形の」経営システムと決めつけるのに非常に強い説得力を持った所論となったのです。(「墓穴を掘った日本型企業システム」 奥村宏 エコノミスト1993.5.17臨時増刊号「戦後日本経済史」)

ところで、初学者や新人社会人が手にした当時もっとも一般的な入門書の一つであった「ゼミナール現代企業入門 1989年版」(日本経済新聞社)では、株主を重視するアングロサクソン型資本主義に対峙する「カンパニー・キャピタリズム」(「会社資本主義」)こそが日本経済の強みであると論じています。この「会社資本主義」とは、奥村氏のいう「法人資本主義」と定義においてほぼ同じです。しかし、両者の立論では、日本経済にとっての功罪が全く真逆になっているのです。

「会社資本主義」システムが本当に不適切であったか、ということについては、後の議論として措くとして、私には、このたった三年足らずの間に、どうしてこれほどの経済システムに関するパラダイムの転回が起こったのかという点にこそ関心があります。

先走って言いますと、1990年代前半からは、自由市場資本主義とグローバリズムから逸脱している日本型経営システムを破却することで、バブル崩壊後の閉塞状態を打破すべきであるという議論が有力となります。
代わりに浮かび上がったのが、さまざまな規制や行政の関与を極力排除し、民間活力の活性化と貿易分野を含むさまざまな分野の「ディレギュレーション」(規制緩和)の実施を骨子とする「経済構造改革論」です。
そして、それは、1998年その集大成ともいえる小渕恵三内閣の諮問機関「経済戦略会議」の提言として結実し、その後の政府の経済運営に最も強い影響を与えることになります。

前にも述べましたが、そもそも「構造改革」とは何であるか、ということについて、当時の人びとの間でどの程度の理解が得られていたかは、判然としません。
構造改革派は、規制に守られた当時の経済構造には、なんらかの重大な問題があり、それが利権を生み、不正の温床にもなり、自由競争を妨げ、経済の活力を奪うものであるから、規制を減らす「改革」をしなければならない、そして、時のグローバリズムの流れに沿うよう日本の経済システムを「構造改革」して、規制のない自由で公正な貿易を担保するようなものに改めなければならない、といいます。
つまり、既存の「ジャパノミクス」を全く破却し、自由市場資本主義に沿った経済構造に作り変えることこそが、日本経済回復のための処方箋であるという考え方なのです。

もしそれが処方箋であるならば、どういった「構造」が、日本経済にとって成長や回復の妨げになっているのかを数量的に分析し、それをどのように「改革」すれば、どれだけより良いものが得られるのか、を示されなければならなかったでしょう。そしてその上で、その「改革」がもたらす痛みとか副反応をどの程度まで許容し、耐えなければならないかを議論し、客観的な情報として人々に与えられるべきだったでしょう。しかし当時こういった点について、あまり中心的に議論されることはなく、人びとの側でも万全な準備が整っていなかったように思われます。

むしろ、当時の人びとは、自らの生活にとって現状の経済状況が不適切であると感じていて、その不適切な状況をもたらしている「旧弊」を守ろうとする「守旧派」は退治すべきだ、とする構造改革派の議論には、漠然とした期待を抱いていました。バブル後の重い閉塞感からの脱却と変革への人びとの希求は、まことに切実だったのです。
実際、民意は揺れ動き、1989年の竹下登首相退陣以降、2001年の小泉純一郎首相登場までの12年間で、衆参議員選挙は計10回行われ、与野党逆転を含めて、なんと9人もの首相が交代しているのです。

そもそも「構造」という言葉は、例えば経済構造、産業構造、市場構造、貿易構造、金融構造、企業構造、という風に、いかようにでも使える便利な単語で、これに「改革」を付ければ、一応「政策」としての体裁が整います。現に今でも、ひとつ問題が起これば「構造改革が必要だ」という風に安易に使われています。しかし「構造改革」という熟語そのものには実体が含まれていません。

実は、経済「構造改革」論というのは、自由市場資本主義の考え方をそっくり取り入れたものにすぎません。さまざまな分野で自由主義的な構造改革を行えば、市場メカニズムによって、資本や労働などのリソースを低生産性部門から高生産性部門に導くことができ、ひいては長期的に国民経済全体の生産性を高めることができる。そこでは、民間で出来るものは民間に任せて、当面の政府の役割はディレギュレーション(規制緩和)と行政改革にとどめ、特定分野に対する補助金や優遇措置などの産業政策も回避すべきであるとされました。自由市場資本主義の働きによって、やがて経済は活性化し、バブル崩壊後の日本経済を回復させることができるはずだという考え方です。
従って、この経済構造改革を進めるためには、これまでの日本の経済システムを、アングロサクソン型の自由市場資本主義が機能しやすいものに変えていくことが必要となります。
つまり、必然的に既存の「ジャパノミクス」は破却されなければならないのです。

しかし、「構造改革論」の打ち出す目に見える政策は、マクロ経済政策というよりも、個別的な事案に着目したミクロの議論が目立っていました。例えば、郵政や交通などの準公共分野の民営化問題や、様々な分野での規制緩和、競争原理と市場化の促進、金融自由化や不良債権の処理にかかわる個別案件などが対象だったのです。

たとえば、銀行の不良債権の処理についても、市場メカニズムによる淘汰に任せて自己責任において処理させ、その結果、体力の弱った銀行は配当と中小企業融資をやめるべきである、それもできなければ市場から退出すべき、となりますし、労働市場でも、成果主義、能力主義を重視して雇用を流動化させれば、成長分野に優秀な人材が流れ、経済は活性化する、と考えました。大店立地法(1998年)による大型店舗の出店は、非効率な中小商店を活性化し、消費者の便益の向上に資するとされたのです。

しかし現実は、こういったミクロ的な「構造改革」によって、苦境に喘ぎつつも再建できたかもしれない老舗企業、将来有望で育成すべき中堅の新興企業、地域に根ざした中小企業や商店、などの命脈が多く絶たれてしまったことの方が、日本経済全体にとっては深刻な問題でした。

また、日本が産業政策を躊躇しているうちに、近隣新興国が手厚い産業政策を打って、半導体、エレクトロニクス、鉄鋼、造船などかつて日本が優位性を誇っていた分野のシェアを奪っていくことになりました。

さらに、雇用の流動化は、成長分野への労働力の移転を促すよりも先に、企業のリストラの一環として人件費圧縮を目指す大義名分となり、国民経済全体を押し上げるものとはなりませんでした。そしてこの時期の大量の希望退職や派遣社員などの不正規労働への置換、新卒採用の絞り込みが、現在の企業中核人材が不足する遠因となっています。

この間、大都市圏への首都圏への一極集中をどうするか、デフレ経済の影響の最も大きかった地方経済や郊外をどう建て直すか、製造業の弱体化や空洞化に対してどうするか、ITの基盤となる通信インフラや老朽化の進む公共インフラをどう再構築するか、といった本来政府によってなされるべきマクロ経済政策についての議論は置き去りにされたままになっていました。

穿った言い方になりますが、市場任せにして、政府による産業政策をも回避するべきであるとする構造改革論者にとっては、赤字となった財政政策を抱えてでのケインズ主義的なマクロ経済政策の議論は埒外のことだったのかもしれません。

次回は、いよいよ「ジャパノミクス」の終焉です


第10講 「ジャパノミクス」は、死んだ?

そしてさらに忘れてはならないのは、アメリカとの通商交渉での議論の流れが、国内の「構造改革論」と密接な関係があったということです。

1990年3月の日米首脳会談において、初めて「構造協議」(日米貿易摩擦解消のためにアメリカが立案した協議体)が机上に乗せられることになります。その協議に先立って1990年1月にスイスのベルンで両国の非公式会議が行われましたが、そのときに判明したアメリカの対日要求は、優に200項目を超える膨大な量で構成されていたといわれてます。

これまでも「MOSS協議(市場分野別個別協議)」や「日米円ドル委員会」(正式には「日米共同円・ドルレート、金融、資本市場問題特別会合」)などの日米2国間での通商交渉は継続して行われてきましたが、当初それは、あくまで個別品目や為替などに範囲を限定したものでありました。しかし、対日赤字が縮小しないことにしびれを切らしたアメリカは、問題が日本のさまざまな分野での「非関税障壁」すなわち市場の閉鎖性にあり、それをもたらすそれぞれの産業分野の「構造」の改革と市場の自由化を、直接日本政府に迫るべきだと考えるようになります。

つまり、両国間の通商問題の根本的解決は、日本の商慣習や慣行を含む日本固有の経済「構造」そのものを変えることであって、従って、その処方箋の第一は「ジャパノミクス」に「構造」的にビルトインされている規制の緩和(ディレギュレーション)と商品・金融市場の徹底的な自由化にある、ということに行き着くのです。

日米首脳会談後の協議は、その年の6月に「日本構造協議最終報告」としてとりまとめられ、そこに盛り込まれた両国の経済構造改善策について進展状況を点検するために、10月から1992年7月までに4回にわたるフォローアップ会合を行うことになったのです。今日的表現でわかりやすくたとえれば、定量的計測が難しい通商問題の解決にKPI(Key performance indicator)を課し、その進捗を両国が(実際はアメリカが)チェックし成績表をつけることにする、といったようなものです。

そしてこの「構造協議」は、1993年の宮沢・クリントン日米会議会議を経て「日米包括経済協議」に格上げされ、ここに日本経済の「構造改革論」は完全に国内外で連動することになったのです。

この「構造協議」の背景には、自由市場資本主義があったことは既に述べましたが、もう少し筆を進めてみたいと思います。

そもそも自由貿易というのは、国際間の財貨やサービスの取引において、恣意的な保護貿易や為替介入を行わず、市場メカニズムに任せれば、資源が最適に配分され、お互いがより多くの利得を得ることができ、ひいては世界の貿易市場が拡大する、という考え方です。この自由貿易の考え方そのものは、特殊な事情が無い限り、真正面から異を唱える理由のない「公理」に近いものです。

しかしながら、これまでみたように、この「構造協議」には、自由貿易主義を超えた「相互主義」の考え方が含まれていました。

本来「相互主義」とは、二国間の最恵国待遇のように、相手国の自国に対する待遇と同等の待遇を与えるという自由貿易主義の枠内での基本的なルールをいいます。
しかし当時の交渉では、日本に対し貿易の自由化やアメリカにとって都合の良いように経済構造を変革するよう迫りながら、それが満足のいくものでない限り、相応の制裁を科すことができるという風に拡大解釈されたのです。これは、二国間貿易において、「条件付きの」保護貿易主義を是認するものであり、当事国の社会的経済的構造の違いを与件としたリカードゥの「比較優位」(自由貿易の下で労働生産性と利益実現できる実現できるという概念)からは、明らかに逸脱していました。
こうしたアメリカにおける「相互主義」の概念の拡大解釈は、近年のトランプ前大統領の貿易政策にもみられるように、過去でも現代でもしばしば行なわれることなのです。

一方の国内では、1990年代中頃からは、「構造改革派」エコノミストとこれまでの主流派であった「ケインズ派」エコノミストとの間の激しい論戦が、テレビや紙面で、しばしば報じられるようになります。

「ケインズ派」は、不況の真因は、レーガノミクスの主張する供給の問題ではなく、あくまで総需要の不足であり、これに対する処方箋は、財政の積極出動による需要喚起によるしかない、これによって財政赤字は一時的には増大するが、その後の景気回復による税収の限界的増加で緩和されるはずだと主張します。また、不況の原因は不良債権が存在そのものであるとして、多くの不良債権先を抱える金融機関は市場から退出させるべきだとする「構造改革派」の自由市場資本主義的な「ハードランディング」(自然淘汰策)は、信用市場の収縮と逆資産効果を呼び込んで事態をますます深刻化させる、そもそも不良債権は景気悪化の結果であって、不良債権問題が片付きさえすれば景気は回復するという保証はない、と主張しました。
いまにして思うと、「ケインズ派」の主張は、常識的で、極めてまっとうな意見でしたが、先に述べたように、当時の人びとには経済的閉塞感からの脱却と変化を望む「空気」が強く、「構造改革派」の意見の方が圧倒的に優勢でありました。

これを1970年から80年代に活躍した社会評論家の山本七平氏の定義する「空気」の研究(「「空気」の研究」文藝春秋 1977年)という言葉を用いて喩えれば、まさに「構造改革=規制緩和」を推し進める改革派が、「日本的経済システム=利権構造」を守ろうとする守旧派を退治するかのような「空気」が時代を支配するようになっていったということになります。

当時の未曾有の不況下では、倫理性や合理性よりも、直感的に理解されやすい極論が受け入れられやすく、より直截にいえば「好き嫌い」といった感情が優勢になって社会的「空気」が醸成されていったのです。現に、2001年4月に小泉政権が誕生し、「自民党をぶっ壊す」「守旧派打倒」といった分かりやすい善悪二元論で郵政民営化を推し進めた2003年9月の改造内閣は、民意の支持の下で政権発足3年を経ても50%近い内閣支持率を得ていたのです。

その後は、何かといえば「構造の問題」であり、その「構造改革」に反対する者は、日本を良い方向に改革するのを阻害する「空気」を読めない「守旧派」に属する人である、と見られる傾向が強まります。そうした「空気」の圧力は強力で、景気回復に総需要管理政策を主張するケインズ派や、不良債権問題を時間をかけて解決していこうという「ソフトランディング」論者の声はますます小さくなっていきました。


当時金融危機の処理に当たっていた大蔵省事務次官の西村吉正氏は、後に当時の政策運営の厳しさを振り返って次のように述懐されています。
「時代の「空気」と無関係に行政運営が行われてはおらず、それどころかそれは非常に大きな要素、いやすべてであったといてもいいほど影響力をもったものだ。」 
それほど時代の「空気」というものは、強い影響力を持っていたのです。そして、「空気」をうまく掴んだ政治家は、「民意」を味方につけ、政治的にこれを利用します。
しかし、当時の「空気」を利用した「構造改革派か守旧派か」という単純明瞭な二元論的思考法が蔓延したことが、実は、企業経営や政治家や行政の政策の選択肢の幅を狭めてしまうのです。
それをより直裁にいえば、問題に直面して、従来のような日本人的な調整型の解決はまどろっこしいと考え、むしろ二元論的な思考法で、善悪・白黒をつけて、拙速に解決すべきである、という風な荒っぽいやり方を是とする方向に傾きがちになってしまったということです。

例えば、そこでは、企業経営においてリストラを躊躇うものは守旧派であり、銀行行政や銀行の現場で、厳しく審査し保守的に資産査定できないものも、問題を先送りする守旧派となります。

危機的状況にあるときに、「白か黒か」の二元論的な思考法で、拙速にものごとを解決しようとしたことが、従業員や下請企業や取引先や銀行からの信用を守るぎりぎりの努力を怠ったまま破綻するといった企業経営者のモラルハザードの問題に繋がったし、そういった経営者をみて、銀行の現場でも資金繰りの厳しくなった取引先に対し時間をかけて救済するという限界的な努力をするよりも、机上の査定マニュアルによってトリアージし、不良債権先を削減することを優先するようになっていったのです。
このように1990年代の中頃以降は、もはや「社員や下請は家族も同然」「借りたお金はなんとしても返す」とする経営者や「日本経済を混乱から守る社会的公器である」と誇る銀行マン気質は過去のものとなったかのような様相を呈していたのです。かつてあった分厚い相互間の信用が大きく損なわれてしまったのです。

確かに、1998年から今世紀初頭にかけての時期に起こった様々な事象をクロニクルで振り返ってみますと、彼我の間に基準を設けて一本の線を引き、内と外、あるいは敵と味方、善と悪とに分けて考える二元論で、問題を単純化し、異見を切り捨てていく殺伐としたやり方が目立ってきたように思えます。
しかし、こうした二元論的な発想は、間違いなく、土着的でありながら多面的な「小集団」の「入れ子細工」で構成された「ジャパノミクス」日本型経済システムの基盤となっている「社会的信頼」を深く傷つけます。(この点については、いずれ詳しく触れたいと考えています)

ともあれ、こうした二元論的な議論を経て「ケインズ派」は力を失ってきたし、「変わり者」ではあったけれどもそのケインズ政策の優等生であった「ジャパノミクス」は、罪人であるか、良く言っても「用済み」となりました。
かくして、第1講で述べたように、「ジャパノミクス」日本型経営システムは、もはや顧みられることがないどころか、今も触れてはいけない禁忌であるかのような扱いになってしまったのです。

ところで

この「「ジャパノミクス」ってなんどいや?」は、実は、

「今風のカッコいい、したり顔の現代経営論って、本当に日本経済や企業にとって適切なものなのですか?」

という素朴な疑問から出発しているのです。
そんなわけで、第11講からは、本題からすこし横道にそれて、俯瞰的に
「経済って、なんどいや?」
を考えていきたいと思います。


第11講 「ヘマな歴史」は、学びの宝庫! 

バブル時代に若者だった人たちは、40年前の出来事の知識なんて大して役に立たないと考えていました。だって、その40年前って第二次世界大戦中で、遙か遠くの昔話としか思えませんでした。1980年代は当然、戦中戦前とは全く価値観が違っていましたし、それより何より戦争は日本人の起こした「ヘマな歴史」の記憶なのですから。

ところが、そのバブル時代というのが、今の若者にとっては40年前の昔話で、しかも同じく日本人の「ヘマな歴史」です。今の若者も、バブル世代とは価値観が違うし、そんな時代のことを聞いても、今の社会を理解する参考にならないと思っているとしても不思議ではありません。

しかし、ニンゲンというのは、賢いが「懲りない」サルみたいなところがあって、同じようなことをなんどもなんども繰り返すのです。

例えば、

1990年がバブル崩壊(デフレ)の節目でした。それをおよそ45年ごと刻んで遡っていくと、実に面白いのです。

その45年前の1945年。まさに敗戦の年。廃墟と食糧難とハイパーインフレション。しかし、その5年後には戦後復興を果たし、高度経済成長、オイルショック、円高不況を経てバブル景気に至るのです。

その前の1900年。産業革命を果たした日本は、初めて過剰生産から「資本主義型恐慌」に見舞われます。そのわずか4年後には、国力のすべてをつぎ込んで日露戦争を戦います。1907年に戦後経済恐慌が起こり、労働争議と弾圧、軍国主義が強まります。その後1910年代は戦時景気、20年代は戦後恐慌、震災恐慌、1930年には、世界恐慌から深刻な金融恐慌を引き起こします。1931年に再度蔵相となった高橋是清は財政出動、輸出振興、低金利政策などのケインズ政策を打ち出します。これによって、重化学工業が発達し、新興財閥が成長して景気は持ち直しますが、1936年「二・二六事件」に倒れ、やがて1937年日中戦争へと突入します。

さらにその前、1854年は日米和親条約を結び開国。これが金の流出を招きインフレに見舞われます。一方、明治維新後の殖産興業、富国強兵政策の下、日本にも産業革命が起こりました。しかし、松方正義蔵相の導入した日銀による銀兌換制度は激しいデフレーションを起こします。

さらにその前の前、1810年、将軍徳川家斉の時代は化政文化の前半の文化期こそ「寛政の改革」路線の緊縮政策でしたが、文政期に入ると貨幣を改鋳してインフレ政策をとって経済は拡大、江戸に人口が集中します。そこに、天保の大飢饉が襲い、農村は荒廃、大塩平八郎の乱や農民一揆が続発します。

その前の前の前、1767年、田沼意次が側用人になります。「享保の改革」での増税と行政改革といった緊縮政策で疲弊した商業資本を活かすため流通市場と金融市場を整備し、経済は大いに振興しましたが、インフレが進んで、贈収賄も横行し、さらに「天明の大飢饉」や浅間山の噴火で、人心も荒廃し、田沼意次は失脚します。

その前の前の前、1716年、紀伊から徳川吉宗が将軍になります。元禄期に悪化した財政を建て直すため、増税、倹約、行政改革、新田開発を断行し、財政再建に成功しますが、「享保の飢饉」が発生、民衆の不満は募り、1732年江戸で打ちこわしが発生します。

その前の前の前の前、1675年の元禄時代に側用人柳沢吉保が登場します。大阪に堂島米市場が作られ「天下の台所」として蔵屋敷が建ち並び、全国の金の7割が集積します。一方江戸は政治の中心として大消費都市となり、この2大都市を結ぶ流通の仕組みが確立しました。この元禄時代には、荻原重秀による改鋳(元禄小判)が行われ、インフレ(バブル)が発生したため、次の「正徳の治」で新井白石は金の含有率を上げた正徳小判を発行し、また金銀の海外流出を統制するようにしました。

そして、その45年前が1630年が鎖国令です。

むろん、45年ごとに何かが起こっているのは、偶然に過ぎませんし、その間に松平定信や水野忠邦などの経済家も登場し、自然災害による景気の短期変動もあります。こうした表面的に類型化した歴史の見方は正しいものではありません。

それでも、あえてこのように列記したのは、

ー政治と社会の「空気」が変わると、経済のベクトルはすぐに変わって、絶えず経済は変動し、ひとところにとどまることはない、けれども同じような経済事象は、繰り返し繰り返し起こってくるーということを強調したいためです。
いつの世でも新しい装いをもった経済理論や経済政策は、必ず既存の理論や政策の「否定」の上に立ち現れてきますが、俯瞰して眺めてみると、いつの時代にも通用する普遍的な「正しい」経済理論や経済政策というものが見当たらないのです。

だからこそ、過去、特に「ヘマな歴史」こそ、学びの宝庫なのです。
例えば、冒頭の二つの「ヘマな歴史」の前には、明治維新から産業革命を起こしてのし上がる「アジアの新興国・日本」がありましたし、敗戦の廃墟から貿易立国で高度成長を成し遂げる「経済大国・日本」の堂々たる大成功の時代があったのです。それが、なぜかあのような手痛いヘマをしてしまう。

ですので「今は昔と違う」と捨象するのではなく、賢人たちの言う「歴史は繰り返す」という命題を認めれば、「ヘマな歴史」をみることで、「今日的課題」を解決する糸口を見出すことのできる可能性があります。なにより、現代の経済社会が「ヘマ」の結果かも知れないし、そもそも私たち自身が今現在「ヘマ」をやらかしつつあるのかもしれないのですから。


第12講 「感情」と「空気」が支配するもの

アメリカの経済学者ケネス・E・ガルブレイスは「豊かな社会」(岩波現代文庫)の中で、「現代の経済生活を理解するに当たってまず必要なことは、事実とそれを解釈する観念との間の関係をはっきり掴むことである」と言っています。
ここで「解釈する観念」とは、「経済理論」と言い換えて意味は通じますが、おそらくそれでは不十分です。その「経済理論」の裏にある経済思想や価値基準が何であるかを掴め、それこそが大事なのだ、とガルブレイス先生は言っているのです。

そして、経済事象を読み解くための経済思想や価値判断は、おそらくは「ニンゲンの本能や心理に対する知識」、「道徳や倫理に対する知識」、「社会と経済現象に関する歴史に対する知識」への理解から生まれてきます。(おそらく宗教にかかわる知識も重要な要素だと考えられますが、ここでは触れません)

ですので、その一つ一つについて考えてみたいと思います。

まず、第一の、「ニンゲンの本能や心理に対する知識」とその理解です。

資本の支配する経済社会(外形的な政治体制のことではなく、中国やロシアであっても、小さな王国であっても、市場があっておカネが存在する世界はすべて)は、「格差」という位置エネルギーを利用して豊かさ=おカネ=資本を手に入れようとする人びとの営為の相互作用の総和でできている、と考えることができます。

ニンゲンは、「欲望」と「恐怖」、「楽観」と「悲観」といった本能に突き動かされて経済活動を行い、それによって自然に「格差」が生れ、その「格差」が利潤を生みます。そして、それぞれが、その「利潤」の蓄積をひたすら目指すことで、総和としての経済が拡大するということです。

さらに、人間には、本来野心と嫉妬心であって、一方はその「格差」をさらに広げてより多くの利潤を得ようとし、一方は、「格差」を意識して上に這い上がろうとします。これが、市場における競争です。
また、このように「格差」を生み出そうとする活力が、シュンペーターのいう「アニマル・スピリッツ」であり、イノベーションの源泉となるのです。

すぐれた資本の支配する社会では、人びとは「格差」の存在を認めた上で、相互に自立精神を尊重し、不正を嫌い、自にでより良い経済活動を行おうとします。そのような社会の中では、市場原理に従う限り、その向かう先に、勝ちと負けはあっても、善や悪はありません。

例えば、日本人は、明治維新のときに欧米との間にとても大きな「格差」があることを知り、それを縮めようとひたすら努力することで、近代的資本主義を取り入れ西欧に追いつこうとしました。

戦前の日本経済においては、農民と労働者や職人、商店主などと財閥や政商などに代表される典型的資本家との間にあった搾取構造に近い「格差」とさまざまに整備された教育「格差」が、経済成長のエンジンとなっていたことは否定できません。

戦後には、地方と都市との賃金「格差」、発展途上国や先進国との人件費や
製造原価の「格差」をうまく利用して加工貿易モデルを作り上げ、貿易黒字を増やしてきました。日本の高度経済成長はこうした野心や嫉妬心、「這い上がろう、豊かになろう」とする精神の強い働きによって成し遂げられてきたのに間違いありません。

このように経済を動かすために「格差」という位置エネルギーは不可欠なものです。日本だけではなく、イギリスの帝国主義も、アメリカのフロンティア・スピリットも、共産党一党支配下で市場主義を導入した中国も、こうした社会の内外の「格差」の持つ位置エネルギーを利用して発展してきたのだといえるでしょう。

そして「格差」というものはいたるところに見いだすことが出来ます。

例えば、性差による「格差」もそうです。特に、日本のように長らく男女間で、社会や家庭における役割分担が明確に固定化されてきた社会では、女性の家事や教育といった労働は与件としてカウントされず、社会全体がそこから「見えない利潤」を搾取していたともいえます。
しかし、女性の社会進出や職業上の地位の向上によって「格差」を縮めていけば、その位置エネルギーは国民経済計算上「利潤」として顕在化されていくはずです。問題は、これまで女性が担ってきた家事や育児にかかわる労働を「何が」どう担うか、ということになってきます。まさに今日議論されている重要な政治課題の一つです。

また、市場経済における「情報の非対称性」も、利潤を生み出す源泉となります。「情報の非対称性」とは、取引における意思決定において一方が他方よりも多くの優れた情報を持っている「格差」のある状態を言います。より多くの優れた情報を得るために行われる営為はイノベーションの発露となりうるという利点もあり、そこで多くの起業家が生れ、経済社会の発展に貢献しています。例えば、提供者と受け手の商品に関する情報リテラシーに「格差」があるために、情報の受け手は利便性を得ることができ、出し手のIT企業やEコマース関連企業は莫大な利潤を得ることができるのです。

しかし、相互に自立精神を尊重し、自由でより良い経済活動を行おうとしながら、思い込みや錯覚が起こることがあり、そこに悪質で詐欺的な要素が商取引に入り込む余地が生じます。こうなると、安くて悪い品質のものしか市場に出回りにくくなり、「市場の失敗」となります。(行動経済学で2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが発表した「レモン市場の原理」という論考が有名です)そのために、悪質な取引を排除したり、一定の保証を与えるような仕組みを備えることが不可欠となっています。そういう意味で、情報の保護とデータの活用も、今日の重要な政治的課題の一つとなっています。

次回は、経済の自律的な「繰り返し」運動がなぜおこるのか、それは「欲望」と「恐怖」、「楽観」と「悲観」という4つのニンゲンの心理状態で図式化して説明が可能なのではないかという点について考えてみたいと思います。

「経済の自律的運動」はどのようにして生じるのか、ということについては経済学の最も重要な研究テーマで、これを解明し理論化するために、長い間経済学者は多くの知力と労力を傾けてきました。
従って、これについて、最新の知見を加え厳密な論考を加えようとすることは、浅学で専門的知識の乏しい身では無謀なことであり、そこは専門家に委ねなければなりません。

ただ、経済人として馬齢を重ね、失敗を含めて多くの経験を積み上げてきた結果、私の頭の中で出来上がってしまったこのテーマについてのざっくりとした理解はこのようになっています。 
ー「経済の自律的運動」というものは、戦争だとか自然災害などの突発的な大きな力が働かない限り、ニンゲンの抱く「恐怖」と「欲望」という感情、集団の抱く「悲観」と「楽観」という空気、この4つのモーメントの働きでで、ある程度説明できるようだー。

商品市場でもよいのですが、ここでは分かりやすくするために、投資家の心のモーメントと不動産市場や株式市場の動きをイメージして下さい。

生来ニンゲンには、あくなき利潤への「欲望」があります。その「欲望」は、単なる金銭欲というだけではなく、より多く利益を積み上げることによって、社会や他人から賞賛と承認を得たい、という願望に支配されています。

そして「欲望」が募っていく段階では、「楽観」が「悲観」に対して優勢となっています。しかし、「楽観」できる状況はいつまでも続かないものです。「楽観」が極限に近づくにつれて、いつまでこの利得を享受し続けることができるのか不安になってきます。
「金玉堂に満つれば之を能く守る莫し」(老子)です。
従って、「欲望」限界量は逓減し、利益確定など手仕舞いを考え始めます。

皆がそういう心理状態になると空気が変わり、市場は「出口」を探して下降へと向かい始めます。最初は、下降し始めても、ニンゲンには、現状に執着する「楽観的観測」を持ちたがりますので、「様子見」の状況が暫く続きます。しかし、現実がはっきりしてくると、今度は心の中で、既に得た利得を失う「恐怖」が兆します。
「多く蔵すれば必ず厚く亡う」(老子)です。

やがて「楽観」と「悲観」が交錯する段階から「悲観」的空気が優勢になりますと、「恐怖」の限界量が逓増し、損切りや撤退を考え始めます。
皆がそういう心理状態になると、「悲観」の度合いはますます深まり、市場の「出口」に殺到し、ひどい場合には、「悲観」から「絶望」へ、市場は下限まで落ち込んでいきます。

しかし、「出口のないトンネル」はありません。市場の下限では「もうこれ以上悪くならないのではないか」と思い始めて、しばらくは「様子見」しますが、そろそろとまた「欲望」が芽生え、その「欲望」を育てる「楽観」の空気が生まれ始めるのです。

以上を簡単な図で表すとこのようになります。


このように、人々の感情の揺れが、集団の中で相互に共振し合って、空気となり、総和としての市場はメビウスの輪のような自律的な無限運動を繰り返すのではないか、とそう考えたわけです。

バブル経済を材料に、図を見ながら具体的にイメージしてみます。

バブル景気の初期段階では、将来に不安を覚える人は多くはなく、ほとんどの人が、今日より明日、明日より来月、来年と、より豊かになれると信じていました(C→D)。
圧倒的に「楽観」が支配しており、むしろ「バスに乗り遅れまい」と、マンションなど不動産や株式市場に投資家が殺到しました。

しかし、不動産バブルがさらに膨張し、高額納税者ランキングに土地長者や株式長者ばかりが名を連ねる一方で、平均的なサラリーマンの年収ではマイホームを買えない、手頃なマンションがあったとしても当選倍率が高すぎて当たらず、豊かさを実感できない、こんな状況は「おかしい」と違和感を覚え始める人がだんだん増え始めます。やがて「こんなことはいつまでも続かないのではないか」と、これまでの「楽観」を疑い始め、不安が兆してくるのです。これが1980年代の終わり頃のことで、その時すでに、1990年代のバブル崩壊の準備が出来上がっていたのです。

1990年にまず株式相場が崩落しましたが、日本経済自体は堅調で、「土地神話」も根強くあって、これまでの経済システムへの信頼も維持されていました。ですから「市場はいずれ戻るだろう」といった「楽観」と「下げ止まらないかもしれない」という「悲観」が交錯しあっていた時期が相当程度ありました(D→E)。
そのため経済の潮目が変わったことを、人びとがはっきりと認識するまでにはかなりの程度のタイムラグがあり、そのぶん政治も行政も対応が遅れ、時期を見誤った不適切な政策(土地政策・金融行政)を打つことで、事態を一層深刻化させることになりました。

そして、ついに1992年頃、株価が最高値から半減し、不動産公示価格が12%下がって、「もう戻らない」という現実をはっきりと認識したとき、人々の心理が「悲観」から「絶望」へと向かい始めます(E→C)。

やがて不動産や株式の暴落は、実物市場(鉱工業生産指数が▲6%)へ、金融市場(銀行の不良債権40兆円:日銀会合極秘資料)へと飛び火します。そして銀行の信用創造機能が不全になることで、実物市場での市場価格が加速度的に下落する「デフレスパイラル」(物価の下落と、賃金・消費の減退が連動し合って起こる現象)の陥穽が出来上がってしまったのです。(C→A)。

「悲観」から「楽観」への屈折点は突然です。
第二次小泉内閣の目玉で「竹中プラン」と呼ばれた「金融再生プログラム」に基づいて、2003年にりそな銀行が国有化され、2004年にUFJ銀行が東京三菱銀行によって吸収合併されます。これでひとつの区切りをつけたということで、2005年に金融庁特別検査が終了したことを発表するに至り、市場が実体経済に先んじて回復していきました(A→B)。

実態は、さほど変わっていないにもかかわらず、空気が変わったのです。疑心暗鬼ながら「ようやく不良債権問題は解決し、これ以上銀行は潰れない、信用は回復し景気もこれ以上悪くならないだろう」と安堵し、「楽観」から「欲望」が芽生え、次の「ミニバブル」(2006年~2008年頃)を準備したのです(B→C)。

これと同じことが、リーマンショックの時にも起こりました。リーマンショックは、アメリカ発のサブプライム住宅ローンの不良債権化を起点とした世界的金融危機でありましたが、グローバリズムに組み込まれつつあった日本経済にも甚大な影響を与えます。金融危機の記憶がまだ生々しく残っていた日本の銀行は、過剰反応して「クレジットクランチ」(金融収縮)を起こします。そして、そこへ起きた2011年の東日本大震災と電力不足で、日本経済は奈落の底に落ちたような思いを味わうのです。まさに「悲観」から「絶望」へ、市場は下限に達します。

しかし、安倍晋三総裁の自民党が政権を奪回、第二次安倍内閣が誕生し、日銀の黒田新総裁と「異次元緩和政策」を打ち出したとき、それが屈折点となり反転が起こります。この「黒田バズーカ」によって「何かが変わる」ことを人びとは期待し、実体経済に先んじて、金融マーケットがいち早く反応します。

このとき、もちろん震災で大打撃を被った実体経済や会社業績が急回復したわけではありません。むしろ復興特需はあるにせよ、急激な円高(円相場1ドル70円台)・株安(日経平均8600円台)、福島第一原発の事故による深刻な電力不足(首都圏の計画停電)、サプライチェーンの破断などの致命傷を負った日本経済に先行き明るい見通しが立つはずはありません。

それでも、政権交代と「黒田バズーカ」に光明を得て「楽観」が芽生えて空気が変わり、株価が上昇し、やがて実体経済も上向き始めます。
このとき「もうこれ以上ひどいことにはならないだろう」という「楽観」から、やがて「欲望」を取り戻す人々の劇的な感情の変化があったと考えられるのです。


現代社会では、商品やサービス、あらゆるものが貨幣で計量できるがゆえに、アメリカで発達した主流派経済学は、数理的な処理によってすぐれて合理的で、精緻な経済モデルを作り上げることに成功してきました。確かに、経済事象を読み解き、その向かう先を予測するのに、経済数学や統計学、確率論はとても有用なツールであることは間違いありません。しかも、そこで説明される経済モデルは、エレガントで美しく魅力的ですらあります。

しかし、現実の経済はこのように情緒的で、非合理的な集団心理的要素に攪乱される運命にあります。「欲望」や「恐怖」は感情の産物で、「楽観」や「悲観」は感情から醸し出される集団心理、いわゆる「空気」の産物です。とすると、つまるところ、貨幣で数量化された経済事象も、そういった「感情」の産物であると言わざるを得ません。

経済理論は、既に起こった経済事象を「事後的に」正確にモデル化して、何が良くなかったかと言うことについても適切に解を用意してくれます。一方で、そのモデルを用いて、将来を予見し、確実に利得を得ることやリスクを完全に回避することが可能かと言えば、極めて近い将来についてさえ、実際のところ難しいのです。同じような事象が、異なる時点で起こったとした場合に、全く同じ感情が人びとの心の中に芽生えるとは限らないからです。

ですから、現実の経済事象が、エレガントな経済モデルに合致しないのは、人々が非合理的でおかしな行動をするからだ、と非難がましく言ったところで、詮方ないことなのです。なぜならば、人々は「欲望」と「恐怖」、「楽観」と「悲観」のモーメントに従って、その時点その時点では合理的に行動しているつもりなのですから。

次回は、「私流」の経済学ってなんどいや、について考えてみたいと思います。


第13講 経済論は「上書き保存」ではなく・・・ 

繰り返しになりますが、いま「ジャパノミクス」を語ると言うことは、つまり、40年以上前の過去にあった出来事を語っているわけです。それって、意義あることなの? でした。
経済論が、経験科学の立場を踏み外さないならば、その答えは、おそらく、YES です。

(昔の大先生に聞きましょう)

今、「昭和」がブームだといいます。昭和のファッションやカルチャーが何か新鮮に感じられて、令和のエンタメやファッションの世界に取り入れるようなことが行われています。それは、おそらく老人の懐古趣味に取り入ろうとするものではなくて、現代の若者が「昭和」の要素を取り入れて新しいカルチャーを創造してみようとするムーブメントだと思います。

文化芸術の世界では、アートやファッションにしても音楽にしても、こうした「温故知新」はごく普通のことです。古いものが新しいものに「上書き」されて、完全にデリートされてしまうようなことはなく、どこかに保存されていて、いずれかの時代に何かのきっかけで掘り起こされ、新しい芸術活動の起点となって「新しいもの」として世に生み出されてくるのです。

さて、文化芸術の世界でこういうことが普通に起こるとするならば、経済社会においても同じようなことが起こりうるだろうか、「歴史は繰り返す」といいます。もし、そういうことが起こりうるとするならば、過去の経済事象を掘り返し、その理解に現代的な新しい視点を与え、それがわれわれが抱える課題に対して有用な解決策を見いだす糸口となる可能性があるかもしれません。

あるいは、こう考えることもできます。過去の巨人であるアダム・スミス先生やケインズ先生にハイエク先生、あるいはマルクス先生やシュンペーター先生が今生きてあるとすれば、彼らは現代の我々が抱える経済問題に対し、どんな処方箋を示してくれるでしょうか、そんな想像を思い巡らせることが、少なくとも現代の経済問題を巡る様々な論考の「適切性」を確認するための契機になるかもしれません。

(経済論は、上書き保存?)

一般的にいって、現代の経済人は、「歴史的にニンゲンは知識を蓄積してどんどん賢くなり、技術が進み、つれて経済社会もどんどん進化する」と考えているようです。ですから、過去の理論は絶えず陳腐化していき、古い理論は現代社会を読み解く役には立たず、現代のより精緻で高等な最新理論こそが、より有効なはずだ、ということになります。つまり、社会科学における経済論は、いったんは「上書き」されるか、デリートされる、これが一般的理解なのです。

例えば、ケインズ経済学は、戦後、アメリカの学者を中心にどんどん精緻化され、肉付けされて、アメリカの経済成長と経済政策の「適切性」を理論づける主流となっていました。しかし、1970年代にスタグフレーション陥ったアメリカで、ケインズ派の総需要管理政策が十分に効かなくなりました。その結果、1980年代に、ケインズ経済政策が急速に力を失い、フリードマン先生のマネタリズムや自由市場資本主義的政策に取って代わられました。

このように、経済理論というのは、もしそれがうまくいかなければ、これまで積み上げてきた理論体系を「諦めて」使わない、とする傾向があるようです。かつては「適切」とされていた経済論が現実に照らして、いつの間にか「不適切」なものと考えられるようになり、新しくて、より「適切」とされる理論に上書きされてしまいがちなのです。
本来は、自由主義論者のハイエク先生と論争していたケインズ先生が、もし生きていれば現代社会をどう読み解くだろうか、という視点で体系を調整し直すというやり方のほうが、王道のような気がします。しかし、実際は、現実の課題を突きつけられて、一気に別の体系(自由市場資本主義)に乗り換えてしまったのです。

(最新理論の方が優れてる?)

確かに、社会科学としての経済学や経営学は、まさに今日の経済社会の経済事象を理論的に解析し、課題を解決する処方箋をしめすことに、自らの存在価値を置いているのですから、その理論はより先進的で斬新な理論が望ましい、そう考えるのは不自然なことではありません。
ですから、先進国である欧米で高く評価される理論が出れば、すぐさま研究者によって日本に紹介されます。実際、そのようにして、サプライサイド経済学や合理的期待形成仮説や金融工学、行動経済学や、最近ではピケティの「21世紀の資本」、MTT(現代貨幣理論)などが、いちはやく紹介されてきました。

しかし、最新の経済理論が、必ずしも過去のものより、画期的で優れていると決まったものではありません。実際、現代において最新の経済理論として紹介されたものも、よくよく吟味してみれば、過去の理論の焼き直しであったり、あるいはその援用にすぎず、別段新味のあるものでもないことに気付くことがあります。例現代の現代の環境問題に関するたくさんの論考については、すでに1970年代に内外で多くの優れたものが出されていますし、資本の運動に関するものは、経済学の古典に多くのヒントを見出すことができます。

自然観察や実験で得た知見を積み上げて絶対的真理にアプローチしていく自然科学と異なり、経済学や社会学のような社会科学は、絶えず相互に影響し合って不定形に変化し続ける現実社会を叙述しながら、真理に近づき社会的課題を解決することを目的にしています。

経済の動きを解明しようとすることは、前講で述べたように、時々の人びとの心理状態や価値観の揺らぎを解き明かそうとする試みにほかなりません。ところが、その心理状態や価値観による経済行動が、「時と場合によって」実は不確かで必ずしも合理的ではないのです。
ですから、事後的には、人びとの行動を統計的に計量し、原因と結果を正確に解析することができるとしても、そこで得た知見が、将来次に起こる経済事象を正確に説明できるということを保証はしてくれません。
しかも、社会科学では、論者の一定の価値観から全く無縁に、問題解決のための処方箋を見いだすことは難しいのです。経済的事象とその与件は刻々と変化するし、それへの対応が、ある論者の価値観によって導かれている以上、その公理がいつの時代でも有効で「適切」なものであるとは限らないのです。

(課題解決のための数理的アプローチ)

例えば、1990年代には、人びとの心理状態や経済行動を高等数学や確率統計学を用いれば、限りなく現実に近い精緻な予測モデルを作りあげることができるのではないかと考えられ、盛んに研究がすすめられました。実際、これらは金融工学とし発展し、て現在の金融市場で、投資理論に用いられています。しかしながら、こと経済事象の将来予測という点では、現在においても、その試みは成功したとはいえないでしょう。結局、モデルの外に「ブラックスワン」(予測を超える大きな衝撃を与える事象)だとか「グレーリノ」(現時点では軽視されがちな潜在的リスク)と呼ばれる特異項を、説明上設けざるを得なくなっているのです。
ひょっとしたら、AIによって現実に限りなく近い精緻な予測モデルが出来上がる可能性があるかもしれませんが、ニンゲンの「恐怖」や「欲望」「期待」や「悲観」それに「道徳心」をアルゴリズムで数理化できるまでは、いまのところは、こういったアプローチには限界があると見るべきだと考えています。

(課題解決のための思想史的アプローチ)

経済事象は、先述したように利潤追求にかかわる「欲望」と「恐怖」と「楽観」と「悲観」に支配された人間の本性に突き動かされているという点において、過去も現代も変わることがなく、それを律する「道徳心」などについても、数百年前の人びとと現代人のそれとはさほど大きな違いがなさそうに思えるのです。

そうであるからこそ、過去と現在の経済社会も、技術の働きによって、大層違うように見えてはいても、実のところやはり形を変えて同じことを繰り返すのです。バブル経済のユーフォリアと破滅、自由貿易か保護貿易か、グローバリズムかローカリズムか、成長か分配か、社会主義的平等か自由主義的平等か、こういった経済事象やそれを巡る論争は、過去何百年にわたって、何十年周期で何度も繰り返されてきました。

そして、つまるところ、経済学が、こうした人の「欲望」や「恐怖」、「期待」と「悲観」、それを制御する「道徳心」とか「倫理観」をも取り扱うものであるべきであるとするならば、研究の矛先は、やはり経済事件史を含む経済史や経済思想史の研究に対して向かわなくてはなりません。

畢竟、経済学の最も肝心な部分は、テクニックとしての経済理論にあるのではなく、その理論を組み立てる土台となった思想や倫理なのです。すぐれた先人たちのさまざまな「思想」や「倫理」は、ニンゲンという種の本性が変わらないとすれば、時代が変わっても決して色褪せないし、それを訪ねることによって現代社会の理解に役立つ「新しい発見」や「新鮮な気づき」を導いてくれるにちがいありません。

次回は、経済学が自然科学や他の経験科学と違って、「ことば」と「土着性」という制約を負っているために、普遍化、すなわちグローバル化することが容易でないということを語りたいと思います。


第14講 「ことば」と経済の「土着性」 

(「ことば」の問題)

もう一つ考えてみたいのは、経済社会を語る「ことば」の問題です。
あたりまえのことですが、経済社会のことは、ふつうは「ことば」で語られます。もちろん、数式が使われることはありますが、その意味するところについては、やはり「ことば」で説明されます

ところで、大きな本屋さんの経済・経営書籍コーナーはカタカナでいっぱいです。コーポレートガバナンス、コンプライアンス、マーケティング、レッドオーシャン、リスクマネジメント、ステークホルダー、サステナビリティ、トランスフォーメーション、キャリアデザイン、プリンシパル・エージェント、インキュべーション、アントレプレナーなどはまだわかりやすい方で、アルファベットも入れるとそれこそ数えきれないくらいです。こうなってくると、今第一線で活躍しているビジネスマンも、こういったカタカナで表記された概念を理解し、使いこなせないようだと取り残されてしまうんじゃないかというという強迫観念にとりつかれてしまうでしょう。

しかし、試みに、これらの用語を漢熟語に翻訳してみたらどうでしょうか。それほどの「新味」は感じられないことに気づきます。・・・「経営統制」「法令遵守(企業倫理)」「営業戦略」「過当競争」「危機管理」「利害関係人」「永続性」「変革」「職業選択」「依頼人・代理人」「起業支援」「起業家」。こちらの方がはるかにわかりやすくないですか。

経営学というと、欧米初の比較的新しい学問のように思われますが、実は日本でも「経営論」に当たるものがなかったわけではありません。
織田信長の楽市楽座で商業社会が成立して以降、江戸元禄期に上方を中心に、化政期から幕末に向かっては、武家政治の中心地江戸で商業が発達しましたが、それにともない有力な商家では「家訓」として経営理念が定められ、商いの決まり事や、商家における序列や責務が慣行的に明確になってきました。

18世紀には、石田梅岩が、体系的な経営思想・経営倫理として「石門心学」を確立しましたし、庶民の間でも井原西鶴の「日本永代蔵」や「世間胸算用」、歌舞伎の世話物の世界で商いの習いを垣間見ることができます。上方落語に「帯久」という、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」を連想してしまうような大坂商人同士の貸し借りを巡る人情ネタがあります。これをきくと、商人とはどうあるべきか、奉公人はどうあるべきか、為政者たる武士は商道徳をどうさばくべきか、と考えていたことがよくわかります。

明治期に、西欧からたくさんの経済や経営に関する用語が輸入されました。全く未知の用語だったでしょうが、江戸や大坂を中心に、ある程度欧米と変わらぬ商取引の基盤が確立していたために、識者がそれを適切な漢熟語に翻訳することができ、一般大衆もその意味内容を理解することができたのだと考えられます。

しかし現代では、カタカナやアルファベット表記をそのまま使うことが当たり前になりました。それには、おそらく大きく二つの理由があります。
一つには、経済学、経営学の先進地域は欧米社会であり、そこで生まれた新しい理論や概念こそが現代の時代環境にマッチした適切なものであり、それをいち早く紹介しなければならない、という思い込みがあるということです。
そしてもう一つの理由というのは、この輸入された概念を日本語に置き換える努力をせずに、そのままカタカナに置き換えてしまうことに抵抗感がなくなったということです。英語を理解する人々が多くなったからです。

一方、明治時代以降の識者たちは、その意味内容を一般大衆に理解させようという意識が強く、自ら原語を咀嚼した上で、理解しやすい漢熟語で表記しようとしましたし、そういったことのできる優れた翻訳者であってこそ、「学者」であり得たのです。また、このように翻訳された漢熟語で、官僚や経済人も概念を正確に理解でき、それを使って日本の経済社会にマッチした制度設計をしようとしたのです。

漢熟語の有用性を考えてみましょう。
例えば、経済学用語のmarginal utilityマージナル・ユーティリティは「限界効用」と訳されますが、このようにたった4文字の漢熟語に置き換えられて、経済用語として重要な「限界」と「効用」という2つの概念が浮かび上がり、初学者にとってとっつきにくい「ミクロ経済学」の理解を容易にしたのです。

確かに欧米で使われている通り、原語でそのまま理解できるのが理想的ではあるでしょうが、英語が公用語でもない我が国の経済社会において、広く正確な理解を形成するのは無理なことです。
それに、ことの本質は、そういった理論や概念が、今の日本の経済社会の理解に「使える」かどうか、ということのはずです。そのための前提として、原語をいかに正確で馴染みやすい漢熟語に翻訳できるかということが大切になってくるのです。

そこをあいまいにしますと、識者とか専門家たちが、一般人にはわかりづらいカタカナ用語を使って高尚な議論をしあっているという滑稽な風景をマスメディアで見ることになります。またグローバリズムを重視する人は特にカタカナ用語を多用するので、理屈抜きに「グローバルスタンダードはこうなんだ」といわれ、なんとなく煙に巻かれたような気分が残ったりします。

舩橋晴雄氏は、著書「中国経済の故郷を歩く」(日経BP社)のなかで、それぞれの人間集団のモノの考え方や行動原理の基底には、言語があるのであって、われわれが経済の仕組みや組織のあり方を考えるときも、このことを避けて通れないとし、「経済史の旅を、経済の仕組みや組織のあり方について、ある人間集団がどのように行動してきたかを跡づける旅と考えれば、言語の問題から始めなければならない」と述べておられるが、まさに至言です。

そして、この「ことば」の問題は、次に述べる経済社会の「土着性」を語る上で前提となります。

(経済社会の「土着性」とグローバリズムの「普遍性」)

先日、20世紀を代表する文芸評論家の小林秀雄氏の「考へるヒント」(文藝春秋 昭和39年5月20日初版)を読み返してみました。

そのなかで、小林秀雄氏は「福沢諭吉」を論じています。
ー 明治人は、「恰も一身にして二生を経るがごとく」「二生相較し、前身に得たるもの(和魂)を以て,今生身に得たる西洋の文明を反射する」つまり「自己がなした文明の経験によって、学び知った新文明を照らすことが出来る」のであって、このことが「僥倖である」(文明論之概略)と福沢諭吉は喝破したー と紹介しています。 
興味を持ったので、「学問のすゝめ」を読み直してみると、福沢諭吉は、「独立の丹心の発露」、つまり人民に独立の気がなければ、たとえ外形的に文明の体裁を繕っても、所詮無用の長物であって、そんなことをすれば、逆に人民の心の退歩、萎縮を招く、というようなことを述べています。

また、「お月見」という小論では、月見に興じる日本人を見て怪訝な顔をするスイス人たちを見て、小林秀雄氏は次のように論じています。
ー「新しい考え方を学べば、古い考え方を侮蔑できる。古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方を得られる。それは、無理な事だ。お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、どこからともなくひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない。私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはさういうものだ。文化という生き物が生きて育っていくふかい理由のうちには、計画的な飛躍や変異には決して堪えられない何かが在るにちがいない」ー
古来日本人の心に根差したものは、そう簡単に破却できないし、スイス人には容易に理解できるものではない、というわけです。

一見偏狭な見方にもみえますが、実はそうではありません。
経済社会というものは、いうまでもなく、人びとが寄り集まって活動し、影響しあって形作られています。日本列島に、同じ言語を操る日本人が集まって、日本経済が出来上がり、大陸に中国人が集まって中国経済が形成され、アメリカでもイギリスでも、またインドやイスラム諸国でも然りです。
でも、地球人が寄り集まって世界経済が出来上がるか、といえば、どうもそうはなりそうにありません。人類には形成しうる「集団」の規模に限界というものがあると考えられるからです。そして、自然的にその限界を決めているのが「土着性」なのです。「土着性」の及ぶ範囲に価値観の共通する経済社会が成立するのです。

例えば、日本企業という「集団」は、同じ言語体系を持つ日本の経済社会の「土着性」の制限を受けているために、この土壌でうまく育っていたとしても、他の土壌ではうまくいかないことがあり得るということです。国内で大きな成功を収めている優良企業が、海外進出に失敗する、ということが起こるのは、そういうことなのです。
逆に、海外の企業が日本の経済社会の土壌に根付くのも容易なことではありません。ここで、政治が関与すれば、通商戦争、すなわち、自らを品種改良するか、相手を土壌改良するかのせめぎ合いになります。そして、ついには「戦争」にまで発展するということが起こりうる、とは歴史が語っていることです。

ところで、経済学は、経済活動を分析することによって、一種の普遍性や法則性を見いだして、真理に近づこうとする経験科学です。従って、より幅広い支持を得ているものが真理に近いとするような傾向があります。
経営学は、例えば企業統治のありかたについて、さまざまな事例研究から普遍的に通用する規範を仮構し、そこから「あるべき」システムを普遍化しようとする研究プロセスを踏みます。
同様に、グローバリズムについていえば、ある国や地域で定立したルールを敷衍して「国際基準」(グローバルスタンダード)を定める傾向があります。いずれも、普遍化へ向かおうとするのです。

しかし、当然ながら、それがたとえある国の経済社会で有効に機能しているからといって、普遍化して「国際基準」を定めても、それが他の経済社会においても同様に有効に機能するとは限りません。
「土壌」が違うからです。

それを無理に「独立の丹心」のないまま、取り込んでしまうと、「無用の長物」となったり、「人民の心の退歩、萎縮をもたらす」ものになったりします。福沢諭吉は、そこを見抜いていたが故に「和魂洋才」(日本古来の精神を守りつつ、西洋の学問、技術を摂取すること)を説いたのであり、小林秀雄氏は日本人の感受性にこそどうにも動かしがたい固有の「文化」の源泉を見たのでしょう。

現代社会は情報伝達速度が昔と比べものにならないほど早く、従って時流の変化の幅も大きいといえます。それだけに時流に乗って次々に生み出される新しい技術や斬新な発想など、それがより先進的で革新的に見えるモノであればあるほど、安易に受け入れられやすい傾向があります。ある新しい発想や手法がもてはやされば、他もこれらをいち早く取り入れなければ取り残されてしまうと言う一種の強迫観念に捕らわれてしまうのです。

確かに、そういった進取性は、経済社会の発展には必要欠くべからざるものですが、一方で、それを鵜吞みにせず、本当にそれを優先して取り込むべきであるかどうか、ということを、それぞれ自らの企業文化や経営理念に照らして、適切に取捨選択していく判断力がますます重要になってきています。

思うに、江戸末期から明治維新に至る20年や、昭和恐慌から終戦時の経済的混乱期に至る20年に匹敵するほど、1990年からの20年間も厳しい時代だったといえます。この20年間で日本経済は相対的に衰退してしまったと認めざるを得ないのです。

その20年間で、人びとが互いに抱き合っていた「矜持」と「信頼」を失い、疑心暗鬼から「狼狽」と「混乱」の嵐に翻弄され、福沢諭吉の言葉を借りれば、福沢諭吉の「独立の丹心」を忘れ、一貫して経済社会を「国際基準」に合わせようと努力してきたのです。しかもその努力は今も続いているのです。

次回から、「ジャパノミクスって、なんどいや?」の本題に入っていきます。まずこの「失われた20年」の日本の経済社会の足跡を振り返り、グローバリズムの観点から、現代において「当然である」と見做され、なかば無批判に受け入れられているいくつかの論点について、日本経済や日本企業にとって「それは本当に適切なことなのだろうか」ということを、あえて考えてみたいと思うのです。

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