さえずり(1)
あるいは「SNSの過去現在未来…」ってほどの話でもないとは思うが、とりあえず今回は「さえずり(1)」と題することにする。
先日からついに「twitterからのお知らせ」が「X(旧twitter)からのお知らせ」という名前に変わってメールが届くようになった。
僕がはじめにソーシャル・ネットワーキング・サイトにつき合ったのはmixiだ。同居人の招待を得て入ったと記憶する。僕のmixiIDは6桁だが早いもの好きの彼女のIDは4桁である。初期のmixiは面白かった。そこで出会った人が旧知の友人と意外な繋がりがあったなんてこともあった。
ほどなくしてTwitter日本語版が登場する。この初期にはやはり同居人の知人であったジャーナリストのT.D.氏がその可能性と価値を拡めるのに大きく貢献したと記憶する。
tweetとは囀りである。近年ではtweetすることを呟きと表現したものに出会う機会のほうが多いが、鳥は呟いたりしない。周りによく聞こえる声で「ピーピーピー」「ホーホーホー」「カーカーカー」「ホケッキョ」と囀っている。最新の研究では、異種の生き物にはまったく意味をなさないこの囀りに、同種の鳥には言語に近い(人や猿を除く多くの哺乳類を超えた)コミュニケーション能力もあるとされているらしい。
周り中に聞こえるが異種にはまったく意味をなさない、しかし同種には確実に伝わる囀り、これが性に合ってしまった。僕は(一部の人に比べれば少ないほうかもしれないが)このサービスを多用してきた。
それからまもなくfacebookというのが登場する。これが性に合わなかった。(まず「ともだち」という表現が好きではないのだが)知り合いに何か伝えたければ直接伝えればいい話なのに、なぜSNSを介しなければならないのか。mixiにも近いが微妙に違う。あちらはコミュニティが外部にあってそこに参加する。しかしfacebookのコミュニティの中心は常に自分(あるいは他人)だ。
また機能が多様すぎるのと、アイコン中心の操作が直感と経験に頼らざるを得ない設計になっているため馴染めなかった。直感と経験で操作せざるを得ないシステムやアプリやサイトが最近は多いが、全体構造を把握している設計者に操られている気分になってしまう(設計者の能力が不足している場合もままあるが)。
中学、高校、大学と「友達グループ」が苦手だった。親しくなった友人は何人もいるが、いずれも一対一のコミュニケーションが基本にあった。だから「友達グループ」に参加したことはない。それらの事情からfacebookはアカウント登録したものの、主に書いた長文の収蔵庫としてのみ使用してきた。友達リクエストもほぼ無視してきたのだが、今年になって状況の変化などからリクエストに応えることにした。
Twitterに話を戻そう。経済的事情からいろいろ模索していたようでもあったが、イーロン・マスク氏が実権を握ってからさまざま新たな方針も打ち出され、ついにロゴも名前も「X」に変わった。
あまりにも性に合わない。世の中便利ならいいというものではない。今後とてもエックスる(どうやらポストすると言うらしい)気にはならない。残念だ。
なのでこれから囀りたくなったら「さえずり」と題してnoteに投稿することにした。とても異種も含めた周り中に聞こえる空間ではないが、当面は籠の鳥になるしかないのだろう。同時に「さえずり」はfacebookの収蔵庫にも入れておくことにする。誰かの目に触れれば幸いだ。
今後もし僕が籠の外で囀る機会があるとすれば、それは「X」の経営体制が変わって「Twitter」に戻るか、追放された創設者たちがTwitterに変わる新たなサービスを始めたときだろう。