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構造主義が世界につきつけたものから考えるタスク管理 4:11:13 12/18 (金)

ヨーロッパ世界はこれまで、唯一の真理があることを信じてきた。その真理が、啓示によってもたらされるのか、それとも、理性によってもたらされるのか、という違いはあるにしろ、真理を目指して運動してきた。ところがいまや、なにが「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。つまり、考え方の問題である。公理を自明のものと考えれば、証明や論証の結果は〝真理〟にみえる。しかし、そうみえるのは、ある知のシステムに閉じこめられているくせに、そのことに気付かず、それを当たり前と思っているからじゃないか。──こういう反省がおこってきて、当然なのだ。こういう反省は、数学や自然科学の内部にとどまらず、当然、社会科学や思想全般にも波及していく。ヨーロッパの知のシステムは、〝真理〟を手にしていたつもりで、実は〝制度〟のうえに安住していただけではないか。こんな疑問を、もっとも深刻なかたちでつきつけることになるのが、ほかならぬ構造主義だ。

橋爪大三郎. はじめての構造主義 (講談社現代新書) (Kindle の位置No.1643-1646). . Kindle 版.

構造主義が世界につきつけたものが遂にわかりました。

けど、だからなんなんだ?という話です。

知のシステムに閉じ込められ、制度の上で安住していることがわかったとしても、哲学者でもない私たちが今のところ、知のシステムの中で、制度の上で生活を営んで行くしかない状況は変わりません。

そんな状況で、世間で真理のように扱われているものが真理ではないと知ったところで、一体何になるというのでしょうか?

私は、絶望しにくくなるのではないかと考えます。

生活がうまく言っているときは、こんな考えを持っていようがいまいが、どちらでも良いと思います。

しかし人生、調子の良いときばかりではないでしょう。

そんなとき、現代社会の真理=制度に閉じ込められたままだと、苦しみ、絶望します。

話変わりますが、昨日、撮り溜めてたNHKの「世界の哲学者に人生相談」で紹介されていた三木清がこんなこと言ってたそうです。

断念することを欲しない者は、真の希望を持つこともできぬ

そしてどうすれば断念できるか?という問いに、三木清は「懐疑」と答えたそうです。

制度に閉じ込められ、そのことに気付かず、それを当たり前と思っている限り、それを懐疑することはできません。

懐疑し、断念しない限り、思考の袋小路から抜け出せず、絶望が待っています。

絶望の予防接種として、哲学は大切なんじゃないかなと思うのです。(狂って死んだ哲学者が何人もいますが、一般人はそこまで頭が良くないので、そこら辺はノーカウントでいきましょう)

タスク管理システムを考える時も同じです。

今まで機能していたタスク管理システムが機能しなくなったとき、そのシステムを絶対の真理だと思っていたら、機能不全から抜け出せません。

下手したら、「自分のタスク管理システムに、環境の方が合わせろ!」と周囲に、合理的な配慮を求め始めてしまうかも知れません。

合理的=ロジカルであればオールOKみたいな風潮がありますが、前述の通り、公理が過っていれば、その上に積み重ねられる論理も過ってます。

真理は公理をどのように置くか次第で決まるとわかっていれば、その状況は今まで機能していた公理が機能しなくなっただけなので、新しい公理を見つけ出し、その公理に基づいてタスク管理システムを組み直せば、道は開けることがわかります。

新しい公理を見つけ、システムを組み直す過程はラクではないかも知れません。

しかし、一度組み上げたタスク管理システムを真理とし、絶望から抜け出せない状態よりも、希望に満ちた状態と言えるのではないでしょうか。

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