死ぬまでにつくりたい10の本と埋名著(my名著)Epi.4 森村誠一と奥の細道
松尾芭蕉の道行を追い求め、東北、北陸をめぐった日々
昨年(2023年)7月、90歳で逝去した作家・森村誠一を偲ぶ会が、2024年4月16日、東京紀尾井町のホテルニューオータニで開かれました。かつて森村先生に同行して、俳文学史に輝く松尾芭蕉の紀行『おくのほそ道』の足跡をたどったのは、2011年の「東日本大震災」が起きる前でした。
この旅の目的は、俳句にも造詣が深く、句作に画像を添える『写真俳句』を提唱・実践してきた森村先生が、芭蕉の道程を現代の視点で追体験しながら創作活動をすることでした。作品は、エッセイとして雑誌連載や書籍刊行、旅行サイトの体験ツアー商品、そして映像ドキュメントとしてBSテレビ放映・DVD化(『森村誠一 謎の奥の細道をたどる』)されました。そのため毎回10名前後の取材クルーが現地へ行きました。
取材撮影工程は、芭蕉が踏破した「奥の細道」を5ブロックに分け、2008年10月の「平泉コース」を皮切りに、同年11月「白河の関・日光コース」、2009年3月「松島・立石寺・最上川・鶴岡・酒田コース」、同年4月「越後路コース」、同年7月「北陸・大垣コース」と回りました。さらに2010年1月、芭蕉翁に扮した森村先生の映像撮影のため京都・建仁寺でもロケを敢行しました。
江戸元禄期、深川から岐阜大垣まで2400㌔に及ぶ距離を、芭蕉は5か月間かけて歩きました。それを2泊か3泊のスケジュールを組み、飛行機や新幹線、ロケバスなど文明の利器を駆使し、強行軍でしたが5回の日程でほぼ回りきりました。このプロジェクトに絡め、森村先生の講演会も仙台、酒田、富山で開催したので、奥の細道行脚は都合9回に及びました。
『芭蕉道』と名づけ、魅力を再発掘する時空を超えた旅路
松尾芭蕉が江戸を後にして、草深き奥州の地をめざし 『おくのほそ道』として結実したのは、いまから320年前、 絢爛たる元禄文化がまだ幕開けを告げたばかりの時代でした。 以来、俳句紀行文学の最高峰として聳え続けたのは、彼が描く異郷の光景との出会い、芸術にまで昇華された心象風景が幽玄閑寂の思想となり、時代を超えて日本人の心の琴線に触れ、 何人をも魅了してきたからに違いありません。
芭蕉がたどった道のりには、荘厳な大自然の神秘はもとより、 古人の叡智が詰まった創造物や、実直で豊かな暮らしぶりが点在。 この観光資源の宝庫、まさに宝の山への道しるべを『芭蕉道』(ばしょうみち)、訪ねたスポットを『名蕉地』と名づけ、様々なメディアで発信することが、プロジェクトのミッションでした。
旅立つ前、プロジェクトのパンフレット作成のため、森村先生に〝なぜいま『おくのほそ道』なのか〟を尋ねました。
「私にとって、理想の旅の実践者は、ヘルマ ン・ヘッセなんです。彼は、南ドイツに生ま れ、スイスやイタリアに移り住み、インドを訪ね、常に旅に生きた人でした。詩人にあこがれていた若き日のヘッセは、恐らく無目的で 各地を巡り、詩を書き水彩画を描いた。もちろん、創作活動として行くからまったく 目的が無いわけじゃないけど、 思索に耽りな がら、自然と湧き起こる気持ちを作品へ結実させたに違いない。ところが現代人の旅は、 常に目的があり、ともすれば途中の過程は、 単に移動の時間にしかすぎない風潮があります。旅というよりビジネスの出張に近い感じ。通勤や引っ越しも同じですよね。 旅の原点は、日常性からの 脱却にあります。それは目的 を持たないからこそ叶うのだと思います。体に打ち込まれ た楔から解き放たれることが、 旅の神髄なのです。 芭蕉の「おくのほそ道」も、 句作の旅ではあるのだけど、無事戻れるかどうか判らない覚悟の出立で、様々な道中見聞の中、体の奥底からの昂りを感じたとき、句を詠んだと思うのです。 ヘッ セと芭蕉、2人は僕が最も敬愛する旅人なのです」
膨大な作品を読み漁り文学青年だった森村先生は、漂白への熱い思いを語ってくれました。誰に対しても真摯な態度で接し、相手が納得するまで時間を割いてくれました。
サラリーマン生活の悲哀を通じ、人生の深淵を教えてくれた
森村誠一といえば、770万部の大ベストセラー『人間の証明』を思い浮かべる人が多いかもしれません。また第二次世界大戦時の関東軍731部隊による生物兵器の人体実験を告発したノンフィクション『悪魔の飽食』を後世に残る代表作にあげる人もいると思います。
偲ぶ会が行われたホテルニューオータニは、奇しくも森村先生がサラリーマン生活を送った10年弱の最後に勤めたところです。ホテルマンとして働きながら小説家をめざし、江戸川乱歩賞を受賞した『高層の死角』で本格的なデビューを果たします。ニューオータニへ転社する前に勤務した都市センターホテルのフロントマン時代、作家の梶山季之から預かった原稿を盗み見して小説修業をした話は有名で、森村先生と仕事をご一緒するようになり、真相を知りたくて、お会いして真っ先に聞いたことが、いまでは懐かしい思い出です。そのエピソードを綴った一文を紹介します。
宮仕えの辛さを熟知する森村先生は、版元に勤める編集者や営業部員を大切にしました。各社の担当者を慰労する会を年2回熱海のホテルで催し、奥の細道プロジェクトに関わった私も参加するようになりました。
上司に媚びへつらい、唯々諾々と社命に従い、同僚を蹴落とし、部下や後輩にはパワハラもどきの言動、社会的道義に欠けた業務にも従事させられ、理不尽な人事異動や左遷が横行。いつしか倫理感が麻痺した会社組織の中で、日々醜悪な暗闘が繰り広げられる……。そんな惨めなサラリーマンの悲哀に対して森村先生は、「天気と同じで晴れる日もあれば雨の日もある。もう少し辛抱しなさい」と励まし続けてくれました。私にとって森村誠一は、生涯の師と呼べる人でした。
2011.3.11 東日本大震災の翌年、再び東北の地へ
奥の細道全行程を終えた翌年、未曾有の災害をもたらした東日本大震災が、東北の地を襲いました。甚大な被害を被った石巻市では、日本製紙も津波で工場全体が浸水し大量の瓦礫が工場内に流入しましたが、2012年に復興を成し遂げ、森村先生が視察のため現地へ向かい、私も取材に同行しました。盛岡へ入り、宮古、釜石、大船渡、気仙沼、南三陸と、まだ震災の傷跡が癒えぬ様子を目の当たりにしながら、日本製紙石巻工場を訪ねました。
百数十人の従業員が迎える中、挨拶された森村先生は、自身の文庫用紙が生産されるマシンを見学。完成したばかりの紙を手にしながら復興を祝い、工場構内の慰霊碑に献花しました。
2011年の東北大震災直後、森村先生は鎮魂の句を詠みました。
満天の星凍りても生きており
倒壊した家の瓦礫から屋根に這い上がり、まばゆい夜空を眺めながら救出を待った少年の言葉から生まれた句です。人は絶望の淵にいても、明日を信じる強さが備わっています。
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