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カズは魔法使い 第二話

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「ただいま」
 誰もいないアパートの玄関に和人の声が響く。仕事を終えて退勤した和人は、コンビニで夕飯を買って帰宅した。もちろん、コンビニで温めてもらったものだ。
 和人は、授業のあとに呼び出した一真と話をしたが、一真の言い分をまとめるとこうだった。
『ある日たまたま見かけたんだけど、先生がケータイを落っことして、落下中のケータイが地面に落ちる手前でピタリと止まって、重力を無視して先生の手に戻った』
 おそらく一真が言ったことは事実なのだろう、と和人は思った。実際に心当たりがあったからだ。だが、和人は『それは見間違いだ、そんなことあるわけないだろう』と諭して話を終わらせた。待っていた陽平とともに一真が帰宅していくのを、和人は見送った。
 和人は玄関で立ったまま足だけで靴を脱ぎ捨て、部屋へあがった。その後ろで、扉の鍵は和人が触れることもなく勝手に閉まった。
 部屋の電気は、垂れた紐が勝手に上下して、暗かった部屋を明るくした。
 和人の手から無造作に放り投げられたコンビニの袋は、風船にぶら下がっているかのようにゆっくりとコタツの真ん中に着地した。
 床に放置されていたハンガーが浮き上がって和人の手へ収まると、脱いだ上着をかけられた後で部屋の隅にあるハンガーボックスへと向かっていった。
 コタツから微妙に離れていた座椅子は、和人が座るのに都合の良い位置へと動いた。ひとりでに袋から取り出されたコンビニ弁当は、包装のビニールが勝手に破けて蓋が開き、テーブル上の和人に近い位置に移動した。
 まるで部屋中にある物が、自分の意思を持っているかのように、和人に都合の良いようにひとりでに動いたのだった。
「いただきます」
 袋から勝手に飛び出た割り箸を手にして、和人は小さく声に出した。
 当たり前のことだが、部屋の鍵も電気も、ハンガーや座椅子や弁当も箸も、意思を持って動いたわけではない。そんなファンタジーのようなことが、現実に起きるわけがない。
 全て、和人の意図によって動かされたものである。
 和人には、手を触れずに物を動かす能力があった。
 和人が自分の能力を自覚したのは、30歳を過ぎてすぐの頃だった。
 当時和人は塾の講師になる前で、昼間は市街地でコールセンターのオペレータをしていた。そして、まだ実家で両親や姉たち一家と暮らしていた頃だ。
 ある休日に、両親と姉夫婦が出掛けて一人で留守番をし、自宅でテレビを見ていた時のことだった。昼寝をするためテレビの電源を切ろうとしたが、リモコンは離れたところにあった。リモコンが勝手に動いて自分のところへ来れば良いのに、と手を伸ばしてみたところ、少し動いた気がしたのだ。
 もっともその時はリモコンがピクリと動いただけで、結局起き上がって取りにいったのだが、それ以降、手を触れずに物を動かすことができることを認識した。
 なんとなく人に話してはいけない気がして、誰にも喋らず人前でも能力は使わなかったが、一人でいる時に練習して、軽い物はある程度自由に動かせるようになった。
 原理は和人自身にもよくわかっていない。だが、和人のイメージでは物自体を動かすのではなく、物の周囲の空気を動かしている。大気を構成する分子は好き勝手に動き回ることで、約1気圧を生み出している。その分子の流れを“偶然”同じ方向に揃えることで、特定の箇所の圧力は変化する。その流れで物を押すことで、手を触れずに物を動かす。軽い物なら浮き上がらせることも可能だ。
 一真が目撃したというのは、おそらく手が滑ってスマートフォンを落とした時に、とっさに空中で止めて持ち上げた時のことだろう。
 数カ月前に水溜りに落として壊してしまった際、まだ割賦料金が残っていたため交換にけっこうな金額を支払うことになってしまったスマートフォンだ。交換したばかりでまだ日が浅く、とにかく傷を付けたり、壊したくなかったのだ。
「見られていたとは、失敗したなあ。誰もいないと思ってたんだけどな」
 一人きりの部屋に和人の声が響く。和人は前の仕事を辞めて塾講師に転職する際、実家を出た。
 それまでの仕事で蓄えはそれなりにあったし、いつまでも親元で迷惑をかけることに抵抗もあった。沙織里も一人部屋を欲しがっていた。ちょうど良い頃合いだと思ったのだ。
 和人が一人暮らしを始めて4年が経つが、家で独り言を呟くのも習慣になってしまっていた。
「ま、一真だし大丈夫かな。アイツが何言ってもなんかアレだし」
 和人から見た一真という生徒は、いわゆるお調子者で、周囲からいじられて喜んでいるタイプの子供だ。変わったことを言えば冗談だと思われて、真に受けられることはあまりないだろう。
 夕飯を食べ終えた和人は座椅子の背もたれを倒して横になり、ゴミを台所のゴミ袋に向かって放り投げながらコタツに深く入り込んだ。テレビの電源を入れ、リモコンを手元に引き寄せる。
「あー今日は寝落ちしないよにしなきゃ」
 その一言を最後に、和人は眠りに落ちた。深夜のバラエティ番組の音声だけが、部屋に響いていた。

******

和人が華麗に寝落ちした翌朝。中学校へと続く通学路には、ちらほらと生徒たちの姿があった。
 市街地から少し離れた住宅街、いわゆるベッドタウンであるこの松方地区には、小学校が3つと中学校が2つ存在している。沙織里や汐梨、一真や陽平が通う学校は、小高い丘の頂上に校舎のある松方中学校という中学校だった。複数の学校が密集しており学区が狭いためか、自転車通学は原則として禁止されており、生徒たちはほぼ全員が徒歩で登下校していた。
「おはよう」
「ん? あ、おはよう」
 通学路にて、一真の後ろ姿を見つけた汐梨が駆け寄って挨拶をした。
「ねー、昨日のってなんだったの?」
「昨日のって、なにが?」
「ほら、塾で言ってたじゃん。カズおじさんが魔法使いがどうのって」
 汐梨は昨日の光景を思い出したようで、笑いをこらえながら一真に尋ねた。だが、一真は考え込むようにうーんと唸った。
 一真が目撃した光景は、確実に和人の手から滑り落ちた携帯電話が、地面にぶつかる寸前で動きを止め、また和人の手元に戻ったのだ。今年の健康診断でも視力2.0(以上)だったから、見間違えようがないのだ。
「超能力って、あるかな?」
「……はぁ?」
 普段の一真は、こんな変なことを言う奴ではない。いや、変なことを言う奴ではあるが、“変”の感覚が普段とは違う。汐梨は笑うのをピタリとやめ、訝しげな声を出した。
「一真、なんか変な物でも食べた?」
「おまえ、うちのご飯バカにしたら怒るぞ?」
 一真の答えを聞いて、あぁ、これがコイツだわと汐梨は安堵した。
「違うんだよ、俺さ……見たんだよ」
「なにが?」
「なんかさ、先生が超能力みたいなの使うとこ」
 汐梨としては、何が違うのかと聞きたかったのだが、そこは気にせず先を促すことにした。どちらかというと、超能力の話のほうに興味があった。
「なんか先生が落っことしたケータイが浮き上がって、勝手に先生の手元に戻ったんだよ」
「ふーん」
 汐梨は適当に相槌を打ちながら、歩いている道の先で掃除をしている老人を見つけた。
 たしか、あの辺の家に住んでいる人だ。よく学校に行く途中にすれ違うのでお互いに顔を覚え、すれ違えば挨拶をする程度の間柄にはなっている。名前はよく知らないが、たしか村田さんだか村木さんだったか。
「なんか見間違いじゃないの?」
「いやいや! 絶対あれ勝手に浮き上がったんだって!」
 少しムキになったような様子で一真の声が大きくなる。この様子だと、おそらく昨晩の授業の後にも、同じように見間違いか何かだと言われたんだろうな、と汐梨は推測した。
「でも“カズおじさん”でしょ? とても超能力者には見えないけどなー」
「おはよう。いってらっしゃい」
 喋りながら近付いてくる汐梨たちに気付いた老人が、箒を動かす手を止めて笑顔で挨拶をした。
「おはようございます」
「おはようございますー」
 すれ違いざま、一真と汐梨がそれぞれ挨拶を返す。汐梨はなんとなく、老人の視線に普段と違うものを感じたが、そのまま一真との会話を続けた。
「でもほら、ケータイって落とさないようにする紐みたいなのあるじゃん。ストラップ?」
「えー?」
「びよーんって伸びるやつとかさ。それが見えなかっただけじゃない?」
「そうなのかなぁ……」
 一真は納得がいかないような様子だった。
 なんとなく汐梨が振り向くと、先ほど挨拶をした老人と目があった。老人はなぜか箒を持った手を止めたまま、こちらを見ていた。気まずくなってぎこちなく微笑みながら会釈すると、老人も微笑み返してまた掃除を再開した。
 あらためて一真を見れば、先ほどの話がまだ引っかかっているのか、考え込んでいるような様子だった。
 汐梨がもう一度振り向くと、老人は別の生徒に向けて挨拶をしているところだった。いつも通りの風景ではあったが、汐梨は漠然とした居心地の悪さを感じていた。それは、嫌な予感と言い換えても良かったのかもしれない。

******

塾にて、一真が突然妙な質問をした日から数日後。
 あれから和人が一真たちの授業をする機会は二度ほどあったが、和人が口止めをしたこともあってか、超能力だ、魔法だと一真が言い出すことはもうなかった。
 そもそも、今は既に12月。一般的な中学三年生は、高校受験を意識して勉強をする時期に入っている。生徒本人に必要な息抜き程度ならともかく、全く関係のない余計な事柄は考えてほしくないのだ。
 このまま一真も忘れてくれればいい、平穏な空気に戻ってくれれば良いと、和人は考えていた。
 だが、和人が自宅でいつものように怠惰な休日を過ごしている時に、玄関のチャイムが鳴った。
 普段は鳴らないチャイムだ。来客など滅多にない。訪れるのは決まって、宅配の業者か訪問販売、宗教勧誘のいずれかだ。最近特に通販などの注文をしていた記憶はなかったが、さて今日は何が来たのかと重い腰を上げ、和人は玄関へと向かい扉を開けた。
 扉を開けた先に待っていたのは、六十代くらいだろうか、いかにも人柄の良さそうな壮年の男性だった。
「こんにちは。菅原、和人君だね」
「はぁ……はい、そうですが」
 訪問販売でも、宗教勧誘でもなさそうな雰囲気だった。新聞の訪問販売なら頭の弱そうな若い男か態度の悪い中年がほとんどだし、宗教の勧誘であれば中年女性と若い女性の二人組がほとんどだ。
 今、玄関の前に立っているのは、物腰の柔らかそうな中年男性が一人。これまでにないパターンだった。だが、和人はなんとなくこの男に見覚えがあった。たしか、この近辺に住んでいる人のはずだ。
「村木という者ですが、ちょっと話をする時間をもらえるかな」
 男はそう言うと、玄関口に一歩足を踏み込んだ。それに押し込まれるような形で、和人は一歩、部屋側へと後ずさる。和人が手を離したため扉が勝手に閉まりかけたが、村木と名乗る男がそれを片手で押さえた。
「ええと、なんでしょうか? 村木さんは、たしかこの辺の……」
 素性がわからないため探りを入れる和人に、村木と名乗る男は表情を崩し、軽く笑みを浮かべた。
「突然で申し訳ない。ほら、松方活動センターってあるよね。そこで職員をやっています」
「活動センター……あぁ」
 そう言われた和人は、松方のほぼ中心部に位置する施設を思い浮かべた。
 松方活動センターとは松方地区の地域センターで、会議室や体育館、図書館などが併設された施設である。町内会や子供会のイベントで利用されたり、付近の学校の児童や生徒が放課後に遊びに行ったりする場所だ。和人も20年ほど前は、たまに遊びに行っていた記憶がある。なんとなく警戒心を解いた和人は、さらに質問を重ねた。
「今日はどうされたんですか?」
「いやね、ちょっと和人君と話をしたくてね。菅原さんとこ伺ったんだけど、今は一人暮らししてるっていうから」
「あぁ……」
 村木は先に和人の実家を訪れていたようだ。数年前に実家を出て一人暮らしをしているということは、知らなかったらしい。おそらく実家を訪れた際に、母か姉にでもこの部屋のことを聞いたのだろう。和人の部屋には固定電話は引かれていないため、ハローページ等では調べることができないはずだった。
「それで、ご用件は……?」
 いまだに訪問の意図がわからず、和人はさらに疑問を口にした。が、村木が発したのは言葉は和人の意表を突くものだった。
「和人君。きみは独身だし、結婚もしていない」
「……えぇ、そうですが」
(縁談の話か? いや、それなら母さんに言うよな)
 戸惑いながらも、和人は肯定した。
「部屋の様子を見る限り、彼女もいないね」
「……」
 怪訝な表情を浮かべる和人を無視して、村木はなおも続けた。
 和人は振り返らずに、部屋の様子を思い浮かべる。部屋のあちこちに、たたんでいない洗濯物や飲み終わったペットボトルなどが散乱している。滅多に来客もないため、掃除や整頓を怠っているのは確かだ。だが、それが何だというのか。世間様に迷惑は掛けていないつもりだ。
 ふと和人が村木の顔を見れば、村木の顔からは先刻まで浮かべられていた柔らかな表情が消え、無表情とも言えるような真顔に変わっていた。何を考えているのかが読み取れない。
「そして、君は童貞だ」
「……は?」
 和人は、自分のことを極めて常識的な人間だと思っている。初対面の相手に不遜な言葉遣いをすることなどしない。だがそれでも、ただこの瞬間は感情を抑えることができずに、和人は思ったままの言葉を口にした。
「いや、なに言ってるんですか?」
「君は何か、特殊な能力を持っているね?」
 和人の問いかけには答えずに、村木が質問で返す。名乗った時の温厚な態度からは一転して、今は威圧感すら放っているような気もする。和人の返事を待たずに、村木が続けた。
「そして、その力を使うところを誰かに見られている。困るんだよね、そういうのは」
「……ちょっと、何を言ってるのかわからないですね」
 村木が考えていることがわからない以上、和人には反論も否定もしようがなかった。
 能力を見られたことについては、つい先日、一真に指摘されたばかりだ。どこかからその話が漏れたのか? いや、そもそも村木は能力のことを知っている? 自分だけが使える能力ではないのか? 和人の頭にはいくつもの質問が浮かび上がったが、考えたところで答えが見つかるはずもなかった。
「僕らはね、そういう特殊な力を持った者達で組織を作っている。一度ゆっくり話をしたいから、活動センターのほうに来てくれないかな。日曜の午後2時、待ってるよ」
 立て続けに村木は喋りながら、上着の内ポケットから紙切れを取り出して和人に差し出した。思考が働かない和人は、わけもわからずにその紙を受け取った。4つに折られていた紙を開いてみると、紙には電話番号が書かれていた。
「それは僕の連絡先。一応、渡しておくよ」
「はぁ……」
「来るか来ないかは和人くんに任せるけど、能力のことを一人で抱え込むのは辛いんじゃないかな。適当に会議室をおさえておくから、来たら受付に聞いてね」
 そう言うと村木は少しの間、和人の返事を待っていた。だが、和人が手元の紙と村木の顔とを交互に見ながら何も言わないでいると、村木はそのまま扉を閉じ、去っていった。
 和人はしばらくの間、村木から渡された紙に視線を落としながら立ちすくんでいた。日曜日は仕事がないから、行くことはできる。だが、行く気は全く起きなかった。

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