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カズは魔法使い 第一話

「人間が想像できることは、必ず人間が実現できる」
 ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ

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「カズおじさーん!」
 閑散としたエントランスに、少女の声が響く。薄い壁と窓の隙間から冷たい空気が入り込んで来る中、少しだけパネルヒーター側に寄せた椅子に座りパソコンに向かって背を丸めていた青年、菅原和人はゆっくりと顔を上げた。
 近隣の小中学校がもうすぐ冬休みになろうかという時期、講師として塾に勤める和人はこの日も出勤している。和人はこの学習塾の講師であり、35歳の派遣社員だ。
 小さい塾のため、専用の受付スペースのようなものはない。エントランスと講師の事務スペースは背の低いパーティションで区切られてはいたが、当然ながら防音にはなっていないため、誰かが来ればすぐにわかるようになっていた。
 和人が声の聞こえたほうへ目を向けると、中学校の制服の上にコートを着た二人の少女が靴を脱ぎ、室内用のスリッパに履き替えているところだった。
「沙織里……ここでは先生と呼びなさいって、何度も言ってるだろ」
 下駄箱に靴を並べ終えて歩いてきた少女たちに向かって呆れた表情を見せながら、和人は眼鏡の縁に触れた。仕事中だけかけている伊達眼鏡だ。そのほうが先生らしく見える、と本人は思っている。
「ごめんごめん。まぁ、イイじゃん」
 二人のうち、沙織里と呼ばれた背の低い少女が、唇の間から白い歯を覗かせながら悪戯っぽく笑う。健康的に日焼けした素肌が、まだ化粧を知らない瑞々しさを誇っている。くせ毛のためか、大きく膨らんだポニーテールが揺れる。
「イイじゃん、おじさん」
 もう一人の背の高い少女も、同じような表情で笑った。沙織里とは対照的に、全く日焼けしていない肌は、血管が透けて見えそうなくらいに白かった。
「はい、汐梨も真似しない。あと、ここでは俺は先生なんだから。丁寧語で話しなさい」
『はーい』
 若い二人の声が揃う。もっとも、とても反省しているような顔ではなかったが。
 和人が勤めているのは、ラピッドアカデミーという学習塾だ。客層は主に近所の中学校の生徒。そのほとんどが高校受験を控えた三年生で、それ以外の学年の中学生や小学生に関しては生徒数が少なく、ほぼ個別指導に近い形となっていた。
「それで、こんな早くどうしたんだ?」
「べつに」
「特にやることもないから来ちゃった。外寒いしさ」
「ふーん」
 適当に相槌を打ちながら、和人は天井に近い壁に掛けられたデジタル時計を見た。塾の授業が始まるまでには、まだ少し時間が空いている。たいていの生徒は、授業が始まる時間ギリギリにやってくるものだ。この二人にしても普段はギリギリに来ることが多かったはずだが、まあ気まぐれで早く来ることもあるだろうな、と和人は思った。
 あらためて和人は二人に目を向ける。元陸上部で小柄な沙織里と、元吹奏楽部で大柄な汐梨は、よく一緒に行動していた。運動部と文化部、体型も性格もまるで反対のように見え、なぜ馬が合うのかは傍目にはよくわからなかったが、和人は勝手に凸凹コンビと名付けていた。耳に入ってくる他の生徒たちの話からすると、学校でもそんな風に呼ばれているようだった。
 和人にとって沙織里は姉の娘、つまりは姪にあたる。一時期は実家で同じ屋根の下で暮らしていたため、親戚というよりも、ほぼ家族のような関係と言えた。
 高校受験の時期が近付き、数カ月前にほぼ一斉に塾へと通うようになった中学生たちだったが、沙織里が気安く話しかけてくれるおかげで生徒たちと早い段階で打ち解けることができたのは、和人にとっては有り難いことだった。もっとも、汐梨や他の生徒にまで『おじさん』と呼ばれ、からかわれてしまうのには困ったものだが。
「まぁ、俺も特にやることなくてネットのニュース見てたんだけどな」
「フマジメだねえ」
「だから正社員になれないんじゃない?」
 不意を突かれ、言葉に詰まる。14歳の中学生は、大人の心に突き刺さることを平気で口にする。その効果をある程度は理解できているのだから、なおさらタチが悪い。和人は、思わず漏れそうになった声を飲み込み、咳払いをした。
 和人とて、好きで契約社員を続けているわけではなかった。ラピッドアカデミーという塾は、拠点の数自体は少ないものの、東日本全体に展開する学習塾グループだ。講師への評価制度や実績に対する見返りもあることになってはいるが、大きな差が出ることは稀なうえに、個人に対する評価もあって無いようなものだ。よほどの実績や経歴がなければ、採用された時点で当面の扱われ方は決まってしまう。契約社員という立場は、5年は据え置かれる運命なのだ。
「……うるさいぞ。それと、言葉遣いはちゃんと――」
「はい、はい」
 いかにも適当な返事で遮る沙織里の様子に、和人はため息をつきそうになるのをこらえた。
「菅原先生」
 斜め向かいの席の講師が和人の名を呼び、ごほんと咳払いをした。事務的に授業を進めることが特徴で、生徒からの評判は可もなく不可もない、鈴木という男性講師。少しおしゃべりが過ぎたか、と和人は肩をすくめた。
「すみません」
 謝罪の言葉を口にしながら、そういえば彼は正社員だったな、と和人は思った。
「……お前らのせいだぞ」
 和人は小声で沙織里と汐梨に向かって毒づく。
「すいません」
「私はお前じゃありませーん。カズおじさんこそ言葉遣いはちゃんと、ね」
「はい、はい」
 素直に謝る汐梨とは対照的に、沙織里は変わらず生意気を言うのだった。意趣返しのつもりで、和人は沙織里に向かって生返事をした。
 そうこうするうち、気が付けば他の生徒たちも少しずつ集まり始めていた。各々に教室へ真っ直ぐ向かったり、エントランスで他の生徒と談笑したりしている。
「ほら、そろそろ教室に入ってなさい」
『はーい』
 女子二人の声が揃う。並んで教室へ向かっていく後ろ姿を、和人は見送った。

******

「おはようございまーす!」
 授業が始まる時間になり、和人が教室へ入ろうとしたところで、一人の生徒が建物に駆け込んできた。ガラス製の扉が大げさに揺れるのを見て、和人は少しヒヤッとしたが、扉は時間をかけながらゆっくりと定位置へ戻っていった。
「……いろいろと言いたいことはあるが、とりあえず教室に入れ一真」
 呆れた表情の和人にそう言われた男子生徒―――水木一真は、いかにも急いで来ましたというように息を弾ませ、靴を脱ぎながら和人に照れ笑いを向けた。
「あれ、先生。今日は、もう夜だぞー、って言わないの?」
「……もう何回も言ったし、何回言っても直らないからな」
「ははっ、わかってきたじゃん」
 一真はどこかで変な知識を吹き込まれたのか、夜でも『おはようございます』という挨拶をする習慣を持っていた。始めのうちは和人や他の講師たちも注意していたが、いくら言っても無駄だと気付き、今ではあまり相手にしないようになっている。
 靴を脱いでスリッパに履き替えた一真を先に行かせ、和人は後ろ手で教室の扉を締めた。
 先に教室へ入った一真は空いた席を求めてぐるっと見渡し、最終的には一番前の机へと向かった。
 現在塾に通っている三年生の生徒は12名。教室には二人掛けの机が6卓置かれているため、欠席がなければすべての席が埋まることになる。また、生徒たちは仲の良い者同士でひとつの机につくことが多く、自然と定位置のようなものが決まっていた。
「遅いぞ」
 一真が座ろうとした席の隣に座っていた生徒が、一真に声を掛けた。すでに声変わりを終えているらしい低い声には、多少の苛立ちが含まれているようだった。
「いやいや、陽平こそ先に行くなら一声掛けてくれよ」
 机の上にリュックサックを乗せて筆記用具などを取り出しながら、一真は非難めいた声を出した。陽平と呼ばれた生徒―――脇本陽平は、言葉で答える必要は無いとばかりにふんと鼻を鳴らした。
 一真と陽平は学校では同じクラスの同じ班であり、掃除当番も同じ割り当てのため、お互いに部活を引退した現在では下校時刻はたいてい一緒の時間だった。放課から塾の時間までは多少の空きがあるため、塾に通う生徒たちは適当に時間を潰してから塾に向かうものだったが、しばしば陽平は一人で家に帰って着替えてから塾に来る。今日集まっている生徒たちもほとんどが制服姿の中で、陽平だけは私服で来ていた。
「さーて、それじゃ今日もやりますよっと」
 教卓の前に立った和人は、生徒たちの顔を一通り見回してから、絞り出すように声を出した。
「3分遅れです」
「ハイ」
 腕時計を一瞥して指摘した陽平の声に、ただ素直に返事をするしかない、35歳の童貞講師だった。
 沙織里と汐梨がうつむき気味に顔を見合わせてくすくすと笑う声が、静かな教室にかすかに響く。いつも通り、悪い雰囲気ではない。今日も無難に済ませよう、と和人は思いながら授業の始まりの合図となる言葉を口にした。
「それじゃ、授業を始めます」
「よろしくお願いしまーす」
 生徒たちの挨拶の声が教室に響いた。

******

「はい、それじゃ今日はこのへんで終わりにしよう」
 今日予定していた最後の演習問題の解説が終わったところで、和人は今日の授業の締めに入った。
 所定の終了時間まではまだ少し時間が残っていたが、必要がなければ時間を超えてしまう前に授業を終わらせるのが和人の流儀だ。
 ラピッドアカデミーの指導要領は、首都圏などを除き、基本的に学校の授業の進行速度に合わせて復習や演習を進めることになっている。塾が独自に用意している問題集も、全てを解く必要はない。授業で取り上げなかった問題については、やる気のある生徒が自分で解いて解説を読み、質問があれば講師がそれに対応する形式だ。
 そのため、限られた授業時間に多くの内容を無理やり詰め込む必要はない。そこは、個々の講師に判断が委ねられている。和人としては、生徒にとっても自分にとっても、無難にこなすことが一番だと思っている。早く終わって余った時間は、適当に雑談などで時間を潰して終わらせるのが、いつものことになっていた。
「じゃ、何か言いたいことある奴いるかー?」
 そして、この言葉も和人の常套句となっている。塾に通い始めたばかりの頃はこの言葉に戸惑っていた生徒たちだったが、今では誰も違和感を感じていなかった。
 といっても、大抵の場合は数秒の沈黙が続き、汐梨が「なにもありませーん」と言って終わるのだが。
「はい先生!」
「おう、どうした一真」
 しかしこの日は、珍しく一真が手を挙げた。一真が何かを言おうとすること自体も珍しかったが、発言のために手を挙げることも珍しいことだった。塾に通う生徒たちはお互いに見知った顔ということもあり、何か言いたいことがあっても、特に前置きもなく好き勝手に喋り出すのが慣例になっていたからだ。普段とは違う雰囲気を感じた和人は姿勢を正し、一真の方向へと体の正面を向けた。
 だが、一真の口から出た言葉は突拍子もないものだった。
「先生ってさ、超能力者?」
 授業が終わってざわめき始めようとしていた教室を、にわかに沈黙が支配する。
「……一真、おまえ何言ってんだ?」
 実際には数秒程度だったろうが、その場にいる者の体感としてはずいぶんと長い静寂の後に、和人は質問で返した。他の生徒たちも呆気にとられたまま、ある者は和人の顔を、ある者は一真の後頭部を見つめていた。
「……え?」
「いや、え? じゃなくてだな……」
 和人は困った顔で一真を見たが、どうやら一真のほうは冗談で言ったわけではないようで、顎に手をあてて考え込むようにしている。まるで予想が外れたのが予想外、とでも言わんばかりだ。
「あ、それじゃあ魔法使いか何か?!」
「いや、そのだな……」
「ぷっ」
 続けて投げかけられた質問に対して和人が答えあぐねていると、別の方向から吹き出すような声が聞こえてきた。声のしたほうに和人が目をやれば、汐梨が口を抑えながらうつむき、ぷるぷると震えていた。どうやら笑いを堪えているらしい。
 一真のことはさて置き、和人は汐梨に向かって声を掛けた。
「どうした、汐梨」
「いや、その、ぶふ……魔法使いって、ひ、ヒドくない?」
 途切れ途切れに答えた汐梨の顔は、笑ってはいけないという理性が感情に完敗しているのを、まるで隠せていなかった。一真の質問に呆気にとられていた他の生徒たちも、汐梨の言葉につられたのか、ざわざわとし始めた。和人は汐梨の態度に明確な不快感を覚えたが、そこは大人だ。顔には出さず、黙って様子を見ていた。
「そりゃハッキリ言っちゃ悪いでしょー」
「え? 何がヒドいんだよ」
「魔法使いってどういうこと?」
「いやほら、もう三十路だから……」
 いわゆる童貞三十路が魔法使いになるという、根も葉もない都市伝説。和人自身もそれを知ったのは数年前のような気がするが、今どきは中学生でも知っているらしい。インターネットが普及したことの弊害かもしれない。
 生徒によってはおそらく汐梨と同じ理由で笑いをこらえていたり、まったく事情を掴めない様子であったり、ただ汐梨につられて笑っていたりと、反応は様々だった。言い出しっぺである一真は、椅子の背もたれに身体を預けるように後ろを向きながら、「え? どういうこと?」などと他の生徒に話し掛けたりしている。
 ただ、そんな風に騒がしくなった教室の中でただ一人、陽平だけは何の興味も示さない様子で、自分の腕時計を見つめていた。歳の割にいつも落ち着いた雰囲気の陽平は、一言で表せばマイペース、人によっては冷めていると受け取られるような生徒だった。あまり口数が多くない生徒というのは何を考えているかわかりづらくはあるが、和人は陽平のことを貴重に思っていた。この年頃の子供たちというのは、ちょっとしたことで盛り上がり、しばしば収拾がつかなくなることがある。だが、陽平のような生徒が一人いると、場を収めるきっかけを作ってくれたりするのだ。
「先生、そろそろ時間です」
「お、おう……」
 まさに和人が期待していた通りの言葉を、陽平は口にした。授業が終わる21時にはまだ少し早い気もしたが、教室の空気を面倒に感じていた和人は陽平の助け舟を得て、授業を終わらせることにした。
「それじゃ、今日はもう終わり! 終了! おしまい!」
「えー?!」
 全員に聞こえるように大きな声で言った和人に対して、数人の生徒たちが不満の声を挙げた。
「先生って魔法使いなんですか?」
「一真ひっどーい」
「いやいや、俺は変な意味で言ったんじゃなくて……」
「はい、とにかく今日はもう終わり!」
 またしても好き好きに喋り出そうとした生徒たちをさえぎって、和人は声を大きくした。放っておけば、いつまでもお喋りは止まらない。ここは無理やりにでも収めなければならない。
「一真はこの後ちょっと職員室に来なさい。それじゃ、お疲れ様でした」
「ありがとうございましたー」
 不満気ではあったが、和人の挨拶に対して生徒たちも終業の挨拶を返した。
 時計の針は、21時ちょうどを指していた。

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