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経済論は「上書き保存」ではなく・・・      「ジャパノミクス」ってなんどいや (13)

繰り返しになりますが、いま「ジャパノミクス」を語ると言うことは、つまり、40年以上前の過去にあった出来事を語っているわけです。それって、意義あることなの? でした。
経済論が、経験科学の立場を踏み外さないならば、その答えは、おそらく、YES です。

(昔の大先生に聞きましょう)

今、「昭和」がブームだといいます。昭和のファッションやカルチャーが何か新鮮に感じられて、令和のエンタメやファッションの世界に取り入れるようなことが行われています。それは、おそらく老人の懐古趣味に取り入ろうとするものではなくて、現代の若者が「昭和」の要素を取り入れて新しいカルチャーを創造してみようとするムーブメントだと思います。

文化芸術の世界では、アートやファッションにしても音楽にしても、こうした「温故知新」はごく普通のことです。古いものが新しいものに「上書き」されて、完全にデリートされてしまうようなことはなく、どこかに保存されていて、いずれかの時代に何かのきっかけで掘り起こされ、新しい芸術活動の起点となって「新しいもの」として世に生み出されてくるのです。

さて、文化芸術の世界でこういうことが普通に起こるとするならば、経済社会においても同じようなことが起こりうるだろうか、「歴史は繰り返す」といいます。もし、そういうことが起こりうるとするならば、過去の経済事象を掘り返し、その理解に現代的な新しい視点を与え、それがわれわれが抱える課題に対して有用な解決策を見いだす糸口となる可能性があるかもしれません。

あるいは、こう考えることもできます。過去の巨人であるアダム・スミス先生やケインズ先生にハイエク先生、あるいはマルクス先生やシュンペーター先生が今生きてあるとすれば、彼らは現代の我々が抱える経済問題に対し、どんな処方箋を示してくれるでしょうか、そんな想像を思い巡らせることが、少なくとも現代の経済問題を巡る様々な論考の「適切性」を確認するための契機になるかもしれません。

(経済論は、上書き保存?)

一般的にいって、現代の経済人は、「歴史的にニンゲンは知識を蓄積してどんどん賢くなり、技術が進み、つれて経済社会もどんどん進化する」と考えているようです。ですから、過去の理論は絶えず陳腐化していき、古い理論は現代社会を読み解く役には立たず、現代のより精緻で高等な最新理論こそが、より有効なはずだ、ということになります。つまり、社会科学における経済論は、いったんは「上書き」されるか、デリートされる、これが一般的理解なのです。

例えば、ケインズ経済学は、戦後、アメリカの学者を中心にどんどん精緻化され、肉付けされて、アメリカの経済成長と経済政策の「適切性」を理論づける主流となっていました。しかし、1970年代にスタグフレーション陥ったアメリカで、ケインズ派の総需要管理政策が十分に効かなくなりました。その結果、1980年代に、ケインズ経済政策が急速に力を失い、フリードマン先生のマネタリズムや自由市場資本主義的政策に取って代わられました。

このように、経済理論というのは、もしそれがうまくいかなければ、これまで積み上げてきた理論体系を「諦めて」使わない、とする傾向があるようです。かつては「適切」とされていた経済論が現実に照らして、いつの間にか「不適切」なものと考えられるようになり、新しくて、より「適切」とされる理論に上書きされてしまいがちなのです。
本来は、自由主義論者のハイエク先生と論争していたケインズ先生が、もし生きていれば現代社会をどう読み解くだろうか、という視点で体系を調整し直すというやり方のほうが、王道のような気がします。しかし、実際は、現実の課題を突きつけられて、一気に別の体系(自由市場資本主義)に乗り換えてしまったのです。

(最新理論の方が優れてる?)

確かに、社会科学としての経済学や経営学は、まさに今日の経済社会の経済事象を理論的に解析し、課題を解決する処方箋をしめすことに、自らの存在価値を置いているのですから、その理論はより先進的で斬新な理論が望ましい、そう考えるのは不自然なことではありません。
ですから、先進国である欧米で高く評価される理論が出れば、すぐさま研究者によって日本に紹介されます。実際、そのようにして、サプライサイド経済学や合理的期待形成仮説や金融工学、行動経済学や、最近ではピケティの「21世紀の資本」、MTT(現代貨幣理論)などが、いちはやく紹介されてきました。

しかし、最新の経済理論が、必ずしも過去のものより、画期的で優れていると決まったものではありません。実際、現代において最新の経済理論として紹介されたものも、よくよく吟味してみれば、過去の理論の焼き直しであったり、あるいはその援用にすぎず、別段新味のあるものでもないことに気付くことがあります。例現代の現代の環境問題に関するたくさんの論考については、すでに1970年代に内外で多くの優れたものが出されていますし、資本の運動に関するものは、経済学の古典に多くのヒントを見出すことができます。

自然観察や実験で得た知見を積み上げて絶対的真理にアプローチしていく自然科学と異なり、経済学や社会学のような社会科学は、絶えず相互に影響し合って不定形に変化し続ける現実社会を叙述しながら、真理に近づき社会的課題を解決することを目的にしています。

経済の動きを解明しようとすることは、前講で述べたように、時々の人びとの心理状態や価値観の揺らぎを解き明かそうとする試みにほかなりません。ところが、その心理状態や価値観による経済行動が、「時と場合によって」実は不確かで必ずしも合理的ではないのです。
ですから、事後的には、人びとの行動を統計的に計量し、原因と結果を正確に解析することができるとしても、そこで得た知見が、将来次に起こる経済事象を正確に説明できるということを保証はしてくれません。
しかも、社会科学では、論者の一定の価値観から全く無縁に、問題解決のための処方箋を見いだすことは難しいのです。経済的事象とその与件は刻々と変化するし、それへの対応が、ある論者の価値観によって導かれている以上、その公理がいつの時代でも有効で「適切」なものであるとは限らないのです。

(課題解決のための数理的アプローチ)

例えば、1990年代には、人びとの心理状態や経済行動を高等数学や確率統計学を用いれば、限りなく現実に近い精緻な予測モデルを作りあげることができるのではないかと考えられ、盛んに研究がすすめられました。実際、これらは金融工学とし発展し、て現在の金融市場で、投資理論に用いられています。しかしながら、こと経済事象の将来予測という点では、現在においても、その試みは成功したとはいえないでしょう。結局、モデルの外に「ブラックスワン」(予測を超える大きな衝撃を与える事象)だとか「グレーリノ」(現時点では軽視されがちな潜在的リスク)と呼ばれる特異項を、説明上設けざるを得なくなっているのです。
ひょっとしたら、AIによって現実に限りなく近い精緻な予測モデルが出来上がる可能性があるかもしれませんが、ニンゲンの「恐怖」や「欲望」「期待」や「悲観」それに「道徳心」をアルゴリズムで数理化できるまでは、いまのところは、こういったアプローチには限界があると見るべきだと考えています。

(課題解決のための思想史的アプローチ)

経済事象は、先述したように利潤追求にかかわる「欲望」と「恐怖」と「楽観」と「悲観」に支配された人間の本性に突き動かされているという点において、過去も現代も変わることがなく、それを律する「道徳心」などについても、数百年前の人びとと現代人のそれとはさほど大きな違いがなさそうに思えるのです。

そうであるからこそ、過去と現在の経済社会も、技術の働きによって、大層違うように見えてはいても、実のところやはり形を変えて同じことを繰り返すのです。バブル経済のユーフォリアと破滅、自由貿易か保護貿易か、グローバリズムかローカリズムか、成長か分配か、社会主義的平等か自由主義的平等か、こういった経済事象やそれを巡る論争は、過去何百年にわたって、何十年周期で何度も繰り返されてきました。

そして、つまるところ、経済学が、こうした人の「欲望」や「恐怖」、「期待」と「悲観」、それを制御する「道徳心」とか「倫理観」をも取り扱うものであるべきであるとするならば、研究の矛先は、やはり経済事件史を含む経済史や経済思想史の研究に対して向かわなくてはなりません。

畢竟、経済学の最も肝心な部分は、テクニックとしての経済理論にあるのではなく、その理論を組み立てる土台となった思想や倫理なのです。すぐれた先人たちのさまざまな「思想」や「倫理」は、ニンゲンという種の本性が変わらないとすれば、時代が変わっても決して色褪せないし、それを訪ねることによって現代社会の理解に役立つ「新しい発見」や「新鮮な気づき」を導いてくれるにちがいありません。

次回は、経済学が自然科学や他の経験科学と違って、「ことば」と「土着性」という制約を負っているために、普遍化、すなわちグローバル化することが容易でないということを語りたいと思います。

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