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苦労人が不幸人なんじゃない『リボルバー』

野暮な質問かもしれないが、幸せとは何かと考えることがあるだろうか。
幸福は他人の目に映るものなのだろうか。

湿っぽい生活ばかりの私だが、本を読みながらボロボロと涙を流したのは初めてだった。

前回投稿した「苦労人が好き『リボルバー』」、実のところ『リボルバー』自体を最後まで読み終える前に書いたものだ。
写ったものを急いで描き落とさないと、生きているだけで忙しなく変色する景色が混ざって、目を取られているうちにとっくに色あせてしまう。物語の結末も知らないまま勢いの良い自分語りばかりになってしまったのだ。


『リボルバー』を読み終えた今、前回の文の一部をどうしても訂正したい。
間違いなく私は、苦労人にとてつもない美学を感じる。しかし、「不幸な人が好き」というのは語弊がある。というか、まったくもって間違えている。
日本語って難しいから、と言い訳したいところだが、文には口から発せられる言葉よりもにじみ出る色が強烈に表れる。変化に飢え、考えを改め常に更新しようとする癖があるし、どれもその瞬間の本音だろうけども。

『リボルバー』ゴッホの人生

この物語は史実に基づいて作られたフィクションだ。
これを読んで研究者に「ゴッホは自殺したんじゃなかった。」なんて真剣な顔で言ったならバカにしに来たのかと面白がられるか、取り合ってももらえないだろう。世界中の誰もが名前を知るほどには多くを語られてきたゴッホだ。彼の最期をフィクションの中で語るためには、嘘を裏付けるための膨大な研究量が必要なのは容易に想像できたことである。

一般的にゴッホと呼ばれるフィンセント・ファン・ゴッホの精神状態は通常ではなかった。もう少し遅く…我々が生きる時代に生まれていたならば、その症状には名前が直ぐに付いたことだろう。人間は肉体と環境を持って生まれてしまう。彼の脳とその環境は綺麗な配列で冷静に並べられた経歴を見るだけでも「恵まれなかったんだな」なんて勝手に思ってしまう。死人に口なしとはよく言ったもので、「たった一人で孤独なまま死んだ」とどの資料にも平気で書かれてしまうのだ。弟が心の面でも金銭の面でも支援し続けたのは、本当に「変人」で実の弟がたった一人理解してくれたんだなと。どこに行ってものけ者にされて、寂しかったんだなと。

今はそれに同意できない。
彼はずっと、自由に絵を描くことが、死ぬまでできているではないか。自分の家庭や安定した職がなかった代わりに、縛られることなく時代のずっと先を行く作品を生み出し続けたではないか。
なにより、実の家族の一人に芸術性を認められていたではないか。

キーパーソン:弟テオ

テオドルス・ファン・ゴッホ、通称テオは誰が見てもキラキラ紳士で、画商として飛躍した。守るべき家庭も金も地位あった。
新生の息子にフィンセントと名付けたのは、彼らに金と労力を注ぐため以前より兄へのサポートが薄くなっていたが、「大切な家族だよ」と兄に伝えるためでもあっただろう。二人は絶え間なく手紙を送り合った。そして兄フィンセント没後、後を追うように衰弱そして精神病院でこの世を去った。

耳切り事件以来二度と交わることのなかったゴーギャンとは、ライバルとして、また同志として共に美術に向き合った時間があった。
独りぼっちなんかではなかった彼。理解されっこなかった美術の形を追い求めて、どんな状況でもカンバスとにらめっこをやめなかった。彼なりの「幸せ」があったはずじゃないか。


アツい美術史は綺麗事ばかりではない。人間臭い、イヤな部分を「分かるよ」と厚かましく頷きながら。他人の人生を無理やりのぞき込む学問。美術の歴史を色づけた作品たちの身震いするほどの美しさとは、皮肉にも遠くかけ離れているからずっとおもしろい。

親から子へ、またその子供へ。どんなに入り組んだ過去があっても、家族という異様なつながりはまとわりつく。
そして出会い、縁が人生の展開においてどれほど重要なものかをピリッとスパイスきかせて分からせてくれた。

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