見出し画像

「ジャパノミクス」のいちきゅっぱ     「ジャパノミクス」ってなんどいや?(16)

「ジャパノミクス」日本型経済システムとは何であったのかを知るためには、それが最も有効に機能していたと思われる1980年代(いちきゅっぱ)を詳しく見ることが必要です。

1970年代後半は、ベトナム戦争後のアメリカ経済の低迷、円高と2度にわたるオイルショックによるコストプッシュインフレ、鉄鋼・自半導体半導体を中心に日米貿易摩擦が激化します。

そして、1980年に、ロナルド・レーガン大統領が「レーガノミクス」を発表します。イギリスの「サッチャリズム」とともに、以後米英両国は、政治的には、徹底した自由民主主義、経済的には自由市場資本主義に大きく舵を切ります。
つまり、
政治的には、保守主義・国益優先・軍事強化の「強力な政府」
経済的には、資本主義・新自由主義・市場主義・競争主義の「小さな政府」
外交面では「軍事大国」ソヴィエト社会主義共和国連邦への対抗
経済的には急成長を遂げる日本や西ドイツに対する強硬姿勢
が、明確になります。
特に日本に対しては、対米貿易黒字の是正のみならず、非関税障壁、公正な競争環境や技術流出を巡る議論にまで発展していきます。

それでも、1980年代は、「ジャパノミクス」日本型経営システムが、最大限にその強みを発揮した時代であったのです。

円高や原材料価格の上昇を、勤勉で良質な労働力を背景とした個別企業の自助努力と連続するイノベーションによる生産性向上によって吸収し、それに円高で強力となったジャパンマネーを活用することによって海外進出し、1980年代には世界経済における日本のステータスを大きく高めていったのです。
しかもNEC,日立、東芝など日本の半導体メーカーはDRAMで世界シェアの8割を握り、スーパーコンピューターでは、1989年にNECが世界最速を達成しました。また最先端のロボット技術や大量生産技術でも抜きん出た「技術立国」を標榜していて、次世代も「日本の時代」が続くかのように思えた時代でした。

その時代の代表的エコノミストであった日本経済センターの金森久雄氏は、戦後の経済成長、ニクソンショックやオイルショックを乗り切った「ジャパノミクス」の本質を肯定的にとらえていました。
氏は、1990年代に入ってバブルが崩壊し日本経済が変調をきたしたときも、「日本人は、やがてそれらの課題を克服するであろう」との楽観的姿勢を崩しませんでした。そのことは、「ジャパノミクス」とそれを支える日本の企業家・官僚機構、そして何よりも勤勉で忍耐強い日本人の資質を信じていたことが当時の諸論説を読むと、よくわかります。(「金森久雄集 現代エコノミスト選集 日本経済の50年」NTT出版 1994.4.25)

金森久雄氏によれば、国民の勤勉さ、勤倹貯蓄、起業家精神、官民協調、平和憲法等の要因が働くことで、日本は1980年代の豊かな経済社会に到達できたとしています。

それを、筆者なりに整理しますと次のようになります

 
⑴   日本は戦後米国流の民主主義をそっくり受け入れましたが、日本人としての国民性は、根っこのところまでは変わらずに大部分がそのまま残されていました。
海外植民地のすべてと国富の多くが、軍国主義と戦争によって損なわれました。しかし、江戸時代からの儒教精神と高い教育水準を備えた勤勉で熟練した能力を持つ労働者、それに、戦前から積み上げてきた企業経営の経験とノウハウ、大正デモクラシーの精神などは損なわれることなく、無形の経営財産として保存されていました。つまり、前講で触れた日本人の異文化の移入と吸収の特性を戦後復興に発揮する余地があったということです。

⑵    財閥解体で経済が自由化され競争が活発になっていく中で、人材の新陳代謝が進み、かえって進取敢為の気骨のある若い経営者が育っていくことになりました。
人間の思考には、一人ひとり「物語」(ナラティブ)があって、人間の行動の動機の相当部分が、その「物語」を生きるようにできているといいます。そうであれば、同じことが国や企業といった組織についても言えるでしょう。ある強力な組織を率いる偉大なリーダーは、その国や企業が歩むべき「物語」を作り出せる人物です。
そういう意味では、戦後日本経済の復興期は、自らの持つ「物語」を語り、人々を引きつけ、実現することができる多くのカリスマ的な経営者がつぎつぎと輩出した時代でもありました。

⑶   進駐軍によって断行された諸改革によって資本主義の発達を妨げてきた非市場的な旧弊が一掃され、有能な人材が活躍できる風通しのよい民主社会が現出しました。
例えば、財閥企業をはじめとする大企業や国策企業においても、戦後、資本と経営の分離が進んだことで、競争環境が改善され、企業内の風通しも良くなり、社会全体の経済的活力が高まりました。

⑷  教育水準が高く、かつ戦陣で強靱な精神力を備えた有能な若者が、内地に帰還しはじめると、中核的な労働者層を戦争で喪失して一旦縮小してしまった経済における超過労働力となって、こんどは経済社会を強く押し上げる原動力となりました。

⑸    そもそも日本は、同質的で階級差の小さな社会であるうえ、「集団」や「ムラ社会」的な組織作りに馴染みやすいことから、戦後の労働者の地位の向上は企業内労働組合、終身雇用という特殊な制度的枠組みへと変容していきました。
日本では、一部の産業分野を除き、労働権の拡大が企業と対立的で先鋭的な組合活動や社会運動へと進むのではなく、むしろ企業活動へ組み込まれて、企業の成長による賃上げの獲得や権利の実現という方向に向かいました。

⑹    戦後の官僚は高い国家意識を持って経済に関する知識やアイデアを収集整理し、国民経済や産業の針路についてビジョンを作り実行に落とす能力に長けていると考えられていました。
従って、一般的に官僚に対する社会的信頼が厚く、それゆえ行政指導が迅速かつ有効に機能し、政財界の調整や外国との交渉を一元的に行う能力を長く維持することができました。

⑺    日本の産業構造では中小企業の活力が極めて旺盛でした。
1980年代後半では、中小企業の事業所が約645万社で全体の99%、従業員約4000万人、と全体の80%をしめ、最終製品の製造販売のみならず、産業連関上の中間財やサービスの提供者として、大きな役割を担っていました。
また、大企業や大銀行を核とする「ケイレツ」構造の構成要素として、サプライチェーンの担い手としての中小企業の果たした役割は、極めて大きいものがありました。
また、製造技術も、大企業だけに集積するのではなく、中小企業にもクラスター的に分散して保持され「ケイレツ」構造の中で必要に応じさまざまに組み合わされ高度化していくという特色がありました。

⑻    日本の技術者は、技術革新への知的好奇心が旺盛で、最新の技術の導入やその微細における独創的な技術改良に向ける拘りとなって「メイド・イン・ジャパン」の品質と地位の向上に貢献しました。
また官僚も民間も「技術立国」への強い希求を持つ一方で、例えば、TQCや「カイゼン」にみられるような製造現場での「草の根的」技術改善努力が大切であるという共通の認識が人びとの間で定着していました。

⑼    勤倹を重く見る国民性などが高い貯蓄率を支え、銀行による間接金融を通じた効率的な資金分配システムが有効に機能しました。
都市勤労者貯蓄率は1990年頃まで25%台を維持してきました。これは勤勉な国民性、倹約を美徳とする儒教精神が背景にあるとも考えらがちですが、実際には、経済成長による所得増加、社会保障制度への不安からする老後への備え、あるいは終身雇用による雇用の安定とボーナス制度や社内預金などの会社ぐるみの貯蓄の推奨などによるところも大きかったのです。
これによって蓄積された貯蓄は、政府の産業政策と絡み、銀行貸出の形で効率的に企業部門に提供され、薄弱な資本市場を補完する役割を担いました。

⑽    日米安全保障条約により、冷戦時代の防衛支出負担が他国や日本の経済力に比して軽かったことがいえます。
その分は、当然経済力の向上に向けた民生用の投資に振り向けることが可能であったわけで、この点については、後日、日米経済通商交渉において「防衛費ただ乗り」論として批判の対象となることになります。

⑾   国内的には1960年代頃まで、学生運動やテロリズム、労働争議はあったものの、政治的には自民党による長期政権が持続し、おおむね社会的に安定した時代が長く続いたことが、投資環境や消費の安全性を担保することになり、経済の成長を助けました。

⑿    ベトナム戦争や冷戦はあったものの、アジア唯一の西側先進国として欧米との協調体制を維持し、東アジアにおける突出した資本主義国家でありながら、深刻な国際紛争に巻き込まれることがなかったために、経済成長を謳歌することができました。

ところで、この時代の空気を客観的に知るには、経済白書(経済企画庁「年次経済報告」)をのぞいてみるのが一番です。
平成元年(1989年)の経済白書は「平成経済の門出と日本経済の新しい潮流」という表題になっています。すこし、長いですが、抜粋しながら眺めてみましょう。

まず序文。

「 第二次世界大戦後においては、国際環境にも恵まれ、国民の叡知と努力を生かして復興から高度成長を達成し、石油危機、円高をも克服して自由世界第二位の経済力を実現した。 今や、豊かな所得・消費水準を享受するとともに、質量両面において世界最高水準の工業国として世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展をとげた 」
「 日本経済は企業・家計の柔軟な対応によって合理化、省エネ化等産業構造の転換を進め、インフレを克服し、国際競争力を強めて持続的成長の基礎を再び築いた。 昭和63年度から平成元年度への日本経済をみると、円高への適応が進み、その結果、旺盛な設備投資、個人消費による内需主導型成長の実現、物価安定基調の持続、製品輸入の大幅な増加、世界最大の債権国への移行など、これまでとは一段異なった姿がみられる。
その意味では、平成を迎えた日本経済は新しい段階に入ったともいえよう。第一には 産業,生活の両面を通じる一層の「高度化」である。
第二には、国際化の一段の進展である「グローバル化」である。
第三には、「ストック化」である。」

そして経済白書の「むすび」では、 

「 基本的に要請されるのは、これまでの制度,慣行の見直しを図ることである。 生活・産業の多様化,情報化などの「高度化」「グローバル化」「ストック化」という新しい動きに照らして、これまでの制度を見直すことが必要である。新しい段階の日本経済には、新しい枠組みが必要とされている。」
「 同時に,必要とされるのは 内需主導型経済成長を持続することである。前述のように、円高経済の定着のなかで、今回の景気上昇は持続力がある。物価面、対外面の適切な対応を踏まえて、こうした内需主導型経済成長を持続していくことが国内外の期待である。内需主導型経済成長の持続は為替相場の安定とならんで、製品輸入の増大持続の基本である。
これらを通じて、日本経済の新しいイメージを定着させていくべきである。日本経済の良好な成果は決して、日本経済の特殊性を示すものではない。国民の努力と創意工夫が強い経済力となって実を結んだに過ぎない。これらを豊かさの実現と世界経済の発展に活かしていくことにより、「真に豊かな地球国家」として国際社会において尊敬され,名誉ある地位を占めることができるであろう。」

これほど力強く希望に満ちた経済白書は、これ以降目にすることはできなくなります。
円高や資源制約などの逆境を、国民の努力と創意工夫によって力強く乗り越えていく日本経済の現状に胸を張り、国際社会の目を気にして、輸出主導から内需主導に移行しているという「新しいイメージを定着させる」ことの必要を説き、日本経済が特殊なのではない、といいます。そして「ジャパノミクス」の成功を世界の発展に活かしていくことによって、世界のリーダーとしての地位を確保できる、と述べているのです。

ここで重要なポイントについて触れておかなければなりません。

ここでいう「ストック化」というのは、「株式、不動産、預金、債券、在庫、設備」とファイナンスが結びついて設備投資が旺盛になる(「投資が投資を呼ぶ」)ことをいいます。そして、このストックが金融資産となって国境を越えてやりとりされることを、グローバリゼーションとしたのです。

このことは、次講以降詳しく触れるバブル経済の機序に大きな関係があります。
しかし、当時はその潮流を「歪み」としてではなく「新しい段階」とみていたのです。

かくして、ついに、この年納会の株価は38915.87円の最高値、東証の時価総額も500兆円を超えます。一方のNYダウ平均は2753.20ドルでありました。そして、この年末をもって、「経済大国・日本」の躍進は終焉を告げることとなります。


この華やかな1980年代をよく見ると、日本経済のその後の変調をもたらす大きな屈折点が、1985年あたりにあったことに気がつきます。それは数字の上ではなく「空気」で嗅ぎ取ることができます。
次講はそのことについて触れたいと思います。



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?