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好きなものを抽象化するということ

私にとって好きなもの、ってどういうものでしょうか。

読書が好きです。特に明治後期から昭和初期にかけての作品が。
イラストを見るのが好きです。特に線画や少ない色で描かれた作品が。
旅をするのが好きです。特に鈍行列車でゆく18きっぷ旅のようなものが。
たそがれどきが好きです。時の進みがそこ固定された気がして。

でも、例えばある小説の話をしていて、ひとに「この作品のなにが好きなの」と聞かれて、自分の納得のゆく回答ができたためしがありません。それとなく、口当たりの良い、まああてはまるだろうと思う単語を並べるだけです。私の家に帰ってからそれを思い出して、たくさんの作品と共通するような感想だったなと、悔しくなります。

まぎれもなく自分で良いなと感じたものだから、ひとに感想を伝えるときはおすすめだよ!という気持ちがはいるのですが、うまく伝えることができないのです。

たくさんの作品に育てられた私はきっと人よりも知っている語彙は多いと自負しているのですが、果たしてそれが使える語彙にもあたるのでしょうか。使う努力もしなければ、使う決意もしてこなかった私に、振りかざすことのできる文章力なんて存在するはずもありません。

やっと本題です。好きなものを抽象化したい。

好きになるもの、ってとても離れ離れにあることが多いです。この人の作品「だけ」が好き。なんてことはあまりありません。これも好きだし、あれも好き。この人の作品も好きだし、あの人の作品も好き。例えばそのふたりの作家さんがつながっていたり、影響を受けたものが共通していたりすることはあるのでしょう。ですがすべてそれで説明することはできないでしょう。私が使い慣れている言い方をするならば、「人の興味の対象は往々にして離散的な側面がある」となります。

しかし、本当にそうなのでしょうか。私が興味をもつものは、総じて何かしらの性質を持っているのではないか。これを明るみに出したいと思いました。つまり、これが「好きなものの抽象化」です。

またこれは同時に、「好きでないものの抽象化」にもつながります。

私には「好きでないもの」があります。きっと誰しもあるでしょう。そして理由はわかりません。太宰治の作品の一部が苦手ですが、その理由として「陰鬱な雰囲気が」としか出てきません。しかし同じように形容される中原中也作品は好きです。それらの共通部分は大きいと感じます。その一見して矛盾して見える私の感性をより詳しく説明したいと思うのです。(太宰作品にも好きな作品はいくつかあります。それに太宰も中也ももちろん他の作家も一つの単語だけで形容できるはずもないことは百も承知です。)

話を戻しましょう。好きになった本や、映画や、イラストや絵画や、アイドルや場所まで、きっと共通項が存在するのだと思い至ったのです。興味をもつ対象がきっと人より多い私にも、それらに何か共通するものがあるのではないか。それをはっきりさせたくて、この拙い文章を人様にみられるような場所にしたためようと思いました。

なにが好きで、なにが好きでないか。またなぜ好きになったのか、なぜそれが私の琴線に触れなかったのか、私の興味を惹かなかったのか。たくさんの作品を、たくさんの表現物を通して、はっきりさせたいと思いました。

これが、私が文章を書くに至った考えです。


小学生の頃に大人ぶって読んだ本も、きっと字を目で追っていただけだったろうし、たくさんの人と出会ってたくさんのことを知ったからこそ思い至ることも多いでしょう。また、ほかにも感じたこと、考えたこと、思ったこと知ったことを取り留めもなく書き綴っていきたいです。