どこからでも切れます。
「どこからでも切れます」
この言葉に見覚えはあるだろうか。
なければ、たぶん親御さんに大切に育てられてきたのだろう。そのまま、穢れなき瞳のままでいてほしい。
マジックカット。
僕たちは何度「どれどれ~?」と半笑いで期待を寄せる素振りを見せつつ、何度「裏切られた」と被害者ぶってきたことだろうか。
「嘘じゃん!」と、何度毒づいたことだろうか。
だが、少し考えてみてほしい。マジックカットは僕たちを裏切って嘲笑いたいがために、「どこからでも切れます」と嘯いているのだろうか。
「切り口なくしてごめんなさい。。。他の三辺はお客様のお役に立てず申し訳ないですが、こちらから、こちらからでしたら恐らくどこからでも切れる手筈となっておりますので、お手数をおかけし大変恐縮ではございますが、何卒お試しいただき奉りますと幸甚に存じ申し奉りますること無上の極みでござ候」
本当はこれぐらいの物腰かもしれない。だが文字数には制約がある。
上記の恭しい口上が、「どこからでも切れます」と断定表現として切り取られることで、一気に高圧的なニュアンスを含んでしまう。これでは、切れないのはお前の手が脂ぎっているからだとでも言わんばかりのビックマウスだと受け止められかねない。
「れる・られる」には"受け身"から、自然発生的な"自発"(この場合だと勝手に切れることになってしまう)、そして今回の”可能”というように、いろいろな意味が内包されている。
日本語というものは難しい。
では、今回の意味が”可能”だったと仮定しよう。それでも、僕はいくらかマジックカットの弁護をしたい。
本来、マジックカットはどこからでも切れるものである。
試しに、「どこからでも切れます」と書いてある反対側から切ってみてほしい。全く切れない。切れても、相当な技や力を要するため、それはもはや意地である。
マジックカットに散々裏切られてきたという人も、一度もすんなりと切れたことがない、というのはあり得ないだろう。いままでの人生で何回すんなりと切れたか、回数を思い出せるだろうか。
きっと、良いときの印象はそこまで残っていないはずだ。
マジックカットは素晴らしい技術である。
普段からその恩恵に授かっているにも関わらず、数回切れなかっただけで文句を言える筋合いがあるのだろうか。そういうお前はどこからでも切れるのか。
マジックカットは来る日も来る日も、「どこからでも切れます」という高いハードルを課せられ、決して失敗できないプレッシャーと闘っている。
ただし、あれは共同作業であることを忘れてはいけない。
「どこからでも切れます」というのは、マジックカットの一方的な宣言ではない。
「私は最善を尽くします。だからアナタも当然、この袋をどこからでも切ることができますよね?」と問いかけられているのだ。
マジックカットの心意気。一世一代の大勝負。晴れ舞台。
だから、僕はいつもこう思うようにしている。
「どこからでも切れます」
「はい、どこからでも切らせていただきます」
……っていうのを、さっきカップ焼きそば食ってる間ずっと考えてた。
マジックカットには何の思い入れもないです。おやすみなさい。
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