私の価値はどこにあるんだろう。
慇懃無礼人といる時にひどく消極的になる自分に気づいた。 遠慮というより消極的。もはや慮っていない。 慇懃無礼という言葉があるが、まさにそれを体現してしまっている。 この行動でいいだろうと、パターン化して物事を見る癖。 自分が飽きたり一つでも思い通りにならない、好きじゃない時に顔に出ているだろう。 こういうところが人から嫌われるところなんだろう。と思う。 人間関係のリセット癖実際、いつか高校の友だちに第一印象を聞いた時に、「人と関わらないようにしているように見えた」という
たまに普段の私が思わないような、思ってもみないようなとても酷いことが、自分の心の中からポンと生み出されることがある。 それは不意に来て、そんなことを思う自分がとても嫌になる。 それが私が心の奥底で思っていることなのかと、最低な人間だと思う時がある。 調べてみると、同じ思いをしている人は他にもいるようで、知恵袋でも悩んでいる声があった。 ある精神科のサイトに行くと、「侵入思考」の説明があった。 自分が感じているこの現象に名前があり、普遍的な悩みであることに安心した。
考えすぎてお腹痛い。 一歩を踏み出すことが何を意味するか。 二の舞にならないのか不安。 リスクは圧倒的にこちら側の方が大きく、それをわかっているのか。 いざとなればそれを受け入れてくれるのか。 ただのちゃらんぽらんじゃないとは思っているけど、嬉しい反面怖い。 ともすれば、世界が180度変わってしまう。行く先の変更が強いられる。 これからやろうと思っていたことも全て、悪い言い方すると水泡に帰す。
最近がプラスのできごとばかりだったので、少し落ち込んでいるだけ。 テンションが下がっているだけ。 上がっている状態を正常状態と私がみなして、今のこの落ちている状況を「落ちている」と判断しているだけだと思うことにする。 一昨日張り切りすぎた。心身が緊張、興奮していた。常に交感神経が働いていた。 このいわれのない閉塞感を感じると「どこが遠くへ行きたい欲」が高まって、人間関係と仕事と住処を全て捨てる行動に走りやすい。 資格でも取るか。趣味を楽しむか。とにかく没頭できる時間を作
人になりきれていない。 また、置いてけぼりにされている。 余計なこと考える余裕が出て来ているのだと思う。 そういう時はやるべきことがやれていない時。 足元を見なければいけない時だと、わかっている。 足場がぐらぐらで明日、生きてるかもわからない。 大袈裟だろうけど、そういう感覚だ。
勝手に相手に期待しない。押し付けない。押し付けていることに私が気づかないうちに、相手は押し付けられていることを感じているのかもしれない、 それもまた、私の思い込みなのかも。
人が話をしている時に自分の好みの話をしない。 悪い癖だ。
いい朝 朝はまだ排ガスのにおいは鳴りをひそめて つめたい朝の空気を思い切り吸い込む だんだんと明るくなる空に希望を感じて 今日も1日がはじまる
「かたじけない」は忝いと書く。 はずかしい、面目ないという意味らしい。 やむごとなしと同じでかたじけありとは基本使わない。 しかし、ふざけて「かたじけあり」と使っていた時代(元禄の頃)があったそう。
話をする前にまず、相手を見る。今の私は自分の言いたいことを優先にしてしまっていると思う。 目を見る。間を感じるようにする。
人に飽きられていないか、呆れられていないか心配になる
家々の屋根が朝の光を受けて輝いている。 夜の世界は終わり、太陽がやって来た。
思い出したとしても姿が消えてしまう、頭の中にうかぶあの人
ほおがこけて、足が細くなって、髪が細くなって、声も細くなって、ふらふらで、お腹が空いている 丸1日で全てがリセットというよりかはマイナスへと振り切れた。 心と身体は繋がっている。
早く治したいということは当人が一番考えていることで、「頑張れ」は有難い一方で、少し余計な一言だと思える。 自分の存在について、存在しているだけで他人に迷惑をかけていると感じる。 障害についても同じことが言える。 本人にとって一番障害であり、コンプレックスであることを人から言われた時の恥ずかしさと焦燥感は想像するだけで恐ろしいと思う。 たまたま、「そちら側」に「今は」いないだけで、誰しも成り得る、やじろべえのような不安定な状況に立たされていることを実感する。 「闘病」と