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私が生まれてから2年後に原爆が落ちたの

人生初の九州へ上陸しました!

長崎空港から諫早へ移動したのですが、長崎市内へ行きたくなりました。

義祖母に今日から長崎へ行ってくると伝えると

「私は長崎で生まれた!」

と衝撃的発言😲

戦時中、海軍だった義祖母の父は、軍の関係で地元の新潟県ではなくて、長崎へいたそうです。義祖母は丁度長崎にいるときに生まれたそうです。
原爆が落ちた場所から程近くだったそうです。

「私が生まれてから2年後に原爆が落ちたの」
サラサラと話す義祖母の言葉にとてつもない重みを感じました。

先日読んだ(聞いた?)「同志少女よ、敵を撃て」のターニャのセリフ

「もう戦争は終わる。そしたら平和の時代は終わらないさ。世界中が戦争の恐ろしさを嫌というほど知ったのだもの。きっと世界は今よりもよくなるよ。」

も頭をよぎります。

長崎市内まで行く予定はなかったのですが、急遽列車にのり、夕刻近くの長崎市内へ向かいました。

浦上天主堂遺壁
平和の泉
平和祈念像
平和の泉 後ろから向こうを望む
原爆落下中心碑(グラウンド・ゼロ)
被爆当時の地層

長崎市は1945年8月9日に原爆が投下され、その年だけで73,884人の方が亡くなりました。

令和4年8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の時点で原爆死没者名簿登録者数は192,310人

ナチス・ドイツでヒトラーの側近であったアイヒマンは
「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字に過ぎない」
という言葉を残しました。(諸説あり)

100万人の死には、一つ一つの人生があります。

その一つ一つが潰え、その分だけの悲しみがあると考えるだけで涙が出そうになります。

義祖母の父は義祖母が3歳のときに戦死したそうです。

今自分の娘は3歳です。

義祖母の父は家族とともに過ごし、もっと娘の成長を見たかったに違いありません。

そんなことを思いながら、長崎市平和公園を歩きました。

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