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『少女終末旅行』を『堕落論』で読む



はじめに


 『少女終末旅行』は第五十回星雲賞を受賞したことでも有名な作品だ。かく言う私もその触れ込みで読んだクチだ。ネットでも日常系のゆるさと廃墟の頽廃さとがもっぱら評判になっていた覚えがある。
 部屋の掃除のついでに再読したのだけれど、その折に考えたことについてこれから書き綴っていこうと思う。つまり表題のとおり『少女終末旅行』を『堕落論』で読み解くという試みについてである。
 その前にまず『少女終末旅行』と『堕落論』のあらましについて言い及んでおこう。

『少女終末旅行』のあらまし


 『少女終末旅行』とは、二人の少女が文明の崩壊した終末世界で旅をする話だ。名はチト、もうひとりはユーリという。ふたりは紛争に巻き込まれて故郷を追われ、そのみぎりに「都市の上へと登りなさい」と同居人のおじいさんに言いつけられる。以来、主人公たちは、都市の最上層への到着を目指して流浪をかさねることになる。
 都市の「上」とはいったいなにか。そもそも作中の都市というのは、水とエネルギーを循環させる基盤殻層が何重にも重なってできた多重構造のものであるらしい。つまり都市全体がタワーのようになっているのである。
 幾世紀も前、古代人がこの都市をつくった。その存在は伝承レベルでしか伝わっていないほど、時を隔てている。しかし何らかの原因でその古代文明が崩壊してしまう。
 時を経て、新たな人間がそこに定住した。彼らの子孫が、チトやユーリなどの現世代にあたる。やがてその世代間で紛争がぼっ発して主人公たちは町を追われることになったのは先のとおり。
 つまり、この漫画は古代文明モノであり、かつポストアポカリプス物でもあるというわけだ。これは大変わかりにくい。
 さて、物語の内容について話へ移そう。物語は、旅の道中でのさまざまな人やものとの邂逅と、その出会いに対する主人公たちの所感とが主な内容である。百合カップルの掛け合いと廃墟群とがもたらす頽廃的な雰囲気を楽しめるひとにはオススメだ。しかし個人的には好みの分かれる漫画ではないかしらと思う。
 で、結局主人公たちの「都市の最上層へ向かう」という目的はいったいどうなったのか。それは、物語終盤まで読み進めれば分かる。最上層には、なにもなかったのだ。つまり主人公たちの1~6巻までの努力は全て水泡に帰してしまったのである。自らの末路を悟ったチトは自害しようとするも、ユーリの持ち物から思いがけなくレーションをみつけたので結局自害は延期。「ねぇ…これからどうする?」「…さぁね」「とりあえず食べて…」「少し寝て…」「それから考えよう」でfin。ふたりの辿る末路はぼかされたまま物語はおわりを迎える。

『堕落論』のあらまし

 『堕落論』は、小説家・坂口安吾の手になるエッセイだ。
    彼は哲学を専攻し、そこで仏教書や哲学書などを耽読した。戦前には、処女作の『木枯の酒蔵から』や『吹雪物語』などを発表。戦中は、徴用を避けるために日本映画社の嘱託をしていた。そして終戦後に『堕落論』を発表。
 『堕落論』発表当時、日本人は価値観の転換を迫られていた。一九四六年の「人間天皇の宣言」といわれるところの詔書で、戦中に神だったはずの天皇が人間になるような時世。敗戦直後の混乱もひとしおだったろうと偲ばれる。
 それでもジャーナリストや知識人たちは、「戦後国民の道義頽廃せり」と旧体制に恋々としていた。「特攻隊員の生き残りはヤミ屋をするな」「戦争未亡人は貞節を守れ」などと彼らは頻りになげいていた。
『堕落論』は、こうしたセンシティブな話題からはじまる。
 安吾に言わせれば、特攻隊員がヤミ屋となることも、戦争未亡人が新しい面影を胸に宿すことも当たり前のことであるらしい。生来、人間は心変わりしやすいものだ。このドライな人間観にもとづき『堕落論』は展開されていく。
 なるほど、人間とはもともと心変わりしやすいものではある。しかし変節漢ばかりでは社会が成立しないので、民衆の統制のために支配者は、人性の弱さを克服させる道徳的な規範をつくった。この規範というのが、戦中の天皇制や武士道にあたる。このようにつづけて彼は、道徳規範の由来に独自の分析を加えてゆく。
 これをふまえると、支配者のイデオロギーが民衆側へ一方的に押し付けられる構図を想像するかもしれないけれど、事態はそのような一枚岩ではない。
 安吾の歴史観の特徴は、歴史をひとつの巨大な生物としてとらえているところにある。彼いわく、民衆も本能的に天皇制や武士道を望んでいたという。これには日本人特有の国民性が深く関係しているらしい。しかしまぁ武士道や天皇制なんかが日本人の心理を支配してきた日月のながさを思えば、国民性や本能をめぐる安吾の説もあながち間違いでもないのかもしれない。そして支配階級もその民衆の性癖を本能的に嗅ぎ取り制度をつくる。本能レベルで作用する歴史的カラクリは日本人の個というものを没入させて、歴史それ自体がひとつの生き物として別個に意志をもちはじめる。
「支配することを本能的に望んだ日本人・支配されることを本能的に望んだ日本人」
という構図が実際なのだと安吾は指摘する。天皇制に代表される諸制度とは、本能で結びつけられ、個人の顔のみえなくなった、歴史という巨大生物の意志によるものなのだと。
 また、安吾は「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである」という。ここの政治を制度と読み替えてもよいだろう。たしかに制度への献身は世間ではおおいに表旌されるものではあるけれど、その「美徳」は人間的なお約束の上になりたっている。善行をすれば天国へ行けるというけれど、それを誰が保証してくれるというのか。盲目的な遵法のうちに人間存在の活路は存在しない。
 ならどうすればよいのか。
 ここで、安吾は、「堕落」という人間の実相に立ち返ることによって、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いといえる人性のあり方に復帰するべきだと説く。しかし人間はどこまでも「堕落」に徹することができるほど堅牢な精神に恵まれていない。その弱さが「堕落」を食い止めるための制度を生み出す。
 つまり、「堕落」という人間の実相は「制度」の倒錯性に復讐するけれども、その「制度」は「堕落」という母胎によって生み出される。こうしたマラソンゲームのなかで前時代的な制度を改善していくためにも、安吾は「堕ちよ、生きよ」と日本人に呼びかける。この点について批評家・寺田透は、一見当為にもみえるような仕方で日本人の現状の正当さを証明したと指摘している。
 ここまで『堕落論』の大要を説明してきた。いままで説明してきたところで納得できないところもあるかもしれないけれど、とりあえず論をすすめるにあたって彼の主張を一応の前提としよう。

『少女終末旅行』を『堕落論』で読む


 『少女終末旅行』を通読しているとき、私は『堕落論』の一説に、戦後まもない頃の焼け野原になった東京の情景に、思いを致していた。安吾によれば、終戦直後の東京は、驚くべき無心で充満していたという。家も自動車も人間もすべて泥に帰し、上品な父娘は壕端に座りこむ。廃墟群のあいだでも、それはさながらピクニックのようであった。そして罹災者たちは道中の死体に一瞥もくれない。たまさか気づいても紙屑ほどの関心しかよせない。すべてが異常だった。それでもこうして滅びの運命に従順にしたがう姿は、ふしぎと人のこころを惹くものらしい。安吾はその様を「虚しい美しさ」と形容した(この「虚しい美しさ」は、その安らかさと従順さにおいて盲目的な遵法の美しさに通ずる)。
 こうした≪とりまく環境のすべてが異常であるにもかかわらず、人間が「虚しい美しさ」として生きつづけている≫という『堕落論』中の構図が、私のなかで『少女終末旅行』とダブったのである。ただ『堕落論』と『少女終末旅行』とのあいだのもっとも大きなちがいは、終戦後の罹災者が長い時間のなかで「堕落」を直視したのに対して、チトとユーリは掉尾まで「虚しい美しさ」として生きつづけたことだろう。
 滅びの美学に陶酔しつづけようと、罹災者は否が応でも美も道徳もなく生き抜かなければならない現実および「堕落」に直面する。だからほとんどの人がヤミ屋に関わったり、女性なら体を売ったりした。
 対して『少女終末旅行』の場合、生々しい「堕落」に直面する場面はほとんどないといえる。あったとしても、それはせいぜい間接的なかたちで伝わっていたに過ぎない。荒廃した戦場や巨大な人型ロボット、ゲルニカ風絵画など。その意味で終末世界は都合のいい揺りかごだった。
 そうして、ふたりは、無邪気なまま終生「生きる喜び」を信じ続けていた。その屈託のなさがいかに不健全か。チトとユーリのふたりが終戦直後の東京にいるところを想像してほしい。ふたりは敗戦の憂き目をみても爽やかに笑っていることだろう。実際、往時を生きた東京の少女たちは、焼け跡から瀬戸物をほじくりだしたり、荷物の張番をして路上で日向ぼっこをしたりしていたという。そして東京の少女たちが瀬戸物いじりや日向ぼっこに興じ、1~6巻に相当する長い時間のなかで絶えずそれを繰り返しているところを想像してほしい(終盤のチトは苦悶の表情をちらとみせていたけれど)。『少女終末旅行』の不健全さ、歪さはちょうどそれにあたる。
 『少女終末旅行』終盤、最上層にたどりついた主人公は、「生きるのは最高だったよね…」と自らの畢生をふりかえる。滅びの運命に身をゆだねる安らかさは、扉絵の星空も相まって圧倒的な美しさに輝いていた。しかしその美しさは、いかにも日本人好みの情緒主義と趣を同じくしている。換言すれば滅びの美学とも。それはたしかに美しい。しかしこれが人間の真実の美しさなのだろうか。
 『堕落論』中で安吾は、美しいものを美しいままで終わらせたいという心性を処女信仰のうちに見出していた。それになぞらえるなら、終末世界はチトとユーリを「処女」のまま刺殺したといえる。この展開に作者の弱さを読み込むこともできる。しかし人間の精神は「堕落」に際限なく向き合えるほどの堅牢ではないし、その弱さは制度ならびに秩序の萌芽である。秩序のもつ美しさは、十話・三五話・四三話などにみられる。その話に登場する芸術や宗教、学問なんかは秩序の最たるもので、むしろ処女信仰こそが作品の整美さにつながっているといえる。
 人間は愚かしく不格好なものではあるけれど、それも愛嬌のうちである。結局私は、チトとユーリの精神性の美しさが人間らしからぬものだったことに不満だった。作中で彼女らは人間の本性とも言えるものについぞ直面することはなかった。終始「虚しい美しさ」が画面のうちに蠢動していただけで、『少女終末旅行』にはただのひとりとして人間が登場することはなかったようにさえ感じた。
 そこまでは思わなくとも、読者のうちでも「チトとユーリは美しいうちに死んでくれてよかった」との考えが通読時に頭をよぎるくらいのことはあったのではないか。
 しかし私は、チトとユーリに「苦しめ」「人間の醜さに向き合え」などとむやみに言いたいわけではない。むしろそうした場合、作品の美点をこぼつだけだ。
 『少女終末旅行』の美点と弱点とはウラオモテになっている。こうした状態を自覚することに、上のような批判を書くこと自体に、意義があると私は考えている。

参考にした本

日本文芸鑑賞事典 14巻 429~436あたり
矢島道弘の「堕落論」「解釈と鑑賞別冊 無頼派を読む」
神谷忠弘の「『堕落論』」「解釈と鑑賞」

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