#22 喉から手が出る

近年、若者のディスコミュニケーションが話題になることが多くなった。ように感じる。
かく言う私もコミュニケーションというものに日々悩まされながら生きているクチなので、このコミュニケーションの問題は、他人ごととして流せる話題ではない。
特に最近は、コンプライアンスや○○ハラスメント等といったしがらみや規制が多いわりに、自由に、好きなように、あるがままに、が美徳とされてきている。個人が尊重されるためは、「自由」であるということが非常に重要な要素の一つであるため、様々な立場や背景を持つ方が交わるとき、この“コミュニケーションの問題”に直面してしまう。
この問題に対しては本当に様々な人が解決方法を提案しており、このテーマだけで本が何冊も書けるほどに問題要因や解決テクニックが考察されている。
そこで私もこの流れに乗って提案を一つしたい。それが、「日本語を学べ」というものだ。調べては無いが、似たようなことを言っている人や本はたくさんあるだろうが、今回は大目に見てほしい。
それでは前置きも終わったところで、なぜ日本語を学ぶことがコミュニケーションの問題解決になるのかを説明したい。

まずここまで読んでいただき、多くの人がタイトルが変だと思ったのではないだろうか。これは「喉から手が出る」ほど欲しいものがあるからではなく、この「喉から手が出る」という表現方法そのものを見てほしいと思ったのでこのタイトルとした。この表現方法は非常に秀逸で、語源は飢餓の状態で食べ物が欲しいさまから生まれた表現なので少し痛ましいが、これ以上に「とても欲しい!」と表現できる方法が無いと思わせるほどに強烈な印象を受ける。その一方でこの表現は冷静に見ると非常に使いにくい表現でもある。なにせ物理的にこのような状態になることは無いし、お互いに意味を認識していないとうまく伝わらないためである。この日本語の奥ゆかしさが現代の日本においては無駄とされるもので、端的にかつ万人に受け取ることが可能な表現となるにはこういう無駄をそぎ落とす必要がある。
この正確に正しく伝えようとする努力にこそ、現代のディスコミュニケーションの原因が隠れていると私は考える。
無駄をそぎ落とした言葉が使われると、簡単に相手や状況の理解ができるが、その人の状態を理解する上での余白を見れなくなってしまう。このように言葉通りに受け取る訓練をしつづけた結果、受け取る言葉は誰が発信したとしても“同じ”ものとして理解してしまうのだ。
こうなると個人を尊重しないといけないのに、“相手”そのものを理解ができなくなってしまい、ディスコミュニケーションへと繋がってしまう。
私はこのような現状を見て、現代のコミュニケーション問題を解決するためには、無駄に立ち戻るような日本語を利用すべきであるという結論に至ったのだ。

最後に、この日本語の無駄(奥ゆかしい)表現を学ぶための方法をひとつ紹介したいと思う。それは時代劇を見ることである。時代劇を放送しているテレビのチャンネルは減ったが、ネットで検索すれば無料で見れるものも多くある。水戸黄門なんかはメジャーで見れる場所も多いのでお勧めだ。
威光を示すために、「この紋所が目に入らぬか」と言えるようになれば幾分かコミュニケーションは上達するだろうと思う。

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