超絶技巧の短歌へ手をのばす

はじめに

 このノートは東京大学工学部応用物理学系2学科(物工/計数)のアドベントカレンダー25日目のものです。最終日に応用物理と無関係な話題でお恥ずかしいばかりですが、みなさんの勉強の息抜きになればと願っています。
 いまから短歌を紹介させて頂こうと思います。特にその超絶技巧に焦点を当て、7つのテーマで展開するつもりです。どのテーマも独立して読むことができます。このノートは長いので、適当にスクロールして気に入る短歌を見つけ、その部分だけを読んで頂いたりするのが良いかもしれません。いまここで起こり得る最上のことは、みなさんとここに載っている短歌とが特別な関係を結ぶことであって、僕の言葉が全てそのための優れた犠牲として機能することを祈っています。

1.いかにも超絶技巧

 まずはこのノートのきっかけとなった短歌を紹介します。作者の川野芽生さんは東大の卒業生です。

わがウェルギリウスわれなり薔薇さうびとふ九重の地獄Infernoひらけば 

川野芽生

 いかにも超絶技巧という感じで難解ですね。句またがりを含み複雑な調べです。
 この短歌に手をのばすためにはダンテ神曲』が必要です。『神曲』は14世紀に書かれた長編叙事詩で、「地獄篇」、「煉獄篇」、「天国篇」の3部構成です。「地獄篇」において、主人公ダンテは実在した詩人であるウェルギリウスに導かれ漏斗状の多層の地獄を降りていきます。この歌は「ウェルギリウス」や「地獄Inferno」という語で『神曲』と結びついています。
 この歌には言葉と深く交わりながら美に生きていくことへの川野さんの覚悟が詠み込まれていると思います。その立場で僕なりの解釈を書いてみます。

いま、目の前に薔薇がある。花弁は九重であり、『神曲』の地獄を連想させる。薔薇は実際地獄である。なぜならそれは完璧な美だからだ。言葉を寄せ付けず、ひとを寄せ付けない。しかし詩人はその地獄を歩んでいく。ダンテはウェルギリウスの案内で地獄を降りていき、戻ってきた。私を地獄へ案内するひとは誰なのだろうか? いや、そんなひとはいない。私は、私自身の案内で、美という地獄を生きていくのだ。

 だから「わがウェルギリウスわれなり」というわけですね。非常に頭を使う感じです。でも「薔薇さうびとふ九重の地獄Infernoひらけば」という典雅な下の句を過ぎると、「ひらけば」という情緒的な終わり方も相まって、薔薇の深い香りがどこからか漂ってくるような、頭がボーっとするところに連れて行かれます。薔薇という小さなものに地獄という壮大なものを見出す屈折も、歪んだ恍惚をもたらしてくれる気がします。理知的で、それでいて神秘的な、この歌によってのみ結びついているような精神的な領域の存在を感じませんか。
 こんなに短いのにこれほど深遠なものを含んでいるなんて、まさに超絶技巧だと思います。

2.神がかり的連想

 この節では穂村弘さんの短歌を扱います。

惑星別重力一覧眺めつつ「このごろあなたのゆめばかりみる」 

穂村弘

 惑星別重力一覧を眺めていたら、「このごろあなたのゆめばかりみる」と言ってしまった。「あなた」がそこに居合わせているのかは分かりません。でもとにかくそう言ってしまった。全てひらがなですから、何にも考えずふと口をついて出たという感じでしょう。「あなたのゆめばかりみる」ことに呆然としているんですね。どんな関係性なのか、危うい想像が膨らみます。
 そういう特別な心の動きが、惑星別重力一覧を見ていたら起こった。強い重力や弱い重力、そういったデータが整然と数字で並んでいる。それでいてその背後には惑星たちのロマンチックな存在感もある。恋をしているとき、ひとは浮かぶような気分になったり強く引っ張られたり、めちゃくちゃな重力が働きますね。惑星別重力一覧には載っていない重力が。
 上の句と下の句は一見無関係ですけども、少し立ち止まってみると大変な魅力を帯びながら結びついていることが分かります。神様が人間の魂の辞書みたいなものを持っていたら、この二つって実は並んで書かれてるんじゃないのと言いたくなるような……歌人の感覚って超絶技巧的です。

陽光のなかに夜明けの夢を告ぐ スプリンクラーにとまる黒揚羽

穂村弘

 「スプリンクラーにとまる黒揚羽」ってすごく甘美なイメージじゃないですか? スプリンクラーという祝祭的なものと、黒揚羽という暗闇的なものが、刹那的に緊張関係を結んでいる感じ。ここだけでも結構ビビビと来てしまいますけども。
 スプリンクラーが稼働しだしたらたちまち黒揚羽が消えてしまうように、これ以上陽光が強まったらこの夜明けの夢の記憶も消える、そんな静謐な朝の光景が上の句ですね。同じベッドの上か、隣あった布団か、親密な関係の二人の一方が一方に語りかけている。どんな夢を見たのでしょう。黒揚羽というくらいだから悪夢なのかもしれないですが……僕はなんとなく、二人の未来を難解に暗示するような夢だったんじゃないかと妄想します。「告ぐ」という言い回しが神託を連想させるんです。二人が男女だとしたら、夢を語っているのは女性の方だと思います。巫女というか、映画「ドライブマイカー」のイメージで。下の句は二人にこれから訪れる運命の暗示でもあるでしょう。
 この節の終わりに穂村弘さんの短歌をさらに三首、簡単に紹介したいと思います。

目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

穂村弘

 無邪気な冬の朝への期待感が伝わってきます。

「何」「あの窓」「棲みたいの?」「うん、一緒にあの部屋に棲んで傷つけあおうよ」

穂村弘

 普通は、「あの部屋」「何、棲みたいの?」というように最初の問答は書かれると思うんです。でもそれを、「何」「あの窓」「棲みたいの?」と書く。僕が言うのは無粋ですけど、こういう些細なところがやっぱり普通じゃない。これによって白眉の最後のセリフが一気に詩として際立つんですね。

赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書

穂村弘

 楽しい歌です。ただ内容をよくよく見ると瀆神的で結構エグい。色彩が洪水を起こすようなイメージの中で聖俗が境界を失っている、そんな生き生きとした無垢さに陶酔します。

3.日常を鮮やかに

人間はしっぽがないから焼きたてのパン屋でトングをかちかち鳴らす

岡野大嗣

 パン屋でトングをカチカチ鳴らす、僕もやったことありますし、やっている人を見たこともある。特になんとも思いません。でもこれが「人間はしっぽがない」から起こることなんだと説明されるとどうでしょう。好きなパンを選んでいて楽しい、犬だったらしっぽをふって表現するけども、人間はあいにくしっぽがないので手持ちのトングをその代用とする。パン屋の日常的な光景がたちまち微笑ましい特別なものに感じられませんか。 

死後を見るようでうれしいおやすみとツイートしてからまだ起きている

初谷むい

恐らく部屋の電気を消し布団に入った状態で「おやすみ」とツイートしたのでしょう。FFがいいねをしてくれたりしたかもしれない。さぁ寝よう、明日も早いし……そこからなんとなくTLとか見てしまうんですね。でもツイートはできない。リツイートもいいねもできない。なぜなら「おやすみ」と言ってしまったから、もうみんな私が眠ったと思っているから。寂しいとかではない、世界で自分が一人ぼっちであることの、この甘やかな感じ……これを「死後を見るよう」と表現する。唸ります。優しい超絶技巧ですね。

ほんとうの名前を持つゆえこの猫はどんな名で呼ばれても振り向く

鳥居

 野良猫でもなんでもいいですが、とにかく猫に人は名前をつける。その名前で猫を呼べば振り向いてくれる。それがこの猫の名前だから……ところが別にその名前じゃない名前で呼んでもその猫は振り返る。人は笑いますね。なんだこの猫は何にも分かってなくて、ただ餌欲しさか何かで振り向いているだけなんだと。 
 ところが詩人はそうは思わない。猫がどんな名前で呼ばれても振り向くのは、本当の名前を内に確かに秘めているからだと考える。猫の神秘性というものが説得力を持ちながら立ち上がってきますね。
 本当の名前で呼んだら猫はどう返事するんでしょうか。愉快な想像が膨らみます。それに僕自身の本当の名前というものにも思いを馳せてしまいます。僕はいま自分の名前以外で呼ばれたら振り向きませんけども、それはこの名前が本当の名前じゃないからかもしれない。ドキドキしてきますね。
 しかしこの歌の発想は超人的だと思います。僕なんか何度生まれ変わったって思い付かない。

4.現実の裏側を覗く

 この節では僕の曲解が含まれるかもしれません。批判的にお読みください。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

中澤系

 本来なら万人に対して「黄色い線の内側へお下がりください」というところを、「理解できない人」という限定的な人間に対してのみアナウンスが行われている。「理解できない人」とはなんでしょうか。
 アナウンスを無視して下がらなければ、快速列車にはねられて死ぬ。「理解できない」とはこのことに関してでしょうか。それはそうだと僕も思います。でもそれだけだとこの短歌の底知れない恐ろしさというものを説明できない気がする。
 あくまで僕の考えですが、ここでは「人間は自ら命を絶ってはいけない」ということに対して「理解できない人」というふうに言っていると思います。自ら命を絶つ人が「人間は自ら命を絶ってはいけない」という(漠然と共有されている)倫理をつゆも理解していないということはあり得ない。あり得ないのだけれど、システムは「あぁこの人が快速電車に飛び込んだのは、そういう倫理を理解していなかったからだろうな」と考えて処理する。そこにあった個人の複雑な魂の過程とか尊厳といったものは考慮されない。考慮していたらシステムにならない。
 現代のシステムがもつ個人への冷酷さというものを、我々が日常的に聞いているシステムのアナウンスを少しだけ変化させることで暴露する。大変な技巧です。市民も思考をやめ自動化しシステムの一部となっているところへ、この歌は亀裂を走らせますね。それによって現実がずるりんとめくれ上がって不気味で冷酷な裏側を明らかにする。「異化」という芸術の最大の機能の一つが発揮されている歌だと思います。

5.輪郭だけ照らす

  初句七音で、七・八・五・七・七となっている歌です。癖になる破調です。七・八が「嵐」という感じを引き起こしませんか。

嵐の海を嵐のこころが描いたとは限らないけどターナーの海

大森静佳

 ターナーの絵、特に嵐の海が描かれているものを鑑賞する。荒れ狂っています。きっとターナーは嵐のこころでもってこの絵を描いたのだと、そう思う。
 ここで詠まれていることはざっくり言ってそういうことですよね。でも語り方がすごい。「嵐の海を嵐のこころが描いたとは限らないけど」、そう頭では分かっているんだけど、ターナーの海を目の前にして身体は昂ぶっていく、きっとターナーの嵐のこころであるに違いない何かに引っ張られる、圧倒される。言葉を超えた激情を、「限らないけど」で打ち切って語りきらないことで表現する。超絶技巧です。

煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火

井上法子

 もしこの世に永遠の火があるのなら、この歌はその輪郭ですね。ひらがなの「だいじょうぶ」、その両側の空白、そして歌全体の対称的な姿は、永遠でないものたちの儚さを浮き彫りにするようです。日常のなかの、祈りのように些細な、人が生きていくことの根本的な危うさが、そのまま表現されていると感じます。あらゆる意味で完璧な歌です。人間業じゃない。

 次の歌はこの節のテーマと少しずれてしまうかもしれませんが、好きな歌なので紹介させてください。

知覚しているより青くさみしさを喩えたことの罰なのだろう 

兵庫ユカ

  「知覚しているより青くさみしさを喩え」ること、これには様々な意味あいがあると思いますが、ここでは詩を書くことを指していると考えてみます。すると詩は罪であり、罰の対象であるということになる。その罰は明かされていませんから、詩の罪深さがどれほどなのかも分かりません。しかしそれによって、詩が持つ罪深い魔力というものが、この歌の陰から限りなく伝わってくる。詩の無限性を表現するために、詩が必要になる。罪が重なっていく感じも耽美で素晴らしいですね。
 一つの歌を連想したので付記しておきます。ここでは「私」を「わたくし」とよんでください。

ほととぎす啼け 私は詩歌てふ死に至らざる病を生きむ

塚本邦雄

6.果てしなく深いところ

  闘病の窮境のなかで詠まれた歌です。

深く疲れよ 土か心か分からぬがそこより聞こゆ 深く疲れよ

河野裕子

 まだ僕には立ち入れない、とてもとても深い魂の事柄が素朴な言葉で語られている歌だと感じます。「土か心か分からぬ」とは凄いですね。土から生み出された我ら人間、その真ん中で揺れ動く心、この声は土と心のどちらから聞こえた声なのだろうか、分からない。分からないし、きっとそのどちらでも同じことでしょう。そんな品と貫禄のある態度で耳を澄ませる歌人には何度も聞こえるわけですね。「深く疲れよ」と。
 人が生きていくなかですべきことは、深く疲れることしかない、そう不意に思います。有意義なことをする必要も、幸福になる必要さえもなく、ただ深く疲れればよい。そしてより深い方へと耳を澄まし続ける。僕にはよく分かりませんけども、ただこんな風に深まっていく歳の取り方が出来たらどんなにいいだろうとは思ってしまいますね。
 多分あまり関係ないですが、頭に浮かんだ歌があるので付記しておきます。

投与のことも水音と呼ぶ夕ぐれにどこでおちあう魂だったの

飯田有子

 だれの声なのか分からないところが連想を呼んだのかもしれません。神秘性の純度がとても高い。

7.この地球の外側から

 最後の節に、僕が全然理解できていない短歌を紹介させてください。理解できない詩といかに生きていくか、きっと重要な問題です。本当に興味のある方だけ読んで頂ければ嬉しいです。やりたい放題に書きます。みなさんの意見が聞きたいです。

柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えているか 

塚本邦雄

 柿の花は六月に咲きますから、そのあとには梅雨空がやってきます。これが上の句です。問題は下の句。
 第二次世界大戦のときに、ドイツ軍はパリを一旦は占領しましたが、戦況が悪化してパリを放棄しなくちゃいけなくなりました。そこでヒトラーは失うくらいならパリを燃やしてしまおうと考え、その計画がちゃんと実行されているか何度も部下に尋ねたそう。有名なセリフです。「パリは燃えているか?」
 下の句はこれを下敷きにしていることは間違いありませんから、「パリは燃えているか?」についてよく考えないといけない。僕はあまり詳しくありませんが、ヒトラーはパリに対して一筋縄ではいかない感情を持っていたらしい。ヒトラーは画家志望でした。パリ、そしてそこにある至極の芸術作品に対して愛憎入り交じる想いがあったでしょう。激しい執着がそこにはきっとあった。パリを失うくらいなら全部燃やしてしまえばいい。そして全ての奇跡のような作品群が永久に失われる。そこには救い難い歪みを持った暗い悦楽があったと想像します。
 「人よ、遊星は燃えているか?」 遊星とは惑星のことですけども、恐らくは地球のことでしょう。このセリフを言っている存在をひとまず神とすると、先ほどのヒトラーとパリの関係が、神と地球の関係に相似拡大されていることになりますね。ヒトラーはドイツ軍の部下に言っていましたが、ここで神は「人よ」と人類全体に言っている。つまりこの地球という遊星を燃やし尽くす実行犯は人類ということになる。
 塚本は核をはじめとする暴力によって世界が終末に向かうイメージを持った歌人でした。その事実に立つまでもなく、人類がこの遊星を燃やしかねない危うさを持った存在であることは受け入れられます。そしてその来たるべき悲劇の予言というものを、ヒトラーとパリの関係を雛形にして、人類よりも上位の存在の地球に対する愛憎入り交じる感情という舞台の上で歌にしている。その上位存在というものが神を指しているのか、あるいは自然の摂理だったり運命だったりを指しているのかは分からない。何れにせよ、人類がこの地球上でその只中にいる悲劇的状況を神秘的なイメージを介して凝縮した黙示録として提示している。
 上の句と下の句は「水」と「火」という対極的な関係にありますね。「日常」と「神話」という対立もあります。下の句で提示された怖ろしい悲劇のイメージは、上の句の日常的光景の、涙とでも言うべきものによって癒され得るということを言っているのか。はたまた、第三句の「つつ」によく現れているように、心休まる日常と壮大な全的災厄とが実はべったりと癒着していて、その接点は転倒の予感に充ち満ちているということを言いたいのか。よく分かりません。そこで途方もなく深い何かが息をしているということがただ感じられるだけです。
 この歌を理解することは到底できそうにないのに、それでいてその魅力は鎮まるところを知らない。そこに僕は超絶技巧を見ています。他では代えの効かない、そんな詩歌の魅力をみなさんに伝えられたらと思ってここまで書いてきました。僕の力が及ばず退屈な印象を与えてしまったということがないよう、祈るばかりです。

おわりに

 ここまで読んでくださりありがとうございました。良いクリスマスをお過ごし下さい。

ニコライ堂この夜よ揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり 

北原白秋

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