「Fantasmagorie冬霞の巴里」考察

「Fantasmagorie」

開演アナウンスのひとこちゃんがええ声すぎて、
「Fantasmagorie 冬霞の巴里」の「Fantasmagorie」がとても印象に残っている。

Fantasmagorie
➊ (19世紀に流行した)魔術幻灯(劇).
➋ 夢幻(的光景);(不気味な)幻影,幻想.
「プログレッシブ仏和辞典 第2版より」

観劇する前は➊ 魔術幻灯(劇)のことだと思っていたのだが、この物語は観客全員が見ていた「➋ 夢幻」だったのだと思う。

オクターブにとっての「Fantasmagorie」

 父親オーギュストが自身について語ることはないから、結局誰が真実を話しているかもわからない。ラストシーン、叔父ギョームと母親クロエが父親の非道な行いについて語り、それによりオクターブは自分にとっての「父親オーギュスト」を見失う。

 「母さんと姉さんには秘密だよ」「秘密ってなんか嬉しいなぁ」というやりとりがある。一度目はオーギュストと少年オクターブ。二度目はギョームと少年オクターブ。
 このやりとりは、オクターブは叔父に優しくされた記憶を父親に優しくされたものと混同しているという可能性を示唆してくる。姉イネスのことを忘れかけていたりと、オクターブの少年時代の記憶は定かではない。
 そうして、「オーギュストは良い父親だった」という「fantasmagorie(夢幻)」に囚われ、オクターブは復讐を心に決めていた。

観客にとっての「Fantasmagorie」

 こんなに考察しておいてなんですが、私は全然この物語のラストに共感できなかった。オクターブの作り出した「良い父親オーギュストという幻」に囚われた観客(である私)は、復讐を達成しないという決断が納得いかなくてモヤったのだけど、時間が経つとこれで良かったんだなと思う。
 「姉さんは最近臆病になっている」という台詞が一幕であり、アンブルは真実とは正義とは何かを疑い始めていた。アンブルが「もういいの」と言って、オクターブは復讐をやめるけど、観客として(私個人として)はそんな一言で復讐やめるの?って正直困惑した。
 オクターブとアンブルは2人にしかわからないタイミングで、「fantasmagorie(夢幻)」から覚めた。「俺たちだけの罪」には、観客の共感も何も必要ない。オクターブが巧みに語った「fantasmagorie(夢幻)」に、観客はいつまでも浸ったままでいい。二人にしかわかりえない愛こそが究極の愛なのかなと思った。

「姉と弟」という関係性に込められたメッセージ

 父親との血の繋がりによって、父の仇討ちという復讐を決意していたオクターブだった。
 血が繋がらない「姉と弟」として生きていくことを決意したことで、今後夫婦になることはなく血のつながりがある子孫を作ることはできない。オクターブの下宿にて、ミッシェルとエルミーヌが「復讐が続かない世の中になればいいな」というような話をしていた。二人が夫婦ではなく姉弟として生きていくことは、今後復讐が起きることはないというメッセージにもなるんじゃないだろうかと思いました。
 とはいえ、フィナーレでひとこちゃんは「恋人としてのアンプル」という「fantasmagorie (夢幻)」と踊っているのがとても宝塚らしくて大好きです。

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