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青木宣親選手の引退と取材の思い出

東京ヤクルトスワローズの青木宣親選手が引退を表明した。ジャイアンツファンの私だけれど、青木選手には思い入れがある。なぜならライター人生の中で唯一取材したことがあるプロ野球選手だからだ。

もう15~6年前になるが、私は美容誌の専属モデルの連載ページを担当していた。毎月、彼女が美容に関わらず、興味のあること、やってみたいことを企画・展開していく構成で「プロ野球の始球式で投げてみたい!」と発したことから、神宮球場で行われた東京ヤクルトスワローズvs東北楽天ゴールデンイーグルスのオープン戦での始球式登壇が実現。青木宣親選手との対談を記事にすることになった。

神宮球場の控室に練習着姿の青木選手が現れた瞬間、「わ、大きい!」と少しびっくりした。事前に確認していたプロフィールでは身長175cmで、プロ野球選手としては小柄なほうだと思っていた。でも、肩も腕も下半身も筋肉のつき方が違う。ガタイがいいというか、とにかくガッシリしていてテレビで見ているのとは全然違っていた。そして礼儀正しく「よろしくお願いします」と言いながら、あの爽やかな笑顔を向けられ、その場にいたモデル、カメラマン、ヘアメイク、編集担当と私、全員が一瞬で魅了されてしまった。

当時、青木選手は26歳。プロ5年目のシーズンに入るところだった。モデルさんも同じ26歳だったこと、また青木選手の醸し出すウェルカムなオーラが話しやすい雰囲気を作ってくれたこともあり、2人は初対面でもすぐに意気投合。モデルさんの「手のひらの大きさを比べてみたい!」という要望にも快く応えてくれた。少女漫画のワンシーンにあるような“気になる男の子の手が自分より大きくてドキドキ♡”となることは一切なく、意外にも彼女と手のサイズが同じくらいだったのには皆ほのぼのした。限られた短い時間の中で対談は順調に進み、青木選手の心に残る言葉が飛び出した。

モデル:「プレッシャーもありますよね。どうやってはねのけるんですか?」
青木選手:「究極を言えば、“野球やって死ぬことはねぇな”と思ってるんです(笑)。これで人生終わるわけじゃないと思えばラクになれるし、どういう状況になっても、前向きな考えしか湧いてこないですから」

出典:講談社『VoCE』(2008年)

これがプロ5年目の若手選手の言葉? 達観していると感心した。

当時の成績を振り返ってみた。
2007年 打率.346・14本塁打・出塁率.434 
2008年 打率.347・16本塁打・出塁率.413 
2009年 打率.303・14本塁打・出塁率.400
ちなみにプロ入り2年目の2005年からメジャーに行く前の2011年までほとんど打率3割越え(2011年のみ惜しくも.292)の好成績。改めて見てもスゴい。プロの世界で何年も成績を残し続けることがどれだけ大変か。

結果が全てのプロの世界だから、打撃不振に陥ったとき、守備でミスをしたとき、“打てなかったらどうしよう”、“またミスしてしまったらどうしよう”と考えてしまうこともあるだろう。いや、私なら“打てなかったらこの世の終わり”くらい考え込み、自滅するに違いない。

モデルの世界も華やかに見えて実際はとても厳しい。雑誌で活躍する彼女たちも日々オーディションに出向き、落ちてはまた別のオーディションにチャレンジしたり、一発勝負の撮影現場で常にプレッシャーと戦っていたりする。顔やスタイルを他人からああだこうだ言われる仕事も珍しい。その上、どんなに自分を磨いても、アピールしても、“選ばれる”ことがなければ活躍できないのはプロ野球選手と同じかもしれない。

「野球やって死ぬことはない」

きっとそう思いながら日々自分の力を出し切ることだけに注力してきた。
やる前からやった後のことを考えてもしょうがない。失敗しても死ぬことはない。その瞬間できることを、思いきってやるだけだ。そうすれば結果はついてくる。あのときの青木選手の言葉はそんなメッセージに感じた。

「あきらめない」

青木選手の引退会見を見た。とても清々しい表情で語っている姿と花束を渡しに来て大号泣していた後輩の村上宗隆選手の姿が印象的だった。自主トレを共にし、野球だけでなく人生の師としていろいろなことを学ばせてもらったと。村上選手に限らずたくさんのヤングスワローズたちに慕われていた。

引退会見で「野球を始めたときの自分に誇れることはありますか?」と記者に聞かれ、「あきらめなかったことです」と青木選手は答えた。
「一番大事にしてきた言葉は?」の問いにも、うーんとしばらく考え込んだあと「あきらめない、かな。どんだけあきらめないんだよって感じだけど」と笑いながら答えた。

言葉は違うけれど、どこかつながる。

「野球をやって死ぬことはない」と結果を恐れることなく前向きに挑戦し続けてきたから、首位打者のタイトルもプロ野球史上初となる2回のシーズン200本安打もメジャー進出も叶えられた。「あきらめない」心で努力し続けてきたから、ヤクルト復帰後も日本一に貢献し、42歳まで現役を続けられた。チームはまだまだ彼を必要としていたと思う。

野球史に残した偉大な功績に拍手を送るとともに、長年活躍し、ファンに愛されるには、人間として魅力があることが絶対条件であることも青木選手から知れた気がする。21年間、現役生活お疲れさまでした。


当時の誌面を雰囲気だけ……

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