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[読書]ウェルビーイングってなんですか?

毎月テーマを決めて超ゆるい読書会をしています。

今月のテーマは、国連が3月20日に規定する「国際幸福デー」でした。

国際幸福デーは、幸福が世界中の人々の共通の目標であり、願望であることを認め、公共政策に反映されるべきものとして制定されました。また、持続可能な開発、貧困の根絶、すべての人の幸福とウェルビーイングを推進するより包摂的で公平な、バランスの取れた経済成長の必要性についても訴えています。1970年代初頭から、国民総幸福を国民総所得より価値あるものとして認め、国民総生産ではなく、国民総幸福量を目標にしたブータンによって提唱されました。 (出典:ユネスコスクール「2021年の国際幸福デーを記念イベントのページ」より)

私の紹介した本はコチラです!

この本は予防医学の研究者として、ウェルビーイングの先端で研究をしている石川善樹さんのお話に、ラジオアナウンサーの吉田尚記さんが質問をして広げたり、突っ込んだりしながら、ウェルビーイングについて考えを深めていく本です。

ウェルビーイングは一つのカタチではない

ウェルビーイングがどうあるべきか?だけをとりだして考えると、一人ひとりにとってそのカタチが違うので、そこに対してものすごく議論になるか、何を話してもOKみたいになるか、どこかに線を引く際には政治の領域での判断が必要になるなど、一律ではないそうです。

例えば、「運動したら健康になれる」「自然に触れると心が安らぐ」。
よく耳にするこれらの言説は、どちらも真実らしく感じられます。
しかし、実際は運動嫌いでも健康で長生きしている人もいれば、高層ビルに囲まれた都市で充実した人生を送っている人もいます。

時代によってもその時の価値観によってどういう状態になら幸せと感じられるかは変わってくるそうです。

いわれてみれば当たり前のように感じますが、その辺の違いは、もしかしたらこうした方がよい、みたいな押し付けにもつながりかねない部分かなとも思います。

そして、本では、このウェルビーイング=何に満足や幸福を感じるかは、当然文化によっても異なるので、東洋文化圏と西洋文化圏で異なる。なので、国際学会などで発表される西洋主義的な観点での「満足」や「幸福」では、日本人のウェルビーイングをとらえきれない部分があるはずだ、ということで日本の古今のカルチャー構造から考えを深められています。

日本の昔話って特殊だったんだΣ(・□・;)

ウェルビーイングを考えるのに何で昔話なのかはおいておいて、西洋と日本の昔話の違いは次のようなものだそうです。

<西洋>
●多くは子供が主人公。勇敢な若者だったり、英雄だったりも
●立身出世の展開が多い傾向
<日本>
●おじいさんとおばあさんがやたらと登場、「誰でもない」市井の人々の日常を描いていることが多い
●ハッピーエンドも少ない(ネガティブとも言える状態を愛でる言葉も多い)
●物語のスタートとゴールにほぼ変化がない話も少なくない

例えば、「うらしまたろう」。
主人公の浦島太郎は青年のイメージがありますが、もとの話では40近くの独身中年男性です。その彼が亀を助けて竜宮城へ行くことになる。竜の宮殿という名前を聞くと、西洋の文化圏で育った人の多くは「ドラゴンが出てくるんだな」と考えるそうです。ところが、竜宮城について現れたのは乙姫さまです。
「じゃあここから太郎はドラゴンとファイトして姫を救うんだな。Go!Taro!」と期待して読み進めても、悪い敵もドラゴンも一向に出てきません。楽しく飲み食いして竜宮城を後にし、お土産の箱を開けたら中からお宝ではなく煙が出て太郎はおじいさんになりました。

こうした、昔話などから見えてくるのは、「ゼロに戻る」ことを良しとしてきた日本人の心性だそうです。

「まんが日本昔話」を毎晩見続けている生活をおくる作者は、これをさらに一歩踏み込んで解釈し、日本的ウェルビーイングの原型は「ゼロに戻る」にあると考えています。
「ゼロに戻る」=「幸せ」

また、「存在しないものを讃え」「否定を受容する」歴史を積み重ねてきた精神性。自己肯定でさえも、自分のプラスの部分を見出すのではなく、自分を謙遜(=否定)して、それに対する周りからの否定を受けて初めてできる。否定の否定をされないと自己肯定できないという構造も日本人のウェルビーイングの考えにつながっているのでは?と考察しています。

「まんが日本昔話」に出てくる登場人物の多くは、成長も変化もせず、よく深いおじいさんはよく深いままで終わる。だから救いがない悲惨な話も多数あるそうです。けど、

「成長も変化もしないということは、弱さや嫌な部分をあるがままに肯定することでもあります」

この点、かなり大事なことだと感じました。今の時代に生きていて、なかなか実践するのが難しいというか…

ウェルビーイングとウェルドゥーイング

もうちょっと、本からのお話。

この本では、ウェルビーイングをわかるために、ウェルドゥーイングという考えを伝えてくれています。

ウェルビーイングはbeing=「いる」ということ
ウェルドゥーイングはdoing=「する」ということ

誰かと何かを「する」のは、「いる」ことが出発点になるのが自然な流れ。

〇子どもはどうやって友達をつくるのか?
(1)まずは、学校のクラスで、近所の公園で、ただ一緒に「いる」
(2)なにかのキッカケで友達に「なる」
(3)友達になった後は、一緒に何かを「する」

〇ところが、大人になると出発点が「する」に変わる。
(1)就職することで一緒に仕事を「する」
(2)次第に同僚に「なる」
(?)ごくまれに公私を越えて一緒に「いる」になれる場合もある

仕事のように、ただそこに「いる」だけでは価値がなくて、何をどの程度「する」のか、といった優劣・能力のみでシビアにジャッジされる「ウェルドゥーイング」の世界よりも、「する」が上手ではなくても、「いる」ことを許し合える寛容な社会の方が「ウェルビーイング」に近づける。

この、「ウェルドゥーイング」と対比しての「ウェルドゥーイング」の考え方は、この本の中心になっているように思いました。

本は、ここで紹介した以外にも、昔話も古事記まで取り上げたり、推しの文化とか、SNSのこととか、いろんなところに話をうつしながら、どうしたらウェルビーイングに近づけるか、みたいなところも出ていたりしています。とても読みやすいのでぜひ読んでみてください。

で、自分が「ウェルビーイング」について思うこと…

今回本を読んで思ったことは、いかに自分が「する」から はじめているなぁ、ってこと。

・休日に気晴らしに、何をするか?を考えている自分
・喫茶店でご飯を食べたらすぐに外に出てしまう自分
・家にいてゴロゴロしたあとになんとなく損した気分になる自分
などなど
仕事についてはまあそもそも「する」が必須になるから別として考えたとしても、何かをしていないと安心できない自分がいるわけです。

いや、まあその「する」で特に評価されるわけでないから、自分が好きなことをするのはいいんじゃないの。ということではあるのですが、なぜだかわからないけど、頭の中の自分とか、頭の中の誰かに評価されてしまします。

「ああ、なんだか無駄な時間を過ごしてしまった」と。
これでは、ウェルビーイングに近づくのは難しいのかなと感じました。

そういう意味では、ソロなんとか、みたいな活動は大手をふって無駄な時間を過ごせる活動ではあるなと思いますし、正直自分も好きな活動でいいなと思っています。

まあなんにしろ、「自分がただそこにいることでも安心のできる場」は無理にでもつくらないといけないのが「今」ということなんですかね。

もしくは逆説的に「何もしない」を「する」ことから始めることから、始めるのがいいのではないか。と思う私でありました💦

以 上

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