見出し画像

ルビンの壺をかち割ってみる


”ルビンの壺”というのは人の顔が向き合っているように見えたり壺に見えたりするあれのこと。
物事の見方は一度に一つしかできないってこった。


壺だと思ってみるとそれは壺でしかなく
顔だと思ってみると顔でしかない。

しかし一つ稲妻のような亀裂が入るとどうだろう、“壺が割れた”瞬間からそれは壺以外の何物でもなくなってしまったのだ。


そんな本に出合った。

本を読んだばかりだから口調が“それっぽく”なってしまうことを許してほしい。

出会い

しばらくぶりに実家に帰った際、異文化理解を研究する母と生まれた環境の違いによって人間は分かり合えないことを語った。
自分が”違う側”として生きることを経験もしくは想像しないわけにはハンディやマイノリティを抱える人間を理解することはできない。

そんな話の結末に対し
「ルドンの壺みたいなものね」
と母が例えた。

ただの知識不足か、イメージは浮かばず。
いつものようにインターネットに頼ると妙に見覚えがある画像が出てきた。
そこでは「よくある目の錯覚的な絵か。」とぐらいにしか思わなかった。



今日放課後に思いつきで向かったある写真展を目の前に、休館日だということを知った。そんな初歩的なミスをする用意不足な今日の自分を貶めた。
そこで急いで献血を予約したあたり、私が400mlという量の血を寄付する行為には自尊心を保つ目的が全くないとは言えないだろう。

付近まで遠出した日は極寒の中大股で歩いてでも訪れる本屋でいつもなら芸術コーナーに入り浸るところだが、今日は見覚えがある表紙の小さく薄めの本が目に留まった。

実のところ、本に両手の自由を奪われたまま長時間ジッとしていられる人間ではない。しかしページ数がそれほどないこの「ルドンの壺が割れた」から目を離さないままひどく時間が過ぎていた。正直読むあいだ時間の経過に自覚はあったが、この熱気を逃したくなかった。
この感動をこの小さいキャパシティの心と頭に収めておく訳にいかず、急いで箇条書きで書き留めている。後でその感動が伝わる文に整えるつもりだ。
本のレビューがどういった姿であるべきなのか分からずいるが、きっと本のあらすじを長々と書く必要はないのだろう。あなたがこれをキッカケに、自主的に手に取って同じ感覚、もしくは全く違った感想を受け取ってもらう為なのだから。


読み直す

ここまで書いて月日が経ってしまった
そう、自分の中であの感動や新鮮さがなくなってしまい今一度読み返したのだ。

どんでん返しの物語はフラグに埋め尽くされていて、最後の塵一つ見逃さない見事な回収を目の前にするのが気持ち良い。
そのどんでんをこの物語の中で唯一知る私が再度読むとまた違う世界線で出会うことができる。その仕組みを知りたいという好奇心と同時に、短いからそれが可能だったというのも事実だ。(内容には入らずまた感想ばかりになってしまう。)

しかし、改めてみると妙な既視感を受け取った。

恋人が別れた途端に
払った金と時間を嘆き惜しむような

そんな娘の世界一の味方だったヒトが一晩で、
人生を壊した極悪人かのようになってしまうような。

そんな感じ。
この酷く人間くさい習慣はあまりにバカらしくて、二度と味わいたくない。それでもって他人がそれに陥る様子はどうしても苦笑いしてしまう。不人情だと思われるのは覚悟しているのだが。
ただ、我々は失敗してからでないと学ばぬことをみな痛感していることだろう。
なのに一度犯した罪は死ぬまで、いや死んでも消えることはない。

そんな事実を心というより、こめかみに突きつけられた気分だった。

どんなストーリー

この本は、斬新にフェイスブック内のメッセージ機能を通じたやり取りでストーリーが進んでいく。突如、過去の知り合いである女性をフェイスブック上で偶然見つけたと送る男性。”結婚式の前日に僕の中で貴方は亡くなっていた”なんて不謹慎なことも書いている。数年後に、”インターネットを使いこなす方だと思わなかった”と返し本人だとは信じていなかった女性。
違和感がぬぐい切れないやり取りの中でこの女性がオカシイのか男性がオカシイのか、最後まではっきりしない。

情報を整理しようとする脳を引っ掻いてくるこの気味の悪さは、SNS社会に生きる現代人としては息苦しいほどだ。
表情が見えない文面上で、意図していない悪意がコミュニケーション間に生じてしまう不安がよぎるあの感じ。
何を企んでいて、何を隠し持っているのか、文面上美しく作り込まれすぎて見え隠れしてしまう。

おわり

こんな自己満足を真面目な顔で読んでくれる人間はいるのだろうか。存在したのなら、今すぐにでもガッチリと握手したいところだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?