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レヴィ・ストロースの"主体性批判"から考えるタスク管理 4:12:16 12/13 (日)

また、たとえば、主体。社会をこしらえているのも主体なら、ものを考えるのも主体、魂を救われるのも主体である。知のシステムは、主体を前提にしている。ところが構造主義は、〈構造〉みたいに、主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だ、と主張する。人間のことを主体としか理解しないようでは、いつまでたっても人間がわからないだろう、というのだ。

出典 : はじめての構造主義 橋爪大三郎 Kindle版 位置: 1,352

ここで言う知のシステムとは、当時フランス人のレヴィ・ストロースが属していたヨーロッパの知のシステムのことです。

レヴィ・ストロースが生きたのは20世紀ですが、21世紀も20年経った今も已然として、人間を主体として理解するのが、一般常識、社会常識です。

恐らく、この常識を一度も疑わずに生きている人が大半だと思います。常識すぎて、人間の主体性という概念を意識したことすらないのが普通でしょう。

日本語でも英語でも中国語でも、多くの言語が主語と目的語で構成されているように、人間は主体と客体でものごとを考えます。

しかしレヴィ・ストロースは、それで本当に人間のことがわかるのか?と問いを立てているワケです。

人間のことがわからなければ、その人間が幸せになる方法もわかりません。

主体が解体されて、本当に人間のことがわかったのかは知りませんが、少なくとも「主体を前提にした考え方をしていれば幸せになれる」、という図式が確実なものではなくなったことは確かです。

言うまでも無く、タスク管理は人間を主体として扱います。人間主体が行うタスクという客体を管理する方法論だからです。(人間を、目標主体の客体として扱い、主体としてすら扱わない側面もあるので面白いのですががその話は別の機会に)

もし、タスク管理をやっていれば幸せになれるということを言う意見があるとすれば、それは主体を前提にした仮説の上に成り立つだけであるということを意識の片隅に置いておいた方が良いのかも知れません。

たとえば7つの習慣でミッションステートメントの重要性が説かれていますが、ミッションステートメントには必ず、私という主体がいます。

この主体が、「人間を考えるとき、主体というものはさほど重要ではないよ」と言われ、解体されてなくなった場合、ミッションステートメントを守る意味はなくなり、そこから積み上がるすべての論理は崩壊します。

普通に生きていたら、人間の主体性はあまりにも当然すぎて意識にのぼらないと思います。

そんな意識にのぼらないことについて意識することができた、超絶頭の良い人達の考えの歴史・積み重ねが哲学だと思います。

哲学に触れるだけで、わたしのような凡人でも、過去の頭の良い人達が残してくれた考え方を取っ掛かりに、色々なことを考えられるようになります。

こんなに有用なのに、なんで哲学の社会的評価が高くないのか不思議です。

主体を前提とした現代社会なので、社会の維持のために、主体すら疑う哲学は反体制の芽として、不当に虐げられいる気すらします。(陰謀論

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