見出し画像

満州事変における在満鮮人被害の状況(現代語訳)

元田中様に貴重な資料をご紹介いただきましたので、現代語訳してみました。


(以下、訳文)

鮮人虐殺の真相は、これを目撃した鮮支人あるいは危うく虐殺を免れた鮮人の実話および実地屍体検証の結果を総合したものであるが、その惨状は実に甚だしく、往時の尼港事件(*1)にも勝る惨状だったことは想像に難くなく、惨殺の方法は以下に述べるように暴虐極まりないものであった。

*1 尼港事件:1920年(大正9年)3月から5月にかけて、アムール川の河口にある日本人統治状態にあったニコラエフスクで発生した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。赤軍パルチザンはことさらに日本人を標的に猟奇的な方法で虐殺しており、日本人犠牲者数は判明しているだけで731名にもなり、この地に住んでいた日本人はほぼ皆殺しにされた。

一、支那公安局員および悪地主は晝間(*2)田畑に出ていた鮮男の留守に乗じて、老幼者婦女子等を「暴虐な官兵が来襲するので保護しなければならない」云々の布令を出して、恐怖に襲われて集まり来たこれら老幼婦女子を室内に密閉しておき、敗走して来た官兵を招き入れて惨殺させた
*2 ちゅうかん、昼間

二、男女を別所に区分し、男は直に殺戮した
婦人は場合によって暴虐官兵の各群に配当し、各群ごとに概して階級順序に強制輪姦を行って死に至らしめるか、あるいは撲殺して放棄した
最も甚だしい例は、支那暴兵は一鮮婦が二歳の小児を背負っていたため、小児の号泣を忌いて、先ず銃把でこれを撲殺し、その後で、同婦人は死んだ小児を背負ったまま、これ等、暴兵に輪姦されて最後は撲殺された
また、臨月の妊婦を輪姦した後、生きたまま腹を割いて胎児を取り出し、面白半分にその子を銃剣で突き殺した後、入念にも其の婦人を撲殺せることすらあった

三、殺戮の方法は多くは牛馬の糧の藁草を裁断するための押切(刃渡り約60センチで足で踏むもの)を用いて首、足等を生きたまま切断し、頭、胴、脚を「バラバラ」にして離散させたケースもある
又、清源県の某所に於いては、鮮人を石灰竇(穴?)に生きたまま投入し、焼き殺したと云う

四、右、押切に依らないものの多くは銃の床尾の鉄の部分で撲殺した。中には頭部の中を失って脳漿が全く露出していたもの等もあり、惨鼻の極みに達していた
又、これら支那良民から支那服を借りて着用し、一命をとりとめた者も多かった