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西田亮介氏の錯誤

寝起きに西田亮介氏による伊是名夏子氏の擁護論を読んで血圧が上がってしまった。おかげで良く目が醒めたが午前中が潰れてしまった。

社会批判には余念がなく、伊是名氏側の瑕疵には一切触れない西田亮介氏。Wikiによれば西田亮介氏は1983年生まれの社会学者であり、専門は公共政策、情報社会論とのこと。東工大リベラルアーツ研究教育院准教授。国際大グローバル・コミュニケーション・センター客員研究員、北大大学院公共政策学連携研究部附属公共政策学研究センター研究員と、若くして錚々たる肩書だ。2013年から毎日新聞社客員研究員なのだそうな。

私を憤慨させたのは氏による伊是名氏擁護それ自体ではなく、擁護の仕方にある。つまり論法だ。以下、丁寧に反論してゆくとする。

>「物言う障害者」に攻撃が殺到する背景 西田亮介氏が語る「冷たい日本社会」論

のっけからタイトルに問題あり。一般社会は伊是名氏(という障碍者の方)が社会に物申したから批判しているのではない。そして当然ながら批判は日本社会の冷淡さに由来しているのでもない。問題の立て方がそもそも誤っており無理解を呈している。予断と偏見に満ちた誤りである。

>障害者が移動の困難にぶつかり、様々な解消の手段があるなかで、JRとのコミュニケーションがうまくいかなかった。最終的には移動できたが、メディアに取材させたり、ブログで情報発信したりしたことで、炎上につながったという事案です。

タイトルと同様に事実認定が間違っている。これは予めトラブルを回避する術がありながらそれをせず、あえてトラブルを作り出し、丁寧な対応をしたJRに「乗車拒否」のレッテルを貼った事件だ。世間の批判はヤラセ疑惑ゆえだ。更には令和瓦版の松田記者の丁寧な取材により、政治的な「手柄」の疑惑まで浮上している。

>社民党における立場といった、個人の属性や、過去のキセルのような話は、個々にその是非が検討されるべきであって、本件と絡めた個人攻撃はとても下品です。

どんなテーマでも、ネットの批判には単に人を叩きたいだけの「下品」なものが混在しているのは確かだ。しかし社民党との繋がりは上記松田記者の洞察のとおり、彼女の一連の行動と密接に関係するものであり一概に無関係とはいえず、ディズニーランドの件はまさに「障碍」を特権化してズルするという来宮駅との強い同質性をうかがわせるものだ。それらをミソクソに「下品」と一蹴すべきではないだろう。

>伊是名さんが「乗車拒否」という強い言葉で問題を投げかけたのも、やむをえないでしょう。今回そのような意図があったのかどうか最終的にはよくわかりませんが、困難を抱える人が障壁にぶつかったとき、対応や権利獲得、権利保障をもとめて、時代ごとの社会通念や規範との間に摩擦を起こすアプローチは、社会運動で取られてきた手法です。

今回そのような意図があったのかどうかは、そそくさと削除された「コネラジ」動画で自ら以下のとおり告白しているではないか。調査不足!

どうやったら考えて貰えるかなって一番思うと、申し訳ないけど、こういうことを何回も繰り返すしかないんですよね。もう「突撃しただろ」とか、色々言われるけど、「狙ったんだろう」とか言われるけど、いや、そうでもしないと考えてもらえなくて、…

「そうでもしないと考えてもらえない・・・」という動機で「時代ごとの社会通念や規範との間に摩擦を起こす」のは極左テロリズムの発想である。極左活動家が時に法をも乗り越えるのは、法の遅れの修正を待っていられないと考えるからであり、こうした発想の延長線上には、高度成長期に一般人の誰も望んでいない「革命」を期して殺人まで正当化した赤軍派の思考がある。自らの正義の絶対性を疑わない独善的な態度だ。目的の正しさは手段を正当化しない。これは歴史の蓄積から我々が学んできたことであり、一般社会を「遅れた野蛮」と見下しているから生じるイデオロジストの思い上がりだ。

>我々が一般に考える「好ましいコミュニケーション」や、「好ましい発信のやりかた」とはつまり、障害を抱えず、当座困窮していない「マジョリティであり、比較的恵まれた立場にある我々」が考えるものだということは今一度想起すべきでしょう。

多数派の健常者が少数派である障碍者を厳しく叩くというステレオタイプに当てはめるから、こういう錯誤を犯す。定量的な問題ではないし、健常者か障碍者かという問題以前に、立場を問わず「他人に迷惑を掛けない」という心構えは万人共通の基本であり、自分で出来ることは最善は尽くしましょうということだ。それはまた障碍者を人として劣る障碍者として見下しておらず、対等に見ている証左でもある。ましてや特別に親切な対応を受けていながら、相手を批判の対象に据えるというのは恥知らずな行為である。テロの発想に至っては言わずもがな。

>脳性まひの人らがバスの乗車拒否にあったことをきっかけに、当事者や支援者があえて集団でバスに乗ろうとするなどした川崎のバス闘争など、摩擦をともなう問題提起をおこない、その後も様々アプローチを重ねて法整備がなされ、今のバリアフリー新法に結実している歴史的な積み重ねがあります。

なので、バスの乗車拒否とは事例が異なる。社会全体はバリアフリー化の方向に進んでおり、そこには目に見えぬ先人たちの努力の積み重ねがあるのはその通りだろう。しかしそういった努力というのは、自作自演のヤラセでもテロリズムでもなかった筈だ。むしろ伊是名氏のような行為は先人の努力を無駄にする。

>彼女が起こした問題提起が摩擦のように見えたり、実際に摩擦であったとしても、その一部は権利行使できない環境を改善するための闘争であると捉えるべきかもしれません。

口調は穏やかで障碍者を思いやる風でありながら、ここに極左活動家ならではの発想が顕現している。(「その一部は」と限定することによりリスクヘッジしているが、では何処で線引きするのか。法か。であれば、法を犯さなければ良識を犯しても止むを得ないという考えか。ルールによってのみ規律を保つ集団は、道徳と良識によって規範が保たれる社会よりも下等である。)

>ネット含め「気持ち悪い」など差別的な言葉を目にする状態がよいとはとても思えません。しかし、昔にくらべて、教育等含めて理解の機会は増えているはずです。差別的な批判のボリュームが大きく見えても、ネットの少人数の声が大きく見えるという指摘もなされているので、それらをあまり代表的な世論とは決めつけないほうがよいでしょう。

こうして庶民の良識の側からする伊是名氏の行為に対する言論による正当な批判を、巧妙に教育が行き届かない「下衆なネット民の誹謗中傷」にすり替える。

ーー障害者のなかでも「差別がさらに助長される」と懸念する声もあるようです
西田:我々が一枚岩ではないのと同様に、障害者の人たちの意見が一致する必要はないし、多様な意見が出るのも当然のことです。
当事者の人たちが闘争の歴史を意識せずに、十分便利に生活できているのだとすれば、それ自体は好ましい事にも思えます。

障碍者の内なる批判については多様性で解消しつつ、闘争の歴史を意識しない故と婉曲にディスる。西田氏は本質的で重要な質問には、わずか数行で逃げた。

性被害者を自称する伊藤詩織氏を、性被害者を自認する女性たちが批判するのは、端的に行為が迷惑だからであり、背景には「彼女と同じに見られると困る」という事情があるから。伊是名氏の場合もむしろ世間の偏見を助長するからだ。

これは日垣隆氏が『そして殺人者は野に放たれる』で提起した問題と同質で、氏のロジックは”心神耗弱ゆえに精神障碍者が減刑を勝ち取ってゆくのは、精神障碍者に対する偏見を助長する”というもの。つまり、「精神疾患がある者は犯罪を犯しても仕方がない」というのはとんだ倒錯した考えだと言っている。身体障碍者の場合も同様に、伊是名氏のような態度が「はいはい、障碍者さま」「障碍者なのだから無理強いも呑んでやらないと」という誤った、より根の深い偏見へと繋がる。

身体的ハンデから来る必然的な不都合であれば社会は対応すべきである。だが、「弱者」をカード化してワガママを強要するような行き過ぎに対しては、きちんと線引きできることが望ましい。それが良識というものであり、対等に遇するということだ。

>伊是名さんが、私的な出来事から、公的な出来事の連続性を想起させて、社会運動として議論喚起させる狙いがあったのか、もしくは何も考えていなかったのかは最終的にはわかりません。

いや、だから、上に貼ってるじゃないですか。だからといって「公益性」と捉えるなら、それもまた間違いだが。

>しかし、自身の体験にもとづく発信は、個人攻撃を引き出しやすい。弱者に冷たい日本社会で、弱いと見なされれば直ちに攻撃される傾向があります。木村花さんや伊藤詩織さんの事件では、匿名で中傷していた人たちが起訴されるなどしています。

まず木村花さんと伊藤詩織さんは全く異質の事例で一括りにできない。前者は純然たる誹謗中傷の犠牲者であり、後者は「誣告」の疑いが極めて濃い案件であり、冤罪の蓋然性が高い。

伊藤さんの事件が孕む人権侵害の疑いや、司法へのポピュリズム介入恫喝訴訟表現の自由法治主義の危機という深刻な問題群に立ち入ることもせず、まるで声をあげたから非難されているかのような受け止め。「ネットの誹謗中傷」という伊藤詩織さん側のプロパガンダに素直に従う粗雑でパターン化された括りだ。

ましてやRT訴訟の2名は、それぞれ異なる理由で社会問題化していい程の犠牲者である。2名は匿名で中傷していたか。なぜこの二人が選ばれたのか。東京地裁まで行って調べればわかることだ。原審記録とともに新たな「誹謗中傷訴訟」の記録を地裁に行って読んでみなさい!一体、社会学者とは調べる前から強者と弱者を決めつけて物を言うものだろうか。イメージだけで被害者を鞭打ち、罪もない者に罪を着せて平気なのだろうか。

>想像の域を出ませんが、叩く人からすれば、本来、弱い立場であってしかるべきはずなのに、影響力があるように見え、そのようなねじれが、ますます叩きたくさせているのかもしれません。

とんだ的外れだ。伊藤詩織さんには深刻な人権侵害の疑いがあり、公に名乗り出ていながら「被害者性」を確定しないから批判されている。被害者かどうか判然としないままに加害者だけが全世界で確定している。これが社会学者として怖ろしい事態だと思わないのか。ましてや彼女は係争中である。伊藤さんの裁判記録が示すのは強い虚偽告訴の可能性だ。また、伊是名さんが叩かれるのは上述のとおりで、いづれも木村花さんとは質的に無関係だ。安直な「弱者」「被害者」というカテゴライズは間違っている。

ーー問題の投げかけ方は「正しい」ものだったでしょうか。彼女が求める合理的配慮の浸透に結びつくのでしょうか
西田:投げかけが正しいか、正しくないか、という議論には、ほとんど意味がありません。立場や見方次第でいろいろな意見があるでしょうし、わきまえる障害者になるべきか否かを問い続けることに何の意味があるのでしょう。

前出の「障碍者の声」への回答と同じパターンで、一見、「多様性」への配慮と見えながらその実、反論に正面から向き合うことを放棄し、根拠のない上から目線を以って反対意見を「弁えろ」と言っているかのように曲解させている。もう一度言う。伊是名氏への批判は行動が不道徳だからであり、テロへの拒否感からだ。アメリカのように弱者カードアイデンティティー・ポリティクスを推進されたくない。

>駅員が「対応できない」という趣旨の回答をしたことには問題があると思います。現実には、当日にもとめられても、割けるリソースには限界があり、通常者の移動とは際(転記者注:際→差異)が生じるかもしれませんが、その差異を極力小さくするように、国、自治体、事業者等を中心に社会で努めるというのがバリアフリー新法の世界観といえるのではないでしょうか。

「差異を極力小さく」する行動は、国、自治体、事業者等だけに求めるものではなく、利用者の側にも共に適用されるべきもので、事前に一報というのがそれに当たる。ふんぞり返った障碍者様を社会は求めていない。

>いずれにせよ、助け合いが望めない、しかも少子高齢化が進む冷たい日本にフィットしたバリアフリー新法的な世界観は、障害の有無にかかわらず実は多くの人の利益にかなっているとも思います。

バリアフリー化には誰も何も反対していないし、日本社会が冷たいかどうかは、伊是名氏がやらかした事件とは元来、趣旨を異にする。

>当事者に小さいとはいえ追加の負担を求めるのか、それとも社会が改善を図るのかということが気になっています。

冒頭で西田氏が述べた問題意識についても、伊是名氏の一件は、一般論に回収すべき案件ではなく、伊是名氏に固有の問題である。

最後に

ポイントをピックアップしようと思ったら、ほぼ全文になってしまった。西田氏の弁は筋違いの擁護である。氏の思考様式は極左活動家そのものだ。年代から見て旧マルクス主義系統の偽装リベラルではなく、ポストモダン経由の極左学者ではないかと推察する。東浩紀氏の思想地図にも氏への言及があるそうだ。一般社会の生活感情を知らない社会学者さん。

ズレまくった論評は、事実関係を把握していないことが原因とみられるが、本件にしても伊藤詩織氏の一件にしてもどちらを擁護するのか、一般社会かそれとも当事者か、予め答えが決まっているのだろう。
もうそれくらいでいいじゃないか、伊是名氏を叩きすぎるなよと言うなら、理解できる。けれど西田氏のズレた擁護や、後に有料化された「コネラジ」の内容を公表した一般人に対して訴訟をチラつかせながら削除要請を行ったせやろがい氏の恫喝が、かえって火に油を注いでいる事を自覚されよ。