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「半沢直樹」的世界と「ジャパノミクス」(中)            「ジャパノミクス」って、なんどいや? (22)

第22講 「三つの試練」

(「金融ムラ」に対する「三つの試練」)

その1.「金融ビッグバン」~金融の自由化と開放

1996年、自民党単独の第二次内閣を立ち上げた橋本龍太郎首相は「フリー、フェア、グローバル」を旗印とする「日本版金融ビッグバン」を政策の目玉に掲げます。

「金融ビッグバン」とは、もともとイギリスのサッチャー首相が「シティ」(ロンドンの金融街)の国際競争力を高めるために、一連の自由市場資本主義的政策の一つとして1986年に断行した金融制度改革で、証券取引手数料や取引会員権などを自由化しました。その結果、世界から資金が集まるようになり、ロンドンの金融市場は「ウィンブルドン化」したといわれます。

橋本内閣の「日本版金融ビッグバン」は、このイギリスの金融制度改革をお手本にして、保険、証券の各業法から、会計制度、外為法にいたる広範な大改革を行なって、東京市場をニューヨークやロンドンに並ぶ地位に引き上げようとしたものです。
その改革は、当然イギリスと同じく自由市場資本主義を前提にしていたため、その改革の影響は金融市場のみならず、当時苦境に遭った日本経済全体にとても大きな影響を及ぼすことになりました。

その2.「バーゼル1」~銀行の自己資本に関する統一国際基準

1980年代後半から、日本の金融機関や大企業は、強いジャパン・マネーを背景に世界に進出し、不動産を買ったり、工場を作ったり、資金を集めたりするようになってきました。

日本の銀行を念頭に、世界の市場を目指してグローバル化するのであれば、国際金融の安定性を維持するために、国際的な銀行は健全な財務内容をを堅持しなくてはならない、そういう考えから定められた国際基準が「BIS規制」と言われるものです。

これは、1988年にBIS(Bank for International Settlements=国際決済銀行)の常設事務局であるバーゼル銀行監督委員会で合意された「国際的に活動する銀行の自己資本比率や流動性比率等」に関する国際統一基準のことです。
バーゼル委員会で合意されたので「バーゼル合意」ともいわれ、初回の合意であるため「バーゼル1」と呼ばれます。

バーゼル委員会では、国際銀行システムの健全性と安全性を高めるために自己資本規制の基準の統一化が話し合われたのですが、各国の会計基準の違いから、そもそも自己資本の定義の段階からなかなかうまくすり合いません。

というのも、バブル景気で多額の「含み資産」を有する日本の銀行と「含み資産」を持たない欧米の銀行との間で自己資本の定義が異なれば、国際業務において競争上の不平等が生じるからなのです。

具体的には、株式や不動産が原価主義で記帳されている日本の銀行は、「含み益」は財務諸表には計上されず、簿価上表面の自己資本比率が過小になっていましたので、それを顧慮しないまま基準が決定されれば、日本の銀行は基準を満たすために増資をするとかアセット(主に貸出金)を減らす、などの抜本的な対策をしなければならなくなります。

しかし、もし仮に、「含み益」をそのまま時価で算定し直して自己資本に算入するとすれば、日本の銀行の自己資本は十分に大きいものとなり、逆に欧米の銀行は不利になってしまいます。

そこで交渉の結果、「含み資産」は、銀行が営業を継続する前提であれば、他の損失を吸収しうるバッファーとなる余地があるとみて、その他の自己資本項目に含めても良い、ということになりました。

ただし、この場合、市況の変動(株価や不動産評価額の下落)や「含み益」が実現した場合(つまり売却益)に課されるであろう税金分を反映させるために、十分な掛け目(時価簿価の差額の55%)をかけること、それに銀行同士の株式の持ち合いによる自己資本の嵩上げは認めないこと、という条件が付けられました。

この「バーゼル1」は、1992年に施行され、国際的に活動する銀行は、算出し直された自己資本比率で「8%以上を確保」しなければならないということになりました。

※この国際統一基準は、その後、金融危機やITバブル、リーマンショックなどを経験することで、どんどん精緻化、厳格化されます。
1998年から「バーゼル1」の抜本的な見直しに着手し、2007年金融取引の多様化、複雑化、リスク管理手法の高度化に合わせリスク計測手法を精緻化を定義する新BIS規制「バーゼル2」に移行します。2013年以降は、自己資本の「質」の強化、流動性比率に関する国際統一基準、リスク計測手法の更なる精緻化を進める「バーゼル3」に至っています。

その3.「金融検査マニュアル」と「特別検査」~トリアージせよ!

1999年、大手15行に早期健全化法による公的資金注入を行うとともに、柳澤伯夫氏を委員長とする金融再生委委員会指揮下の金融監督庁によって、「預金等受入れ金融機関にかかる検査マニュアル」いわゆる「金融検査マニュアル」が制定されます(2019年12月に廃止)。「金融検査マニュアル」とは、銀行の経営状態を検査する際に使用する手引き書のことでバブル崩壊後の不良債権問題を背景に、貸出金の資産査定や引当金の計上方法などを規定したものです。

基本的な考え方は、諸外国の金融検査手法やバーゼル1の改定といった流れを踏まえ、金融検査の目的を「金融機関の経営を自己責任原則に基づいて補強するため」とし、検査手法を

1.従来の当局指導型から、自己管理型へ転換する(検査は、金融機関自身の内部管理と会計監査人等による厳正な外部監査を前提として、内部管理・外部監査態勢の適切性を検証するプロセス・チェックを中心とする)

2.従来の資産査定中心の検査から、リスク管理プロセス重視の検査へ転換する。

に変更しました。一般には「自己査定」といわれるものです。

金融検査官は、この「金融検査マニュアル」に基づいて、銀行が自己責任原則に基づいて債務者区分を厳しく査定し、不良債権に対して適切な貸倒引当金を計上しているかどうかを確認します。そして、貸倒引当金により自己資本比率が著しく低下した銀行に対しては、「業務改善計画の提出」や「早期是正措置命令」を発出します。つまり、「金融検査マニュアル」は不良債権先のあぶり出しや破綻懸念のある銀行の退出を促すツールとしても利用されたのです。
実際、1999年には、東京相和銀行、国民銀行、幸福銀行、なみはや銀行、新潟中央銀行が相次いで破綻、ないし救済合併されました。

2000年に金融監督庁は金融庁に組織変更され、金融再生委員会と一本化されますが、2001年、金融庁は「緊急経済対策」として、「2年・3年ルール」と「5割・8割ルール」を定め、各銀行の大口融資先を対象とした「特別検査」を実施します。

「2年・3年ルール」とは、既に「破綻懸念先以下」の不良債権として分類されているものは2年以内、新たに不良債権に分類されたものは3年以内に、オフバランス化する、というものです。「オフバランス」化とは、銀行の貸借対照表に計上されている当該債権の価値をゼロとするということです。

これは、査定される企業の立場に立てば、よほど状況が改善しない限り、取引銀行によって、3年のうちに破綻処理されるか、借入金を第三者に債権売却されることを意味し、まさに死活問題にほかなりません。

「5割・8割ルール」とは、自己査定した不良債権について、1年以内に50%、2年以内に80%を処理せよ、というもので、銀行の不良債権処理を促し、不良債権比率を二年以内に激減させる数値目標です。

そして「特別検査」は、専門的な知見を有する外部検査官を含む検査チームが、各銀行における一定基準の大口貸出先についてその自己査定と引当額の適切性を徹底的に検査するというものです。大口貸出先は、複数の大手銀行から借入れしているのが通例ですので、この特別検査は各銀行の自己査定状況を横串で俯瞰できるという特色がありました。

要すれば、金融当局は「2004年度までには主要行の不良債権比率をそれまでの半分程度に一気に引き下げ、大口先を中心に不良債権問題の解決を図り、より強固な金融システムの再構築を目指す」としたわけです。

そのために、「特別検査」を頻回に実施し、「金融検査マニュアル」に則って、銀行に業績不振に陥っている限界的な会社をトリアージさせ、それに伴って必要とされる貸倒引当金を保守的に計上させた上で、遅くとも三年以内に取引を解消し、それら債権をバランスシートから除かせるという指導を行ったと言うことなのです。

銀行の立場からすれば、「金融検査マニュアル」に則って巨額な貸倒引当金の計上を余儀なくされた結果、万一銀行自身が実質債務超過だと認定された場合には、公的資金による実質国営化されるか、あるいは銀行同士の経営統合などを迫られるという危地に追い込まれます。

しかも時限を切られているために、もはや悠長に個々の取引先の苦境をどう救済するか検討するというレベルではなく、なりふりかまわず限界的な引当金の増加を回避するとともに、既存の不良債権の外部売却や法的処理による削減を加速させなくてはならなくなったのです。

極端な場合、銀行と取引先企業がそれぞれの生き残りをかけて、銀行はやむなく崖っぷちに立っている企業の背中を押さざるをえないこともあり、企業側からすればそうされないように、ときに虚偽と隠蔽に走ってでも踏みとどまろうとする瀬戸際の攻防が演じられることすらありました。

(この時期で良かったの?)

1990年代後半は、日本においては株式市場と不動産市場の暴落が進行中で、日本の銀行の「含み益」が急速に目減りし、「銀行不倒神話」が崩れていった時期に当たります。企業倒産件数は1990年から1998年累計で132千社/負債総額75兆3800億円に達して金融不安が囁かれ、それは中小金融機関からやがて大手銀行へと飛び火していきます。

1995年に、コスモ信組、木津信組で取り付け騒ぎが起こり、ついに兵庫銀行が破綻します。その年には大和銀行がニューヨーク支店巨額損失事件で米国から追放され、住専問題の処理が、母体行、一般行、農林中金、大蔵省、農水省それに国会を巻き込んで紛糾します。

1996年には、銀行の自己資本を強化する金融三法が成立し、整理回収銀行が設立されるとともに、各銀行は一斉にアセット圧縮(貸出金縮減、つまり「貸し渋り」)に走ります。この年、太平洋銀行、阪和銀行などが破綻し、日本債券信用銀行の信用不安説が流れます。

1997年からは、本格的な金融危機の時代に入ります。福徳、なにわ銀行の特定合併に続き、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで破綻し、その流れを継いで、紀陽銀行、安田信託銀行、足利銀行に取り付け騒ぎが起き、徳陽シティ銀行は破綻します。

バブル崩壊後の1992年に「バーゼル1」が施行され、その後、日本の銀行の体力が急速に衰え、金融危機に陥るまさにそのタイミングの1996年に、橋本内閣の「日本版ビッグバン」、1998年には、金融危機を踏まえて「バーゼル2」に向けた検討が始まります。
そして、1999年に金融庁の「金融検査マニュアル」の改訂による早期是正が実施されたのです。

当時ある人はこれを、肺炎にかかりかけているランナーに対し鍛錬のためにマラソンを強いるようなものだという感想を漏らしたものです。

金融制度の自由化や国際銀行の自己資本比率の見直しは、確かに必要ではありましたが、導入時期を誤ると、金融市場の混乱と日本経済の下押し圧力になってしまいます。しかも、1997年には消費税を5%に引き上げ、7月には深刻なアジア通貨危機が勃発したのです。

さらに、1999年に、大手15行に7.5兆円の公的資金を投入するとともに不良債権問題の処理についてハードランディング路線に舵を切ったのですが、これは日本の金融システムにおいて銀行と行政、銀行と企業が長年築いてきた「相互信頼関係」を断ち切ってしまう副作用をもたらしました。それについては次講で触れます。

そして、皮肉にも1999年財務長官に就任したローレンス・サマーズは、この時期の日本の金融行政をあまり評価していなかったようです。
「健全な金融機関の資本強化支援を厳しい条件なしに行うべきでない。すべての銀行に公的資金が使われるとしたら国際的信用を失うだろう、30兆円の公的資金枠は弱体化した邦銀への補助金ではないか、大蔵省は大銀行はつぶさないといっているが、これは旧態依然たる監督行政の表れだ」といった趣旨のコメントをしていましたが、ハードランディング路線はこういった海外の冷ややかな視線も意識した結果だったのかも知れません。

いずれにしても、これ以降、不良債権問題の処理が荒っぽくなり、社会的信頼感の乏しい「空気」のなかで、日本経済にデフレがどっしりと腰を下ろしてしまったという事実に対しては、この時期の金融行政が与えたインパクトが極めて大きかったといわざるを得ません。



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