ひかる番長

抗がん剤専門の資格を持つ看護師です。産まれた時から波乱万丈の人生を歩いてきました。親か…

ひかる番長

抗がん剤専門の資格を持つ看護師です。産まれた時から波乱万丈の人生を歩いてきました。親からの虐待、夫からのDV、離婚娘は性同一性障害で息子になりました。現在は1人で趣味の筋トレや映画鑑賞と楽しく過ごしています。目標はNHKの「プロフェッショナル」に出演することです。

最近の記事

小学生卒業

小学生時代に寂しい思いをして過ごしてきたアレンにも6年生の時に彼氏ができたと聞いた 元々ボーイッシュだったアレンに彼氏?とは意外な感じがしたが、1度だけその男の子を見たことがあった あまり一緒にいる場面は見なかったが、楽しく過ごせているのならそれでいいかなと思っていた しかし、それはほんの短い間だったような気がする。彼氏の話しを殆どしなかったからよく分からなかったけれど 「彼氏どうなった?」「別れたよ」 まぁ理由までは聞かなかったけれど 若い子にはよくあることである

    • 明るく寂しい笑顔

      おはようございます。コロナの影響で忙しく、なかなか投稿できませんでしたが、今日は私とアレンがどうやって生きてきたか、前回の続きからお話致します 私が外来夜勤の時は 1人でバスに乗り実家へと泊まりに行っていたことは以前にも投稿した 息子が小学4年生になった時、私は病棟へ異動となった 病棟は3交代で、日勤で働き 1度帰宅して夜中からまた仕事という勤務であった。外来の時と違って 病棟勤務になった頃から、アレンは学校から帰っても実家には行かなくなった それはどういうことか?夜中

      • 幼少の息子が生きてきた人生

        皆さま おはようございます 母の件で色々と忙しくしていまして、アレンのことを投稿していませんでした 今日は息子の事を話したいと思います 以前にも言いましたが、私も波乱万丈ですが、息子(産まれた時は娘)も波乱万丈の中を生き抜き、今生きています 保育園の頃はストレスで喋れなくなったり、夫の私に対する暴言や暴力を見て育ってきました どういう気持ちだったのでしょう…  本当に立派な自慢の息子です   息子(娘)は小さい頃から無口で、物欲が殆どありませんでした 自分の欲

        • 生きることを諦めなかった母

          妹が帰国して、弟と3人で母の面会に行った 2日前にかなり悪い状態だった母を、私達は更に悪化しているだろうと覚悟していた 面会の手続きを終え、母のベッドサイドに向かう。「なんとなく怖いね」と話しながら病室に着いた 酸素のマスクは外れ、鼻のチューブからの酸素に切り替わり、呼吸も安定していた。更に呼びかけると返事をし、私達ひとりひとりの認識もできた 天国が近そうに見えた2日前、完全に現代に戻ってきていた。何という生命力だろう。海外から帰国した妹は喜んでいたが、私は特に何の感

          1人で頑張ってきた娘

          前回に引き続き 娘が小学生1年になった頃 私は外来で勤務をしていた 外来でも、月に3回は当直というものがある。罹りつけ患者の急病や救急車の対応など、忙しい時は一晩中仮眠できずに仕事の時もある 私が当直の時は、娘は当然家で1人になるため、車で30分、バスで50分ぐらいの所に住んでいる両親が面倒を見てくれていた と言っても、両親がうちに来てくれるシステムではない 娘は学校が終わったら、バスに乗って、私の実家へ行っていた。実家はバスで40分 降りるバス停に着いたら、そこ

          1人で頑張ってきた娘

          日に日に容態が悪化する母

          今日もひかるブログに訪れて下さりありがとうございます 前回の続きを書きます 緊急入院した母は夕方までは何とか落ち着いていたようだった。しかし夜中の23時に病院から電話がはいった。母の容態が急に悪くなって、肺炎も併発して酸素投与をしているから、今すぐとまではいかないが、できればきて欲しいとの連絡であった 第一連絡先は弟にしていたはずなのに、なぜ私に連絡が入ったのか? 病院から電話があったことを弟に連絡したら「自分の所に連絡がきたけど、聞いても分からないので、姉に連絡して下さ

          日に日に容態が悪化する母

          離婚後 2人の生活の始まり

          夫と離婚後、小学生になった娘と2人 頑張ってやって行くことを2人で話し合った 「ちょっと話しがあるから、ここに座って」 小学生を目前にした娘を呼び、畳に座らせ話しを始めた 「これから本当に2人で生きていかなけらばならない。と言うことはママとアレンが自分の事は自分でできないとどうしようもない。万が一ママがいなくなっても、ちゃんと生きていけるようにしないといけない。今後2日でちからを合わせて頑張って生きていこう」 みたいな話しをした記憶がある 娘が小学生1年目から、私は外

          離婚後 2人の生活の始まり

          楽しい誕生日の時の緊急連絡

          昨年の私の誕生日の夕方の出来事です 息子と彼女が 貴重な休みを使ってランチに誘ってくれた ピザとパスタが美味しい こじんまりしたオシャレなカフェだった 私と息子はパスタを 彼女はピザを注文し 3人でシェアして頂いた 人気のお店らしく ランチは予約でいっぱいだったので 飛び込みのお客さんは断られていた 息子達は1度来たことがあるらしく 予約していなかったため 入れなかったそうだ 1時間程ランチで楽しい時間を過ごし 私は趣味の映画を観に行った お目当ては「アナログ」

          楽しい誕生日の時の緊急連絡

          誕生日の嬉しい出来事

          たまには暗い投稿だけではなく、明るい話しもしたい物です 今日は明るいニュースをお届け致します 昨年の私の誕生日の話しです!念願の誕生日がきた日   何が念願なんでしょうと思いますよね! 実は 誕生日には堂々とケーキが食べられますよね! 遠慮することなく ダイエット中でも躊躇することなく 「誕生なんだから♪」と 当たり前のように誕生日にはケーキは付き物です しかもですよ 普段買わないホールのケーキを拝むことができます まぁ 家族と一緒に住んでいるわけでもないので ホ

          誕生日の嬉しい出来事

          家族が壊れるまでの経緯 その4

          いつも読んで下さりありがとうございます 前回の続きです もう少しお付き合い下さい(*^-^*) 「また夫が元気に働いてくれるかも」と考えた私は 勤務先の大先輩に相談し 環境を変える事にした 賃貸のアパートに住んでいたのだが 心機一転 マンションを購入する事にしたのである もしかして 新しく家を購入すれば2人でちからを合わせてローンを返済すると言う目標ができる 「自分の持ち家があれば 夫も頑張ってくれるのではないか」   と考えた 当時は日本で大きな地震があった後で

          家族が壊れるまでの経緯 その4

          家族が壊れるまでの経緯その3

          夫が社長職に着き 3年が経過した その頃から 少しずつ仕事が減っていった  日本に3社しかない会社の下請けだったものの なぜ 仕事が減ったのか私には分からなかった 当然収入は減り 社員は少なかったが給料を支払わなければならない 会社の経営と言う物を何も知らず 勉強もせず 貯金もできていないため 給料の支払いが滞るようになった 社長になり 初めて経営の壁にぶつかったのである  さてどうするのか 自分の目の前に 大きな壁ができた時 それを乗り越えるちからがあるかどうか

          家族が壊れるまでの経緯その3

          家族が壊れるまでの経緯 その2

          社長となった夫は 「人を使う」ことに全く知識も技量もなかった 前回にも書いたとおり 裕福な環境にはしてくれた しかしお金に関しての管理は全くできなかった あればあるだけ使う 私は9歳年下でありそれこそ看護師の仕事しかできず口出しをすることはなかった それに小さな娘もいる 他の事を考える余裕はなかった なによりも夫を信頼していた 今思えば大酒飲みにどうしてあんなに信頼を置いていたのか それは分からないと言いたいが あとから考えれば これも親の愛情を受けてこなかったこと

          家族が壊れるまでの経緯 その2

          家族が壊れるまでの経緯 その1

          夫と結婚する前は 夫はかなりの酒飲みだと知っていた 結婚する条件として「お酒はやめること」と言った それからは 夫の周りの人もびっくりするくらいにちゃんとお酒をやめた 夫からお酒を遠ざけた私は 夫の友達の間では「すごい女の子」と言われていたようだ なんせ 大酒飲みだったようだからだ 私に会う時はいつもお酒の匂いがしていた 宇多田ヒカルの「ファーストラブ」の歌詞にもあるように「煙草のフレィバー」ではなく 「お酒のフレィバー」であった しかしそれは3年で崩れた 1回

          家族が壊れるまでの経緯 その1

          私の母は教育ママゴン 3

          またまた前回の続きです 読んで頂きありがとうございます 母が10冊セットのでかい辞典を購入してから 読むように言われた私は割とふてくされていた 1冊1冊をチラチラと見たが、全く面白くなさそうなのである 挿絵も少なく 難しい文字ばかりで これを私に与えた母は何を期待していたのだろうか しかし その中の1冊に私は魅了されてしまったのである この辞典ばかりは暇があればいつも開いて見ていた しかも同じページばかりを見ていた それは「人間の解剖」と「臓器のしくみ」だった 何

          私の母は教育ママゴン 3

          私の母は教育ママゴン2

          前回のブログの続きである 皆様 いつもブログを読んで下さり本当にありがとうございます 弟はカタツムリを食べていたが、途中で母が気付き吐き出させた カタツムリの殻は壊れていた 家を失ったカタツムリは実質ビジュアル的にはナメクジだ ほら見てごらん♪ 私を教育しすぎた代償であると小学生ながらに心の中でほくそ微笑んだ 勉強に厳しかった母だが 将来的には私にとって良いこともあった テレビを見せてもらえず 本ばかり与えられたいたため 国語の成績だけは大変良かった 文章の読解

          私の母は教育ママゴン2

          私の母は教育ママゴン

          幼稚園の頃から母はとにかく私に教育熱心だった 妹がまだ産まれてない頃からテレビは見せてもらえず 本を沢山与えられた まずは幼稚園児がよく見る「めばえ」と言う雑誌 今は出版されているかは分からない 小学生になれば学研のテキストを1か月に1度定期購読して 算数や国語の勉強をさせられた 私はとにかく算数が苦手だった 全く分からないのである とにかく頭が悪い 今でも悪いが・・・ 母が買い物に出かける時に 算数の問題を渡される 「お母さんが帰ってくるまでこの問題をしときなさ

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