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小説 誕生日 第5話

 姉貴は立ち上がり、座敷の机の上の皿を集め持ってきた。残っていたイチゴをこちらの皿に加え、台所の流しで皿を洗った。

「でもさ、姉さんは親孝行してるよな。こうやってほたるを産んで、親父もおふくろも楽しみができたし――」

 椅子に戻った姉貴は足を軽く組んだ。

「だってさ、やっちゃん……」

 姉貴はしんみりとした口調になり、誰もいない座敷に顔を向けた。 

「私たち、捨てられたんだよ……」

 まるで独り言のようだ。

「野垂れ死にしたっておかしくないのに、こんなに大事に育ててもらってさ」

「まあ、確かに……」

「私にできることなんて、こんなことしかないもん」

「うん……」

「覚えてる?母さんが怒った時のこと……」

 姉貴は目を大きく開けて僕を見た。

「姑に反抗なんてしたことのない従順な嫁がさ、私のために怒鳴ってくれるんだよ……。ほんと、あの婆さんだけは今思いを出しただけでもムカつくけどね」

 姉貴は座敷に置いてある仏壇の上の祖母の写真を顎で指した。 

「そういえば、ばあちゃんと姉さんはよくケンカしてたよね」

 僕は子供の頃の光景を思い出し軽い気持ちで言った。すると姉貴はガバリと僕の方に尖った顔を向けた。

「別に好きでケンカしてたわけじゃありません。あのババアが、事あるごとに『やっぱり佐和子の娘は――』とか言うからさ。知らねえよ、私らを捨てて人のことなんて!」

 姉貴は顔がその人に似ているらしく、祖母は姉貴の行動が気に入らないと口癖のように「佐和子の娘は」と言った。幼い頃は黙って聞いていた姉貴も、小学校の高学年頃から「知らねえよ」と口ごたえをするものだから余計に、「やっぱり佐和子の娘は生意気だ」「やっぱり佐和子の娘は目つきが悪い」「だらしない所は佐和子にそっくりだ」などと鬼ババのような顔で言った。

 ある日、いつものように家族で夕食を食べていた。長方形のテーブルの短辺部には祖母が座り全体を見渡していた。流しを背に左隣に親父、その隣におふくろ。座敷を背に右隣に姉貴、その隣に僕が座っていた。姉貴のご飯の食べ方が気に入らなかったらしく、

「京香は相変わらず行儀が悪いね。やっぱり佐和子の娘は――」

 そう言いながら祖母は鋭い視線を向けた。姉貴は無視をしてご飯を食べ続けていた。祖母が「佐和子の娘は」と常日頃から言っていることは親父もおふくろも知っていたが、田舎の因習として年上の者に意見をするということは難しいことのようで、両親は何も言わなかった。

 まして、おふくろにとって祖母は姑になり、絶対服従とまではいかないにしろ、そういう雰囲気は子供の僕でも感じていた。ただ、祖母のいない所でおふくろは姉貴に「おばあちゃんの言うことは気にしなくていいんだよ」とは言っていた。そして「京香は正真正銘、父さん母さんの子だからね」
とも。それがおふくろにできる精一杯の愛情だったのだろう。
 
「そのふてぶてしい所も――」
 祖母がまた毒を吐こうとしたその時、

「いい加減にしてください!」

 厳しい口調でおふくろが言った。大きな鉄球が庭に落ちてきたのかと思うほど衝撃が響いた。僕は箸を持つ手が止まり、視線を上げた。親父と姉貴も同じだった。

 おふくろは手に持っていた茶碗と箸をそっとテーブルに置いた。

「京香は佐和子さんの子供じゃありません」

 決して大きな声ではないが、隙のない迫力のある声だった。おふくろは毅然とした顔で祖母を見ていた。怒りをぶつけている、という感じはしなかった。

「何を言ってんだ、この子は佐和子の――」

「いいえ、京香は私たちの娘です」

 再び祖母の言葉をさえぎり言葉を放った。おふくろはどんな強い風にも揺れることのない灯台のようだった。

祖母は黙ってうつむいた。

 程なく、おふくろは静かに箸と茶碗を持ち上げ食事を再開した。もういつものおふくろの顔に戻っていた。

 それが合図のように、僕たち三人もまたご飯を食べ出した。おかずもご飯も味がしなかったが、黙ったまま口へ運んでいた。

 五分も経たないうちに、祖母が呪いの呪文でも唱えるように低い声で「ごちそうさま」と言い、そろそろと席を立った。ご飯もおかずもお茶も、まだ半分ぐらい残っていた。そして部屋を出て行った

 なんとなく緊張していた空気が和らぎ、次第にご飯の味が戻ってきた。横を見ると姉貴はニヤニヤしながらご飯を食べていた。おふくろはいつも通りのおふくろだった。

「お父さん、ご飯おかわりしましょうか?」
 おふくろが声を掛けた。親父の茶碗は空になっていた。

「いや……、もういいわ。母さん、ぶりの照り焼き美味しかったよ」

 親父はしみじみと言いながら、優しい笑顔をおふくろの方に向けた。親父がご飯の味を褒めるのを初めて聞いた。

「うん、美味しかったー」

 姉貴もにっこりと、甘えるような顔をした。

「ああ、そう。よかったわ」

 空になった自分の食器を重ねながら、おふくろは淡々と言った。そして、ごちそうさま、と立ち上がろうとした。

「僕も美味しかったよ」
 
 あわてて僕も声を掛けた。

「ああそう、よかったわ」

 おふくろは目を細めニコリと頷き、立ち上がった。そして流しへ食器を運んだ。流しに立つおふくろの後ろ姿を見ながら、僕は晴れ晴れしい気分になっていたことを今でも覚えている。

                     ( 第5話 終わり )


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