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死ぬまでにつくりたい100の本と埋名著=my名著 Epi.8 権力奪取に血道を上げる自民党総裁選の民意なき三文芝居

イカサマ賭博の自民党総裁選と、アメリカ大統領選の矛盾

 日本は法治国家です。日々の生活を営む上で規範となるルール、即ち法律に守られた社会です。その法律は、立法府である国会において、衆議院議員と参議院議員が提案・審議します。法案を可決するのに必要充分な議席数を持つのが、与党である自由民主党です。

 国会議員によって首班指名される内閣総理大臣も、衆参ともに過半数の議席(2024年8月現在)を持つ自民党に主導権があります。必然的に自民党の総裁、つまり一政党のトップが総理大臣になる構図なのです。

 もちろん議員は、選挙によって有権者が選び、国政を付託されています。長いあいだ、ほぼ一党独裁で自民党が政権運営してきたのも、国民の総意ではないとしても、民主的手続きによる自分たちの選択の結果だと、納得しなければいけないのです。

 でもなんだかなぁ……なのです。自民党の裏金問題に端を発し、抜け穴だらけの改正政治資金規制法の成立、「身をひくことでけじめをつける」と総裁選不出馬を表明した岸田首相、後がまを狙う無定見にしか見えない候補者の乱立。同時期に行われる立憲民主党代表選にも、オールドパワーたちが名乗りをあげ、次期衆院選に向けて喧しい状況です。メディアから伝わる国民不在の〝政治ショー〟に呆れ返る人も多いと思います。

 総理大臣の選出は、私たちひとり一人が投票する直接選挙ではなく、アメリカ大統領選と同じように間接選挙です。バイデン現大統領が2期目の出馬を断念し、副大統領のカマラ・ハリスが民主党代表候補に指名されました。共和党のトランプとの対決に、こちらも報道が過熱しています。有権者の代表である選挙人の数で決まる大統領選。評論家の大宅壮一は、自民党総裁選を〝デンスケ賭博〟(不正賭博)と断じました。アメリカ大統領選の矛盾にも触れており、今回3度目になる大宅の記事を紹介します。

三つの選挙の魔術性 

 十一月は「選挙の月」とでもいうべきか。アメリカの大統領選挙についで、沖縄の主席選挙、最後に自民党の総裁選挙がひかえている。自民党の総裁は、日本では大統領に相当する権威だから、三人の最高責任者が同しころに選出されることになる。
 これら三つの選挙を比較してわかることは、形の上からいうと、沖縄の選挙がいちばん進んでいることだ。というのは、沖縄の選挙は、全島民による普通選挙、直接選挙であるのに反し、アメリカの大統領選挙も、自民党の総裁選挙も、二重選挙、間接選挙で、大多数国民の意思が正しく反映しているとは思えないからである。
 こんどのアメリカの大統領選挙の結果を見て、だれもが異様に感じることは、 一般投票の面では、 ニクソン、ハンフリー両候補の得票が、いずれも四三バーセントで、その差は五万程度にすぎない。それでいて、選挙人のほうでは、二九九対一八一 という大差になっている。アメリカ国民の意思表 示としては、果たしてどっちが正しいのであろうか。この大きな狂いはどこから発生したのであろうか。
 一般投票の面では、競馬、競輪でいえは、写真判定を必要とするような大接戦ということになり、選挙人の獲得では、ニクソンの圧倒的勝利となる。ここにこの選挙の魔術性、トリック的性格が端的に示されている。
 同じことが自民党の総裁選挙についてもいえる。自民党の総裁に選ばれたものには、次期首相の地位が用意されているのだから、実質的には日本の首相選挙である。それが自民党に属する衆参両議員と自民党の都道府県代表者、合わせて五百人足らずの投票によって選ばれる。この五百人足らすが一億国民の利害を代表するのだから、一人で約二十万人分を代表することになる 。いったい、彼らはどうしてこの権利を獲得したのであろうか。
  これは、まさしくデンスケとばくの一種である。このイカサマが「民主主義」「議会政治」の名において公然と行われているのだ。
 民主主義の代表者、擁護者をもって自任しているアメリカで、このような不合理な選挙形式が採用され、いまも行われているのはどういうわけか。開拓時代、この新天地に新しい移住者が続々入りつつあったころ、前からここに根をおろしていたボスたちが、その既得権を守るために、こういう選挙法を考案したものらしい。この時代錯誤の意思表示形式がいまも改正されずに行われているのは、古い既得権を守りつづけようとするボスどもがいまもアメリカ社会に巣くっていて、彼らの力がまだ強いことを物語っている。

一か八かのギャンプル

 それにもう一つ、我々日本人に理解しにくいのは、大統領選挙人の選出は、州単位で行われ、その州の一般投票で一票でも多くとった候補者は、その川の全選挙人を独占することができるという制度である。現にニューヨーク州では四十三人、カリフォルニア州では四十人の選挙人が、 一人の候補者に取られている。これでは、敗れた候補者に投じたものは、ことごとく死票になってしまう。
 このような選挙法は、文字どおりにイチかバチかで、ギャンプルそのものである。これは各州がそれぞれ独立の国家であるという建て前から出たものであろうがいまのようにマスコミの発達した時代に、このような地方主義か残されているというのは、どう考えてもおかしい。

〝不毛〟 から脱け出す道

 これに似た矛盾は、いまのアメリカ社会にさがせばいくらでもある。これを合法的に改めるには、合法的な手続きを必要とするのであるが、その手続きそのものにも、前にのべたような大きな矛盾があるのだ。こんどの大統領選挙が、〝不毛の選挙〟といわれる理由はそこにある。国家や民族の現状を憂え、その将来についてまじめに考える人々の期待にそうような人物が大統領候補に選ばれる可能性がないという仕組み、現行の選挙制度、それを改廃することもできないという絶望感がそこから生まれる。
 この絶望感に対処する方法が三つある。
 第一は、〝常識〟の線にそうもので、最善がなくとも次善を選ぶことによって満足する、いや、あきらめるという立場である。自分や家族の生活をささえねばならぬものの多くはこの立場を選ぶ。いや、それをしいられる。
 第二は、主観的脱出である。その〝脱出〟 にも、いろいろあって、個人的な仕事や研究や、金もうけや趣味やレジャーやセックスに向かって逃避するものもあれば、ヒッピー族やフーテン族の方向に向かうものもある。むかしの〝出家〟がこれに相当するが、今日の社会ではそれも許されないので、これをつきつめていけば、社会からばかりでなく、人生そのものから引退するほかはない〝蒸発〟というのがそれだ。
 第三はこのような現実への抵抗である。抵抗は現実の否定からはじまるが、これには現実に代わる代替物が用意されている場合と用意されていない場合とがある。国家や社会の現体制についていえば、これに代わる青写真が用意されている場合の破壊は〝革命〟ということになるが、権力の争奪に重点がおかれている場合は〝クーデター〟、破壊のための破壊にすぎない場合は〝反乱〟となる。
 近ごろの一部学生たちの行動は〝革命〟から〝反乱〟に近いものとなっている。彼らの求めているものは、〝敵〟の全面降服であって、一切の妥協を拒否する。こうなると、彼らのねらっているものは現実の修正、改廃ではなくて、現実の全面的否定、否定のための否定である。
 東大文学部の林学部長軟禁事竹はそのいい例で、この事件はせんだっての金嬉老事件を思わせる。金嬉老は人殺しをした上、武装して山の中の旅館の一室に自分自身を軟禁し 多くの警官やマスコミ人ややじうまを相手に〝闘争〟したが、これを裏返しにしたのが東大の学生たちである。まさに〝闘争 〟のゲーム化、レジャー化である。
 こういう奇怪な現象か日本の〝最高学府〟においてどうして発生したか。それは、アメリ力の大統領選挙や自民党の総裁選挙に露呈された、これら二つの国家社会や、政治の大きな矛盾に基づいている、とはいえないであろうか。

『大宅壮一全集 第9巻「サンデー時評Ⅱ」』(1980年、蒼洋社) 

 これはいまから56年前の昭和43年(1968年)、『サンデー毎日』に連載されたコラムのひとつです。大宅壮一は同時代の政治家たちを痛烈に批評しました。名宰相と謳われた吉田茂でさえ容赦しませんでした。鳩山一郎、池田勇人、佐藤栄作……戦後日本の舵取りをした首相が、その座を得るため暗闘を繰り広げた自民党総裁選を、〝イカサマ博打〟〝いんちき賭博〟〝まやかしの民主主義〟と一刀両断したのです。

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