記憶の縄釣瓶petit: リチャード・セラの輪っか。

リチャード・セラが亡くなった。85歳だという。ということは1970年、54年前は31歳か。冥福を祈る。すでにどこかに書いた記憶もあるのだが、この機会に改めてアーカイブしておこうと思う。
1970年に東京都美術館で開催された「第10回東京国際美術展(東京ビエンナーレ)『人間と物質』」では、上野公園の遊歩道全てを覆うというクリスト(34)のプロジェクトは実現しなかった。彼は旧東京都美術館の大展示室の床を布で覆った。リチャード・セラは、カメラを持って記録を撮りまくっていた安斎重男(31)だけを連れ、都美館裏の空間でインスタレーションを記録させた。そして公園の遊歩道にNYのソーホーに埋めたのと同じような鉄の輪っか「RING」を埋めた。
今から考えればたった7年前のことだが、1977年に上野の学校に入学した10代末のぼくにとって、7年前は歴史上の出来事だった。「セラが埋めた輪っかがこれだよ」と誰かから聞いて、妙な感動さえ覚える年齢だった。
それから数年、ある日「輪っか」に近い通学路を通りかかると、工事業者がなにやら掘り返していた。まさしくあの「輪っか」である。ぼくはかけ寄り「ちょっとちょっとちょっと待って、あんたらこれがなんだか知ってるの」と声をかけた。公園の再整備工事をしているという現場監督は「わかんないけど、明治か大正時代の、なんかの台座じゃね」と応えた。「いやこれは70年の東京ビエンナーレで、リチャード・セラというアーティストが埋めた作品なんですけど…」とまで言って、公園事務所までが把握していないセラの作品がこのままでは廃棄されるしかないだろうと感じたぼくは、携帯などない時代である、近くの公衆電話に走って「104」番号案内をダイヤルした。「毎日新聞をお願いします」、「毎日新聞東京本社をご案内します」、「はい毎日新聞です」「文化事業部をお願いします」「はい文化事業部です」…いまからすれば実にスムーズな時代でもあった。
「あの、芸大の学生なんですけど、どなたか70年東京ビエンナーレの担当か詳しい方をお願いします」とかなんとか言ったと思う。いなかった。キュレイター中原氏のそばで運営に奔走した毎日新聞社員だった峯村敏明氏はすでに多摩美で教鞭をとっていた。ぼくは電話に出た記者に、経緯を説明できるだけ説明し「とにかく主催者としてなんとかしてください」と言って電話を切った。
それから数カ月だろうか、数年だろうか、「輪っか」は掘り返された場所に隣接する緑地帯に放置されて(保管されて?)いた。そしてあるとき『美術手帖』に、セラの「輪っか」が多摩美大に保管されることになったという小さな記事が載った。
あの「輪っか」は、いまも上野毛に大事に保管されているだろうか。

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