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死ぬまでにつくりたい10の本と埋名著(my名著)Epi.1 流行語の神様大宅壮一

出版不況の一因となった老舗雑誌の相次ぐ休刊

 昨年度(2023年)に休刊した雑誌は、Wikipedia「2023年の出版 出版関係の出来事」より拾いだすと、紙媒体だけで12誌ありました。

 特に、日本最古の総合週刊誌として100年以上の歴史を誇る『週刊朝日』をはじめ、駆け出しの編集者・記者として所属した『週刊ザテレビジョン』など著名なタイトルが多く、感慨深いものがあります。

 都市情報誌として一世を風靡した『東京ウォーカー』は、既に2020年に休刊しましたが、私が関わった2000年代初頭は部数減が止まらず厳しい状況ではありましたが、まだ雑誌全盛期の余韻が残っていました。

 書籍と違い、雑誌の収益は販売収入と広告収入が車の両輪のようになっていて、手間のかかる特集の取材・撮影は、広告で得た潤沢な資金が支えていたといえます。年末年始の合併号など最盛期は首都圏エリアだけで80万部発行していた『東京ウォーカー』は、広告と合わせ年間100億円近くの売上があり、角川書店の当時の売上高400億円の四分の一を稼ぎだしていました。

 雑誌が休刊を余儀なくされる理由は、企業が宣伝費のコストダウンを図るとき、まず雑誌への広告掲載を打ち切ってきたことにあります。広告を取り扱う電通や博報堂が、部署として雑誌局の名称を使わなくなったことが、商品として衰退したことを象徴している気がしました。

〝文春砲〟タブーに挑む雑誌ジャーナリズムの礎をつくった男

 松本人志の性加害疑惑報道などスクープを連発する『週刊文春』ですが、当該記事第一弾を掲載した号が、実売45万部を超え完売しました。男性アイドルを量産し他社のタレントを締め出してきたジャニーズ事務所が、ジャニー喜多川社長の長年にわたる性加害によって社会問題となり、ついに帝国が崩壊したのも、1999年から始まった「芸能界のモンスター」と題した文春の告発記事が端緒でした。

 紙のメディアが年々縮小する一方で、ひとり気を吐く〝文春砲〟ですが、ここにいたるまでの日本の雑誌ジャーナリズムのルーツといえるのが、今回紹介する大宅壮一です。

 大宅は昭和の世相・風俗を「一億総白痴化」「恐妻」「太陽族」「駅弁大学」「クチコミ」など名コピーで表現し、時代の断面を鮮やかに切り取りました。いまも活躍していたなら、「新語・流行語大賞」受賞の常連だったはずです。彼が収集した明治から現代までの雑誌を閲覧できる図書館・大宅壮一文庫には80万冊の蔵書があり、かつてここには編集者やテレビマンが企画探しで通いつめ、そこから雑誌の特集や新番組が生まれました。

 大宅文庫といっても、いまでは「岩波文庫、それとも角川文庫みたいなもの」と出版社の商品名と勘違いされます。図書館としての利用者はまだしも、収蔵庫の母体を築いた大宅壮一のこととなると、さらにわからない人が圧倒的多数を占めるようになっているかもしれません。

 昭和30~40年代、マスコミの帝王として論壇を舞台に活躍した大宅。名宰相とうたわれた吉田茂や佐藤栄作ら、昨今の軽量政治家には及びもしない時の権力者から、三島由紀夫、石原慎太郎ら文壇のスター、人気女優、著名な文化人まで容赦なく斬り、そして台頭しつつあったテレビによる大衆の“白痴化”を喝破。大宅自身も「カラスが鳴かぬ日はあっても、大宅壮一の声を聞かぬ日はない」といわれました。

 大宅は膨大な評論を残していますが、舌鋒鋭く世間の事象や話題の人物を料理し、いま読んでも色褪せません。今回は太平洋戦争敗戦後の混乱期に首相を務めた吉田茂について書いた『吉田が死んで戦後は終わった』を紹介します。1967年(昭和42年)、『サンデー毎日』に連載した『サンデー時評』の一編です。

吉田が死んで戦後は終わった

 吉田茂が死んで、 戦後初めての〝国葬〟が行われる。
 戦後日本を代表する人物を一人あげよ、ということになれば、文句なしに吉田茂ということになり、これにはどこか らも異議は出ないだろう。
 その吉田が死んで「戦後は終わった」ということにもなる。も っとも、現首相の佐藤栄作は、 その前の池田首相とともに、吉田内閣の延長、第何次かの吉田内闍と見られないこともない。そういう意味で吉田政権はまだつ づいているともいえるが、このあと、吉田系の人物によって政権が受け つがれる公算はほとんどない。戦後日本の政権を独占したように見られた〝吉田時代〟が去ることによって「戦後は終わった」ことにもなる。
 もっとマクロ的に見て、二十世紀の世界をリードした人物をあげると、 イギリスのチャー チル、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、ドイツのヒトラーの名をあげることができるが、これらに比べると、吉田は型がずっと小さい。日本の政治家としては、たしかに大型ではあるが、国際的水準から見ると、せいぜい十六ミリである。
 チャーチル、 ルーズベルト、スターリン、ヒトラーがそれぞれの民族や国家の特性を最大限に代表しつつ、国際的にも最大の影響力を持ったのに反して、吉田の影響力は日本からほとんど出ていない。明治以後の日本の政治家のなかでは、国際性の強いほうではあるが、その半面において、吉田はも っとも日本的である。それは白たびと紋付きによって象徴され、その国際性を示すものとしては、葉巻、ウイスキー、ステッキ程度であろう。
 チャーチルがイギリスを、ルーズベルトがアメリカを、スターリンがソ連を、ヒトラ ーがドイツを象徴しているように、吉田は日本を象徴している。ほかに日本を象徴する政治家としては、西園寺公望や近衛文麿がいるが、彼らは日本の貴族の象徴であって、日本そのものの象徴とはいえない。吉田も全日本の象徴というよりは、日本の貴族主義や封建主義を象徴するもので、その点では西園寺や近衛以下だともいえる。西園寺や近衛は生まれながらの貴族だが、若いころ、近代思想の洗礼を受けて、貴族的なものに抵抗し、それから脱出しようとする意欲を示したこともあるが、けっきょく、貴族として死んでい った。

権力意欲の強い〝貴族〟

 近衛は支那事変や太平洋戦争の責任を負わされ 、戦犯として召喚され ると毒をあおいで自決したが、そのさい、「貴族のいないアメ リカ人にはこの気持ちはわかるまい」と書き残している。かりに、吉田が戦犯の罪に間われたとしたら、どういう態度をとったであろうか。吉田は西園寺や近衛以上に"貴族的〟ではあったが、ほんものの貴族ではなかった。ダイヤの イミテーシ ョンか、ほんもの以上に〝ダイヤ的〟であるのと同じである。
 吉田も戦犯に問われる可能性がなかったわけではない。広田内閻で外相に擬せられたとき、牧野伸顕の女婿で英米派と見られ、軍部の反対にあって、 ついに実現しなかったけれど、あのとき外相に就任していたら、日本の大陸侵略の責仼を追及される立場におかれていたに違いない。吉田は軍部に抵抗したということになっているが、 彼の〝反軍思想〟はそういうところに根ざしているのであって、日本帝国主義の忠実な使徒であったことに変わりはない。終始軍部のお先棒をかついだ森恪と吉田が肝胆相照らす仲であったのを見ても、これは明らかである。太平洋戦争の末期に憲兵隊につかまったというが、吉田の実体は反軍でも反戦でもなく、権力そのものへの抵抗でもなかった。権力意欲のきわめて強い人格が、別個の権力、より強い権力に反発したにすぎない。

亡霊からの脱出めざせ

 だからといって、日本人には珍しい強烈な個性の所有者としての吉田の存在理由や、その希少価値を私は否定するものではない。これは明治的人格とか、明治的パックボーンとか呼ばれているが、明治人のなかでも、吉田のような人物がそうざらにいるものではない。ただし、彼の八十年の生涯には、終始異常な幸運がっきまとっていた。
 吉田は大磯に豪壮な邸宅をかまえ、三万平方メートル余りのバラ園を持って、富士山をながめながら死んでいったというが、これほどデラックスな生涯を送ったものは、日本人にはちょっと見当たらない。政界を退いてからも、その私生活に、月額最低百万円を要したろうといわれている。幼少時代から死にいたるまで、彼ほど苦労や貧乏の勤労の体験を持たぬものも少ない。極端ないい方をすれば、生涯を通じて勤労らしいものをしたことかなく、それでいて日本人として最大限に豪華な生活をエンジョイしたという点で、最高記録をつく ったともいえよう。
 彼は竹内綱の妾腹の子として生まれ、 横浜の貿易商の養子となり、養父が早く死んで、その多大な財産をそっくり相続し、それを完全に使い果たした。 外交官になったが、馬丁つきで騎馬通勤をしたというから 、その豪勢さにおいていまのマイカ ー族の比ではない。
 政治家としても、鳩山追放のあと、これまた養子のような形で自由党総裁の地位についたのである。彼のワンマン的性格は、生活のための苦労 をまったく知らぬところから生まれたもので、彼の機知とかユーモアと かいわれているものは、待合い遊びで、世慣れた女将たちから学びとったものだ。それで官僚や政党政治家や進駐軍の盲点をつき、たちまちにして日本の政界に特異な存在を確保したのである。その強烈で特異な個性は、彼の育ったこの特異な環境の産物で〝民主化〟された日本では再生産不可能であり、また再生産すべきものではない。
 戦後の日本の政権か吉田個人およびその 一統に独占されたことは、裏から見れば、戦後日本の恥部を露呈したものともいえる。彼の死にあ って、これをいたんたり、彼の業績をたたえたりするのもいいが、これからの日本および日本人がどうすれば吉田的なもの、その亡霊から脱出することかできるかを考えるべきである。

『大宅壮一全集 第8巻「サンデー時評Ⅰ」』(1980年、蒼洋社)



 

 

 







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