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死ぬまでにつくりたい10の本と"埋名著" =my名著 Epi.5 反権力を貫いた松浦総三

体制側を利する中立を批判し、反戦を唱え続けたジャーナリスト


 この『note』への投稿タイトルにある「埋名著=my名著」には、世間では忘れ去られているけど、もう一度光を当てたい〝埋もれた傑作〟という思いを込めました。ひとりよがりで私的なセレクトかもしれませんが、いままで心を突き動かされた作品、即ち〝自分にとっての名著〟という意味もかけています。ただ多少意識しているのは、同時代をともに生きる人々が直面する問題には、複雑に絡み合う過去の因果関係があり、連綿と続く時間軸を振り返るとき、それを解く手がかりやヒントになるブックガイド、ということです。

 余談ですが、中国唐代の詩人・白居易に「龍門原上の土骨を埋むとも名を埋めず」という詩の一節があり、たとえ死んで骨となっても功績のある人は後生に名前を残すことを謳っているのですが、漢文表記だと「不埋名」となり、ちょっと「埋名著」に似ていることを知りました。ところが「隠姓埋名」という熟語があり、こちらは逃亡者が名前を隠し偽名を使うというまったく意味が異なることも発見しました。

 今回紹介するのは、ジャーナリスト・編集者として活躍した松浦総三(1914-2011)です。生涯にわたり、反権力・反体制・反権威を貫いた人です。1945年3月10日、10万人以上の命を奪った米軍の爆撃による惨禍を記録した『東京大空襲・戦災誌』が代表作ですが、松浦総三の仕事に触れたきっかけは、高校生のころ、担任教諭から毎週届けられた日本共産党の機関誌『しんぶん赤旗』の日曜版です。

 確か週刊誌の主だった記事を取り上げる「週刊誌時評」という連載だったと思います。松浦は反体制のジャーナリストですから、もちろん政治の欺瞞を暴く特集を後押しし、権力側政府寄りの記事は批判するスタンスでした。まだ目指すものの定まらない10代の精神形成に作用したのは間違いありません。

マスコミスターの本性をあぶり出した画期的な人名事典を編集

 社会の垢に染まり、日々の生業で擦り切れ、いまやすっかり軟弱で怯懦になりましたが、かつては誰もが正しいと思うメッセージを発信することが、メディアの役割であると信じていました。しかしそれは安っぽい正義感を振りかざしていただけなのかもしれません。反権力・反体制を標榜したのには、太平洋戦争で戦った父の影響もありました。

 下級将校として出征した父は、中国北支での戦闘で銃弾を浴び帰国。岡山陸軍病院で終戦を迎えました。軍隊の仲間の多くが戦死し、父は戦友たちの名を記した暗号のようなアルファベットの羅列を、自分の持ち物すべてに書き込んでいました。死地へ赴き、寝食をともにした戦友のことを、決して忘れないようにしていたのだと思います。

 心筋梗塞を二度発症し、死ぬ前の数年間は寝たきり状態だった父ですが、ことあるごとに憤っていたのが、戦争責任のある昭和天皇が裁かれなかったことです。多くの同胞を失った悲しみや無念さを、私が物心つく前、戦後20年以上経っていた当時でも、テレビで皇室報道が流れるたびに聞かされました。

 戦前にタクシー会社を運営していた父は事業に失敗し、敗戦後は進駐軍で物資の運搬業務に携わり、アメリカの日本占領が終わると、日雇のトラック運転手で生計を立てていました。体を壊し病気がちだった父を介護するとき、瘦せ細った右足にある銃創の痕がいまでも頭に残っています。

 話が横道にそれました。松浦総三の話に戻ります。1979年、『現代マスコミ人物事典』なる画期的な人名録が発売されました。松浦が編集したのですが、当時活躍していた著名人700人強を、思想傾向で分類し、その功罪を簡潔にまとめています。

 初版が45年前のため、大半が物故者で、現在ではなじみのない人も多く、一昨年(2022年)逝去しましたが、いまも話題に事欠かない石原慎太郎の項目を引用します。

(前略)学生時代に書いた「太陽の季節」が文学界新人賞、第3回芥川賞を得て一躍有名になる。〝太陽族〟や〝慎太郎刈り〟の髪形が大流行する。 五八年に江藤淳、浅利慶太、大江健三郎らと「若い日本の会」を結成。七二年に体制内変革を唱えて無所属で立候補、最高点当選すると、掲げていた体制内変革”もなげすて自民党に入 党。「日本人から核アレルギーをなくす」などと発言、やがて自民党の極右派「青嵐会」を創設、血判を押し国民をあきれさせた。七五年の都知事選で美濃部知事と対決して敗北。 七六年総選挙で再選、福田内閣のもとで環境庁長官となる。同長官時代 『週刊現代』 に「環境庁記者クラブの中に、自分の 社でボツになった原稿を赤旗に回すやつがいる」と発言、記者クラブの激しい抗議にあった。タカ派の集まりである日韓議員連盟員。

『現代マスコミ人物事典』第2版(1980年、幸洋出版)

 若い人には東京都知事のイメージが強いかもしれませんが、都知事選には一度落ちているのです。政治家としての資質を疑われる〝失言王〟の片鱗が垣間見えるエピソードを紹介しながら、皮肉交じりの人物評価をします。
 
 人生の羅針盤を求めていた二十歳のころ、読むべき作家、傾聴すべき学者は誰なのか、この本に教えられました。編者である松浦が、どのような立ち位置で制作したのか、編集後記に綴っています。

 幸洋出版諏訪幸洋氏から「現代マスコミ人物事典」を編集してほしいと注文されたのは七九年の早春であった。
 前年、諏訪氏が編集長だった総合雑誌『世界政経』で、特集「戦後ジャーナリストの系譜」をやり大当りで売れた。その執筆者も私であったが、いわゆる〝中立公正〟な人物論ではなく、タカ派文化人は思いきって批判し、 ハト派は誉めるという編集方針であった。 諏訪氏は、七九年二月に「世界政経』を退社し独立して幸洋出版を創立。「マスコミ人物事典」の企画・編集・執筆を、私にやれという。 承諾して悪戦苦闘、十ヶ月目に完成した のが、この本である。
 ご覧のとうり、この事典は、人名をアイウ エオ順やABC順に配列した「引く」事典ではない。集団、思想、人脈、職能別に分類し 「読む」事典をねらった。
 作家平林たい子の「とかくメダカは群れた がる」という言葉のように、日本のマスコミ 人は「群れ」によって分けることができる。「群れ」は、思想集団もあれば利益集団もある。 日本特有なタテの人脈もある。
 本書の編集は、まず右のように人名を配列した。こういう人名配列は、編集者や記者が原稿を依頼したり、人物を研究する場合、便利であるばかりでなく、人物と集団の〝木と森の関係〟を明らかにしてくれる。
 「読む」事典というのは、配列されている人物は相互に関連し連続性をもっていることをいう。だが、アイウエオ順の人名索引をつけることで「引く」事典にもなっている。この「読む」事典であると同時に「引く」 事典でもあるという発想は、師匠の長谷川国雄氏から教えられたもの。長谷川氏は傑作「現代用語の基礎知識」の大編集者である。二〇 年前、長谷川氏にさんざんシゴかれて、こう いう手法を身につけた。
 人物の分類・選択は、私の主観的判断によ った。とくに第一部はイデオロギー的分類である。ジャーナリズムは何等かの意味でイデオロギー商品だから当然のことである。原稿の執筆は「表現の自由」研究会の人びとにた のんだ。会は、私の周辺の編集者、記者、教師、学生らで構成されている。私は全部書く 時間はなかった。だから、本書全部が私の意見とおなじではないのは仕方がない。
 本書を再版するにあたって、多くの読者か指摘していただいた事実の誤りを大幅に訂正したことを付記します。           松浦総三

『現代マスコミ人物事典』第2版(1980年、幸洋出版)

朝日新聞、講談社、文藝春秋ら大手マスメディアの戦争責任

 松浦総三は出版社の戦争責任についても厳しく追及してきました。朝日新聞など大手新聞社が戦意高揚のため、大本営発表の嘘っぱち戦果をタレ流し、国民を戦場へ駆り立て、軍部の暴走に加担したことはこれまでも弾劾されてきました。いまならさしずめフェイクニュースのオンパレードといったところです。

 そのことを書いたのが『戦後ジャーナリズム史論 出版の体験と研究』です。引用するには少し長いのですが、気になる箇所を抜き出していきます。

戦争と大手出版社
(前略)日中戦争に入ってから雑誌や出版は戦争ものブームにわきあがっていた。たとえばアサヒグラフ編集部と週刊朝日編集部の共同作業の『北支事変画報』(昭和2年7月)は大ベストセラーになり、第三集から『日支事変画報』と改題して、その後昭和十五年八月まで三年間に第三十五集まで発売された。初期は売切れ売切れで早く買わないと手に入らなかったほどだ。この売切れで朝日新聞社では出版局員の鼻息 があらくて「社員のボーナスは俺たちが稼いでいるんだぞ」と威張っていたという話も伝わったほどであった。
 こんどアメリカへいって第二次大戦中のアメリカの雑誌『ライフ』『タイム』『ニューズ・ウィーク』を閲覧する機会にめぐまれた。東京空襲をそれらの雑誌はどう報道しているかを調べるために閲覧したのだが、ページをめくっていて驚いた。そのころの日本の雑誌や新聞は日々痩せ細ってゆくのに、アメリカ雑誌はどんどん増ページをしていた。部数も当然ふえていたのだろう。
 つまり、戦争をやって勝っている国の新聞や雑誌は売れ、部数ものびるのだ。『朝日出版局史』によると、この『支那事変画報』は平均初版は八万部とあるから重版も加えたら大変な部数になるだろう。このブームについて「日中戦争が徹頭徹尾、日本の侵略戦であっただけに、当時これら の雑誌の編集に従事していた同人たちの思いは辛いのである」と『朝日出版局史』は書いている。だが、この自己批判は「社員のボーナスはオレたちが稼ぐんだぞ」という前の言葉とあきらかに矛盾している。おそらくこれは商業ジャーナリズムのもっている基本的な矛盾なのだろう。
 では、国民はなぜ、この『北支事変画報』にとびついたのだろうか。それは、日本人が好戦的だとばかりいいきれない部分をふくんでいる。昭和十三年はじめごろで、中国戦線へ送られた日本 兵は陸軍だけで戦時編成の一六個師団(約二四万人)にのぼったという。私もこの画集を見たり買 ったりしたが、召集された友人や親戚の人びとがグラビアの中にいはしないかという淡い期待で買ったことがおおい。
(中略)
 戦中の日本は、囹圄の身にでもならないかぎり、戦争にまきこまれることからのがれることはできなかった。日中戦争を背景にして続々と生産される戦争文学や戦記を読まざるを得なくなってしまうのだ。友人や兄弟は戦地でどんな苦労をしているか知るために......。 それらの文章が、 軍人や役人の厳重な検閲をくぐり、かなりゆがめられた情報や記録であるということは相当に分 っていながらも読まずにいられないのだ。
 こうして戦争文学のトップをきったのは戦地で芥川賞を受賞した火野葦平の兵隊三部作『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』(改造社)があらわれ、上田広『黄塵』、林芙美子 『戦線』(朝日新聞社)、日比野士朗 『呉淞クリーク』(中央公論社)、尾崎士郎 『戦場の月に題す』 (万里閣)、 草場栄『ノロ高地』(鱒書房)などがあらわれた。
 なかでも『麦と兵隊』は、後年私が改造の社員になって聞いたことだが三〇〇万部売ったとい うからすさまじい。それは岩田一男の『英語に強くなる本』などは足元へもおよばないブームで あった。銀座の近藤書店の史上最高のベストセラーは『麦と兵隊』であるという。改造社は、昭和十三年末のボーナスは火野ボーナス" とよばれたそうである。
(中略)
 戦記ものと平行してファシズム到来をものがたるベストセラーもでてくることになった。
 『国体の本義』(文部省)、武藤貞一 『日支事変と次にくるもの』(新潮社)、大川周明『紀元 二千六百年史』(第一書房)、ヒトラー『我が闘争』(室伏高信訳、 三笠書房)、徳富蘇峰『宣戦の大詔』(毎日新聞社)などが、そのころの日本で評判になったファシズムもののベストセラー である。
(中略)
 そのうちに、雑誌や出版社の統合がおこなわれた。昭和十九年だけで廃刊が二三二六誌にもおよび婦人雑誌が五四誌から一六誌にへらされた。この中には、むろん『改造』 や 『中央公論』の強制廃刊もふくまれている。
 こういう整理統合の波をくぐりぬけてのこった雑誌は、いくつかの雑誌を統合してのこったのである。残ることができるということは、第一に軍人がその雑誌を戦争に役に立つと判断した場合と、第二にはその出版社の資本が強力であったことであった。したがって、この企業整備は、 大出版社の独占集中という結果を強力に生みだした。昭和十九年後半になると、残った出版社は、いずれも軍人のおぼえがよくて、資本の強い出版社ばかりになった。
 たとえば、講談社の場合は、料理の友社、第一書房、陸軍の友社など一一社の用紙配給を買収 している。 その他の大手出版社もみなおなじであった。
 昭和二十年になり空襲がはじまるころになると、小売書店もほとんど閉鎖され、雑誌など店頭にみられなくなった。
その崩壊寸前の日本出版界はつぎのようであった。もっとも戦争に協力して、もっとも用紙の配給をうけていた講談社でさえも『講談倶楽部』は、四、五、六月号は休刊で、七月号に表紙も なく、墨一色刷りで三二ページ。『キング』が改題された『富士』も、五・六月号合併号で表 紙二色で五二ページ、七月は休刊、八九月合併号はいずれも共表紙で三二ページだった。『現代』だけは欠号がなくて、一億特攻隊をとなえていた。
 やはり、戦中にもっとも軍のうけがよかった『主婦之友』も、六月号は「特別攻撃隊勇士の妻の手記」、七月号は三二ページで「国土まもる若き神々と共に」などの特攻隊らい讃の記事を満載したが、とうとうこの号で終っている。
 このように、社屋、紙、印刷場がほとんど焼かれて、八月には日本出版界は完全に活動を中止した。 太平洋戦争をとことんまで戦いぬいて、敗れたというわけであろう。そして、こういう出版社が戦後も主流となってゆくのである。

戦争とジャーナリスト
(前略)戦争は、まず日支事変という名で開始され、それと同時に進歩的な学者や作家は発禁や起訴の憂き目をみることになった。しかし、戦争に反対しそうもないジャーナリズムや新聞社出版局や大出版社は、戦争の初期はいずれも大儲けした。つまり、大出版社や新聞社出版局にとって、戦争は決してわるいものではなかったのである。
 朝日新聞出版局や岩波書店のような比較的良識のある編集者が大勢いるところでも、例外ではなかった。たとえば、情報局役人や軍人などに牛耳られていた出版文化協会推せん図書は昭和十六年十一月より十八年三月までに総数三二八点あった。 それを分類してみると歴史伝記ものが三四点、少国民読物二五点、軍事社会二二点、 小説二〇点、経済産業一九点、教育修養・絵本一八 点、農業二点となっている。歴史ものブームは戦争時におこるというのは、この辺からいわれはじめたのだろう。
 ところで、これらの推せん図書を多く発行した大出版社をみると岩波書店二三点、講談社一一点、創元社一〇点、日本評論社九点、朝日新聞社九点、弘文堂九点、中央公論社九点、新潮社八点(以下略)となっている。こともあろうに、日本でもっとも良心的といわれる岩波がトップであり、朝日新聞出版局、 中央公論社などが推せん図書をだしている上位出版社なのである。
 推せん図書がぜんぶ軍国主義的なものというつもりはない。なかには立派な本も少なくなかった。しかし、推せん図書には紙が特配されるのだから、編集部は図書を編集するときにどうしても頭のすみに推せん図書をねらおうとするようになる。そして真面目な編集者でも知らず知らずのうちに軍国主義化してゆくのである。
 たとえば、戦争に非協力ということで軍部から廃刊を命ぜられた『中央公論』の最終刊の目次現代の目でみると、どうしてこんな 〝戦争協力誌〟が廃刊されたのか、と首をかしげたくなるような内容である。 『中央公論』十九年七月号の目次はこうである。

天皇御法治の精神・大串兎代夫。
生産統率徹底の方途・藤山愛一郎。
国民運動の本質・寺田稲次郎。
食糧問題の根本対策・小笠原三九郎。
戦局の急迫と国民の覚悟・森正蔵。
座談会・戦争遂行と統制法。

 そして表紙には「うちてしやまむ」と大きく印刷してあった。廃刊を命ぜられた『中央公論』 にしてこうだから、他社はおして知るべしであろう。
(中略)
 朝日新聞出版局では、あの鈴木庫三監修・朝日出版局編『世界再建と国防国家』(❜40初年11月)、松村秀逸『近代戦争史略』(❜44年7月)、陸軍報道部監修『勝たずして何の我等ぞ(画報)』(❜44年3月)がでている。
 朝日が「マレー作戦」、東日(毎日)が「ジャワ作戦」、共同が「ビルマ作戦」、読売は「比島作戦」をだしている。戦後、朝日の天声人語を書いた入江徳郎はノモンハン従軍ルポの「ホロンバイルの荒鷲」を書いたほか、朝日の花形記者たちの奮闘もめざましい。団野信夫「闘う翼」、酒井寅吉「マレー戦記」、天藤明「珊湖海を泳ぐ」、泉毅一「ソロモン戦記」、岡田誠三「ニューギニ ア血戦」。これらの記者たちが、戦後の民主主義の時代にも大活躍するのである。
(中略)
 『アサヒグラフ』も「家は焼けても闘志はやけぬ」(❜45年6月15日)とか「硫黄島の激闘」(❜45年3月5日)などとやっている。『週刊朝日』昭和二十年新年号は、戦中の日本の雑誌の見本である。主な内容は――
一億総特攻隊員たれ・鈴木文四郎。太平洋の支配権を確立せよ・山田孝雄。独軍攻撃に移る・嘉
祖国日本頑張れ(ベルリン・守出義雄)
桂林攻略戦点描・菅原報道班員。
高松宮殿下に面談の感激記・佐々木惣一。
戦ふ兵士を描く・宮本三郎。
空中戦を描くまで・藤田嗣治。
世界大戦史考・伊藤正徳。
小説・鎌倉大草紙・小島政二郎。
となっている。

 これらの目次をみて慄然とするジャーナリストはすくなくないだろう。だが、一部のジャーナリストはこういう。
 「戦争がはじまったのだから、国をまもるためにジャーナリストが戦争に協力してどこが悪いのだ」と。
 しかし、そういうことをいうジャーナリストは、戦争がはじまりそうになったときに、果してどれだけ反対したのか。そして、反対できる状態にあったのか。ほとんどの戦争協力ジャーナリストは、ロクに戦争にも反対しなかった。
 評論家は食うために編集者に妥協しなくてはならず、編集者は社の方針に大きく反対することができない。そして、経営幹部は政府や財界に頭があがらぬという悪循環は、戦中も平時もおなじであろう。
 戦時は〝一億総特攻隊員たれ〟という建前のために事実を歪曲したとすれば、戦後はセンセイショナリズムと娯楽性のために事実を歪曲している。つまり、うちてしやまむ"と、戦後の出版社系週刊誌などのセンセイショナリズムやプライバシー(庶民の)の侵害は表裏一体をなすものであろう。その底には、ともに資本の論理が太い線で貫いているのである。いってみれば、センセイショナリズムや〝衝撃の告白〟といった記事は〝平和時の戦中的報道〟なのだ。
(中酪)
 ともかく、戦争中は、ジャーナリズムはとことんまで、戦争に協力して、そして最後には空襲 によって日本中が廃墟となって潰滅するのである。(後略)

菊池寛と『文芸春秋』
(前略)昭和十二年七月に日本は中国に侵略戦争を開始する。この日中戦争開始にたいして菊池 はこう書く。「北支に於いて、日支が戦端を開いたことは遺憾である。数年来の抗日気運の避けがたい結果であろうが、日本と支那とが、ローマとカーセージのような仇敵同志となり、十年目 二十年目に、戦争をしなければならぬとすると、東洋に於ける平和や文化のための一大障碍とな るだろう。いかに日本の武力をもってしてもあの大国と民衆とを徹底的に屈服させてしまう事は 不可能であろう」。
 大新聞の記事で気に食わないところがあると、 発禁にするぐらいのことは朝めし前であった鬼よりコワイ 軍部にたいして、たとえ「戦端を開いたのは遺憾である」という言い方でも、 ハッキリと遺憾の意を表したことは注目すべきことであった。
 しかし、〝自由主義者〟の菊池がともかく日中戦争を批判したのはここまでで、「天津で〝那事変を語る〟座談会」(❜37年9月)、「支那事変と日ソ関係座談会」(❜37年10月)、「支那事変の将来」座談会、「戦争の波紋を探る」(❜37年11月)と軍人や右翼や財界人に支那事変について語らせているが十三年三月号では「革新日本の当面する諸問題」という座談会ではもはや、日中戦争の批判はまったく影をひそめてしまうのである。そして十三年三月には『オール読物』の『皇軍慰問全集』三万五〇〇〇部を陸海軍に献納した。そして十五年四月には言論界代表として、あの大虐殺のあった南京へゆき日本のカイライ政権である汪政権の成立を祝した、「新国民政府樹立祝
典」に参加している。
 菊池は戦後に「ぼくは今度の戦争勃発を煽ったことはないが、戦争がはじまってしまえば、一 国民として祖国の勝利を願い、そのように行動するのは当然のことだし、それをいまでも誇りに思っているね」(池島信平「私の人生劇場」東京新聞❜67年10月27日)といっている。
 中日戦争は「はじまった戦争」ではなくて、日本の軍国主義者たちが「はじめた戦争」であることを菊池ほどの人がどうして理解できなかったのか。戦争は自然現象のように「はじまる」ものではなくて、「はじめる」ものである。さらに、「戦争勃発を煽ったことはない」という。たしかに、それは事実であろう。しかし不道徳きわまりない侵略戦争でも「はじまってしまえば一 国民として............そう行動するのが当然のこと」だというのだが、当時の菊池は果して「一国民」として行動できたであろうか。菊池は 〝文壇の大御所〟であり大衆小説『真珠夫人』や『心の日月』『勝敗』『第二の接吻』などで、日本の勤労大衆からミーハー族にまで幅広い人気をもっていた。それは現代の松本清張の人気などとスケールがちがっていた。そういう菊池が言論人を代表して南京へゆけば、やはりエライ人に弱い日本の善男善女は「菊池寛ほどの人が支持したのだから」という気持になるだろう。たしかに菊池は主観的には、戦争を「煽らなかった」かもしれ ない。しかし、大局的には菊池は文壇を代表して戦争に参加し、そして戦争を煽ったことはもはや間違いない。
(後略)

『戦後ジャーナリズム史論 出版の体験と研究』(1975年、出版ニュース社)

 本のエッセンスを紹介しようと読み込むのですが、文脈を部分部分切り取るうち、松浦の真意が損なわれることに気づき、なかなか前後の段落を外せなくなってしまいました。長文の引用お許しください。

 昭和のアジア・太平洋戦争中、そして暗黒時代が終わった戦後の出版文化史を、権力と対峙する視点で著した論評です。当時の雑誌記事とそれに付随するエピソードを根気強く渉猟した労作だと思います。



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