見出し画像

歴史思考について

深井龍之介著の「歴史思考」について考察してみたい。
深井龍之介さんは、ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコンテンツラジオ」でお馴染みの方である。
この本のテーマは現代人の悩みに関するアンチテーゼである。
深井さんは、コンテンツラジオ聴取者の感想から、「悩みから解放された」「気持ちが楽になった」など言う意見を聞いて、悩みと歴史という何の接点もなさそうなキーワードに興味を抱く。
そして一つの結論を提示する。
それは「メタ認知」を高めることが、悩みを解決する方法なのではないかということ。
メタ認知とは、今の自分を取り巻く状況を一歩引いて客観的に見る、と言った意味である。
メタ認知知力が高まれば、目の前にある悩みにとらわれず、悩みの原因になっている「当たり前」が当たり前ではないことに気付くことができる。そして、歴史を知ることによるメタ認知のことを「歴史思考」と呼び具体的な人物を紹介していく。
本書では、チンギス・カン、イエス・キリスト、マハトマ・ガンディー、カーネル・サンダース、アン・サリヴァン、武則天、アリストテレス、ゴータマ・シッタールタの人生に触れて説明している。その中から、印象に残った人物について語ってみたい。
最初に取り上げたいのが、後世への影響という点では、間違いなく地上最強の一人イエス・キリストである。キリスト教がなければ、科学も資本主義も現在のようには生まれなかっただろうし、今私たちの世界は存在しなかっただろう存在だ。
しかしそんな惑星クラスの偉人も、30歳くらいまではただの大工だったことを、ご存知だろうか?しかも、その後ヨハネに弟子入りして、自分の考えを広めた期間はたったの3年くらいである。
最後は、自分の弟子に裏切られて、処刑され、元大工の政治犯として生涯を終える。
弟子は「十二使徒」と格好いいが、12人しかいない、実在のイエスは、地方都市で処刑された
ちょっとエキセントリックな元大工に過ぎない。しかし何故そのような人物が歴史的に最も影響を与えた存在になったのか?それは深井さんから曰く、「たまたま」だという。
歴史はものすごく複雑であり、遠い将来を予測して動ける人なんていない。人間の評価を短期的なスパンで下すことにあまり意味はないと語っている。
またアン・サリヴァンについても紹介している。この人物は、「奇跡の人」ヘレン・ケラーを支えた人物である。
ヘレン・ケラーは、アメリカの社会福祉活動家・著作家で、子供のころの病気が原因で、目が見えず、耳も聞こえず、しゃべることもできなかった。しかし彼女はこれらの障がいを乗り越え、ハーバード大学を卒業し、世界中の障がい者の福祉向上に貢献した。彼女の功績は数えきれないほどあるが、日本だけ見ても、戦前と前後に合計3回やってきて、障がい福祉に多大な影響を残している。今でも日本でヘレンケラー協会が、障がい者支援事業を行っていて、彼女がいなければ、世界中の障がい者の地位が今より低かったことは間違いないだろう。
しかし、奇跡の人ヘレン・ケラーも限りなく強い「幸運」によって成し得た功績といえる。詳しいことは著書に譲るが、その大きな出来事はアン・サリヴァンとの出会いである。サリヴァン先生は、ヘレンの家庭教師として雇われ、ヘレンが56歳まで半世紀をずっと共にいる。最初にヘレンに水を教えたことは有名な話であるが、そのサリヴァン先生との出会いも「たまたま」でしかない。
実はサリヴァン先生も視覚にハンディキャップがあった。「パーキンス盲学校」の卒業生だったサリヴァン先生は、ある人の紹介でヘレンを紹介される。それはグラハム・ベルという電話の発明家だ。余り知られていないことだが、ベルはろうあ者への学校に力を注いだ人であった。もし、その時代にベルやサリヴァンがいなければ、ヘレン・ケラーは誰にも知られずに生涯を全うしていたかもしれない。
歴史を紐解いていくと、不思議に人々の「存在」が影響し合って、奇跡が生まれることに気付く。これは私達だって「奇跡の人」の一人かもしれないということのヒントでもある。
また最後に仏教を開いたゴータマ・シッダールタ(釈迦)を紹介したい。
ゴータマ(釈迦)は、究極の前提に向き合った、哲学者でもある。それは、「私」は存在するかという問いだ。ゴータマは、王子として生を受けて、王宮での豪奢な生活に空しさを覚え、29歳に出家する。それは王宮の外で生老病死に満ちた世界を目の当たりにしたからだ。
ゴータマは紆余曲折を経て、やがて悟りの境地に達する。その内容は、非常に難しく、「他人には分からないのではないか」と悩んだらしい。その内容として、苦しみとは、自分の願ったことが願った通りにならないこと。人間が本来、コントロールできると思い込んでいることを(執着)と呼んだ。執着が苦しみを生んでいる‥。どうすれば執着を断ち切ればよいのだろうか。
ゴータマは次のような論理を組み立てる。苦しみが生じるのは、かなわない願望を抱く「私」がいるからだ。
だが、そもそも「私がいる」という前提は怪しいのではないだろうか。「私」は存在はするのか。その結論として、どこからどこまでが「私」であるかは、我々か恣意的に決めているだけであって、実際にそのように存在しているわけではない。この世の物事はすべてがうつろう。だから「絶対」は存在しない。確実に存在するように思える「私」でさえ、絶対ではない。さまさまな物事との関係によって、今ここに存在しているように感じられるだけだ。
この認識に立つと、いったいなにが起こるのだろうか。それは悩みが消えるのだ。そもそも悩みはないということ。うつろう「私」がうつろう「悩み」について苦しんでいるという、二重幻想の状態だという。
ゴータマが至った悟りとは、メタ認知の最終形態なのかもしれない。
歴史の偉人は、メタ認知に長けていたことは言うまでもない。キリストも含めて、アン・サリヴァンもゴータマ・シッダールタも目先の欲望や、偏見に負けず自分自身の信念を突き進んだ行動原理をもつ。そもそも成功など求めてなかったのかもしれない。現代人は情報過多で第四次産業革命(人工知能)から第五次産業(コンピューター技術とバイオテクノロジーの融合)革命の移行期にいるといわれる。また、コロナや大震災、戦争や経済破綻など不安要因は絶えない。我々の精神は、疲弊し混乱し続けている。だからこそ、俯瞰して学問をすることを進めたい。何故なら、学問なしに現代は存在し得なかったからだ。そのポイントは「歴史」にあると、教養人は気付いるようだ。歴史を学ぶということはある意味、天才と出会うマッチングアプリのようなものだ。そのあと交際を続ければメタ認知が深まり、人生は豊かになるだろう。
「歴史思考」を行えば、思考の断捨離が出来て、無駄なフェイク情報に騙されなくなるだろう。それが悩みや苦しみを解放する一因になり、これからの新人類としてUpdateしていけるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?