記憶の縄釣瓶petit: 西武百貨店。

埼玉県南西部、西武沿線生まれの僕にとって、デパートといえば西武百貨店だった。
西武池袋線は埼玉県西部の絹織物を運搬する目的で、生まれた町の実業家石川家等によって敷設された。それを戦後に近江出身の堤康次郎氏が買収し、僕が育ったころ街は西武王国だった。
石川家はその後、レース生産会社を経営していたとも記憶するが、大正時代に建てられたお屋敷はたぶんすでに無人の館となり、僕らは「西洋館」と呼んでいた。こっそり忍び込んだような記憶も微かだがある。国道を挟んだ向い側にはやはり石川家が献贈したキリスト教会があった。美しい尖塔を持つ木造の教会堂、あの頃はどこの街にもこんな教会があるのだろうと想像していたが、今から考えると大正期の貴重な西洋風建築、今はない。石川家と親交もあった僕の祖父は、戦後は西武グループのために働くことになる。

西洋館

ここからは亡くなった母の記憶を頼りに書いているのでどこまで真実か確かではない。
戦時中、清二氏か義明氏か分からないのだが、我が家は康次郎氏のご子息の疎開先だったらしい。栄養補給のため乳の出る山羊だか羊だかが康次郎氏から送られ、家で飼っていたと聞いた。
戦後、祖父は西武グループのために近隣を自転車で駆け回り、現在西武球場や西武園、狭山スキー場等がある土地を買い漁った。地主の子供や孫にあげる釣道具としてのガムや飴玉の携帯は欠かしていなかった。
家族は西武鉄道の無料パスを持っていた。稀に無料パスを忘れ、かつ最寄り駅で新人駅員に出くわしたときも、田代東三郎の孫と言えば駅長やベテランが出てきて改札を通してもらえた(しょうがねえな、エラそうで生意気なガキだと思われていたに違いない)。

康次郎氏の死後、百貨店は清二氏が、鉄道は「メカケノコ」義明氏が引き継いだ。どちらも才気に溢れていた。清二氏はちょっと早すぎる文化・芸術事業を展開し、義明氏はちょっと早すぎるリゾート事業で成功を収めた。どちらも一時代を築いたという意味からすれば、早すぎたということはないのかもしれない。むしろ時代にはまったとも言える。
(だがプリンスホテルを「日本のホテルの先駆け」というのはどう考えても間違っている。「ホテルチェーンの先駆け」ならまだわかるが、プリンスホテルはその名が示す通り康次郎氏が戦後経済的に困窮した皇族の家屋敷を買い漁り、貴族の豪邸に宿泊するというのが基本コンセプトとして流れている)。

埼玉県南西部、西武沿線生まれの僕にとって、デパートといえば西武百貨店だった。

70年代から80年代にかけての堤清二(=西武百貨店)は凄かった。池袋東口で隣接していた丸物デパートを買収しそこにパルコ開店、東急グループの本拠地、渋谷への出店、公園通り、西武劇場、西武美術館、「今日の音楽」、「今日の美術」、アールヴィヴァン、スタジオ200…。ぼくは西武美術館のチケット売り場の真向かいにあったコレクションを展示するガラスケースの中の、はじめて観るジャスパー・ジョーンズの『標的』の前で1時間立ち尽くしていた。
西武で初めて出会ったものは多い。ジャクソン・ポロック、ヴィレム・デ クーニング、ロイ・リキテンシュタイン、リチャード・セラ、ジョセフ・コーネル、阿部公房、寺山修司、円窓の落語、菊池純子のダンス、20歳そこそこの市村正親の『馬(エクウス」』、ル・ノートルのバター香る食パン、B-inのちょっと崩したカジュアルウェア、20年使ったY’sの傘、ナイルレストラン…。

西武池袋店のストライキのニュースを見ながら、記憶の釣瓶の縄が少し動いた。

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