自分の薄っぺらさの原因と知的怠惰
「市外局番」という概念がある。そう、電話番号の最初についている番号だ。東京23区なら03、千葉県千葉市なら043。
これはみんな知っている「常識」らしい。その常識を、ぼくは知らなかった。
もちろん、「市外局番」という言葉には聞き覚えがあった。しかし、それがいったい何なのか意識することなく、35年を過ごしていた。会社のメンバーには「常識ですよ!?」と驚かれ、奥さんにも「え、本当に知らなかったの?」と引かれた。
昔から自分にはそういうところがある。普通の人なら知っていることを、知らないままに育ってきている。非常識と思われていることも少なからずあると思うが、そこまで気にしていなかった。「普通の人が知っていること」を知らなくても、今まであんまり支障はなかったし、それを知らないからできないことについては、周りが常にサポートしてくれていた。甘やかされていた。
話は変わるが、ぼくの妻は非常に頭が良い。空気を読む力、深く考える力、人とのコミュニケーション力、数字を読み取る&解釈する力などなど、どれをとっても素晴らしいなと思う。もちろん仕事も非常にできるようで、上下横すべてのラインから信頼されているようだ。
彼女はもちろん市外局番を知っているし、日本で行われている諸々の事務手続きについても造詣が深い。知らないことがあったとしても、すぐに調べてうまくこなす力がある。
市外局番を知らない件で驚かれた後、彼女とぼくの常識知らずの件について話してみた。なんとなく、「普通は知っていることを知らない」というのが、ぼくのもっと深いところにあるヤバい問題に繋がっている気がしたのだ。
ぼく:市外局番の件に限らず、ぼくは普通の人が知っていることを知らないことがちょいちょいあるよね。それ自体で困っているかというとそうでもないんだけど、自分が他の人に比べて考えが浅かったり、有機的に物事を繋げて考えられなかったりする、というところに繋がっている気もするんだけど、どう思う?
妻:あなたはそういうところあるよね。知らないことがあったら、「知りたい」とか「気持ち悪い」とか、そういう風には思わないの?
ぼく:思わなくはないけど、めんどくささが勝つ気がする。「知らなくても死ぬわけじゃないしな」「調べたり考えたりするのめんどくさいな」という気持ちに上書きされる的な。ただ、自分にとって重要な意味を持つことや、好きなことに関しては、黙っていても調べたり考えたりはしている気がする。
妻:そうだよね。普段一緒に歩いていても、あんまり周りの風景や物事に興味を持ってる感じはしないなって感じる。自分の好きなこと、興味があることについては深く深く調べたり考えたりしているけど、それ以外のことは「どうでもいい」と思っているような感じ。
ぼく:そんな感じだと思う。なんか、そういう姿勢がすごい良くないような気がしてきた。自分が他の人と比べて考えが浅かったり、物事を俯瞰して捉えることができなかったり、正しいけど空っぽなアイデアしか出せなかったり、、、みたいな原因が、「知らないことがあってもいいや」っていう投げやりな姿勢にあるんじゃないかと思ってきた。
妻:そこまで悲観することはないと思うし、すべてのモノゴトや仕組みを詳しく知る必要はないと思うけど、少なくとももう少し普遍的に知的好奇心を持つといいんじゃないかな。ステップ1としては「周りを観察する」。あなたはいつもあんまり周りが見えていないけれど、頭を上げて歩くだけで、いろんな看板とかサービス、人や風景、たくさんのものが目に入ってくるよね。それを観察するだけで、自然と「あれって何のためにあるのかな」という疑問を持つと思う。ステップ2として、「考察する、調べる」がある気がする。その中で特に気になったものに関しては、「こういう仕組みで動いているんじゃないかな」「このために存在するんじゃないかな」という仮説を持ってみたり、ググってみたりする。たぶんそれ単体ではあなたの人生に何か意味をもたらすものではないと思うけど、そういうひとつひとつの「観察」「考察」「仮説」が毎日積み重なっていくと、知らず知らずのうちにそれらが繋がって、あなたの言うところの「考えが浅い」「物事の俯瞰ができない」「空っぽなアイデアしか出せない」みたいな課題の解決に繋がる、かもしれないね。
もう4日ほど前の会話なので正確には書き起こせない&妻はもっとカジュアルに話していたような気がするが、概ねこんな感じの会話だったように記憶している。
ぼくは、おそらく知的に非常に怠惰なのだと思う。知ること、考えることそのもの自体にあまり重きを置いておらず、「自分の人生に役立ちそうなこと」や「好きなこと」に関してのみ自分のエネルギーを注いできた。
ただ、それにより、ぼくは非常に浅い人間になってしまったように思う。市外局番すら知らない、理解しようとしないということは、それに類する数多のモノゴトや仕組みを知らないということだ。生きるために「価値を提供するためのアウトプットの出し方」はある程度学んできたと思うし、それによりやりがいのある仕事や、生活するうえで困らないお金を頂くことはできているが、30中盤といういい歳になっているのに、普通の人が知っていることも知らない、理解できていない。
普通の人が知っていることも知らない、理解できていないということは、普通ではない高いパフォーマンスを出し続けている人が知っていることも知らない、理解できていないということだ。そんな中で働いているのだから、「なぜ自分はこんなにも劣っているのだろう」という感想を持つのも不思議ではない。
「知的に怠惰である」というのは、歳を重ねるごとにボディーブローのように効いてくる、毒になる習慣だ。今からでもカバーすることが可能なのかどうかわからないし、「じゃあどうする」もあんまり思い浮かんではいないのだが、歩いている時に周りを見渡してみることから始めてみようと思う。
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