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心の余裕とアート

心身共にくたびれたままで他人のアートに向き合ったのは初めてだった。
斜め前辺りからガンガンとどつかれる頭、既に空腹を通り越して不快感さえ覚える胃。目に映る全てが心を逆撫でしてくる。それらは積み重なった不摂生と成長期にこじらせたマイナス思考のせいだった。

強烈って

分かりきったことかもしれないが、主観にすぎない。
安らぎや世界共通の美を規則正しく表した物体があなたの目には意図せずこの世の中心に映るかもしれない。
反対に、創造主の爆発的で複雑なメッセージを詰め固めた物体があなたにとってはどうでもよく綺麗か、もはやガラクタかもしれない。

この日まで“現代美術ってなんかよく分かんない”の一人だった。
古臭い絵画を好む私にとってそれは立体的すぎてモダンアート展に訪れる度「なんでもアートになると思うな」とか内心穏やかではない瞬間もあった。
今回を経て感じ取ったことや得たものは多いが敢えて強烈で記憶に残ったものを鮮明に表現したいと思う。

跳躍するつくり手たち

岩崎貴宏《Out of Disorder(Layer and Folding)》(2018)

「跳躍するつくり手たち:人と自然の未来を見つめるアート、デザイン、テクノロジー」展(京都市京セラ美術館)にて強烈だった岩崎貴宏さんの作品。
タオルや糸で作ったジオラマが街の脆さを表現しているという情報を得てから対面した。
ネタバラシをしてしまうと(後に調べた)、作者の故郷である広島をあらわしていて、壁に描かれたの二つの雲は長崎と広島を象徴している。

全て黒いマテリアルで構成されているのに立体感がある。間違いなく遠近感が完全に把握され支配されている。その道の天才に計算され尽くされている。

歴代の絵画の中でも印象派や点描に目を惹かれる私は知っていた。アートは数歩離れるだけで別の顔を見せる。近づいて厚塗りの跡や遠慮気味に添えられたサインをみる。一歩下がる度に魔法のように、想像主の思惑通りに世界が完成していく。
そしてこの作品も綿棒や歯間ブラシなどの存在を詳細に現し、離れると信じ難いほどに立体的な山々と鉄塔に生まれ変わった。

そこで壁際のガラクタに違和感を感じた。
一見壁に落書きをして汚されほったらかされた、“途中”を感じさせる物の山だ。
しかしそれらは全て“消す物”だった。
洗剤やカビキラー、耳かき、消しゴム、ティッシュ、歯ブラシ。

冷静を装っていたが、びっくりした。
すごい発見した!と思った。

先に言った通り強烈は主観だ、アートは主観だ。故に彼に真相を聞くまでは解らない。しかし私が受け取ったものが正解でないかもしれないのと同時に不正解でもないのだ。
横目で流した人間には汚れて見えた空間が他のどれよりも清潔だったかもしれないなんて思うと笑みが溢れる。

体調悪かった

体調不良、空腹状態、睡眠不足、心が荒んだ状態で人間の思想の塊を嗜むなど不可能だと考えていた。
違った。心に空きがないまま観るアートは棘をあらわにし、そこに存在する理由を色濃く映す。

健康な人間ほど全て平均的に受け取ったり退屈したりするではないか。

私の世界を表出?

私の世界は限りなく広いものがある筈だが案外思い付かないし言い表せない。
一つ言えるのは、それは常に“間”がキーワードだということ。
間こそが間と間に挟まれた物本体の意味を確立させ際立たせる。日本の美に通ずるものがあるかもと期待したが、もっとデタラメで私は間に任せっきりである。間こそが主役かもしれない。笑

柊渚さん主催の【強烈】をテーマにしたイベントにて訪れた美術展についてでした。
ありがとうございました。

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