平家物語

どうすれば苦しみを越えることが出来るのかのう

これは平家物語のPVにて後白河法皇の口から語られる印象的な台詞だ。もちろん本編にも登場する。この台詞は『平家物語』のみならず我々が生きる世の中においても、普遍的かつ未解決な命題である。

『平家物語』に最初に引き込まれたのはPVを見た時だった。他とは一線を画す穏やかな色彩、登場人物に命を吹き込む豪華な声優陣と山田尚子監督や脚本の吉田玲子氏、劇伴の牛尾憲輔氏などの製作陣。中でも特段心を奪われたのは羊文学が手がけるテーマ曲『光るとき』だ。Spotifyで今年1番聴いてる曲はこの曲だろう。

Netflixで配信が始まってから、毎週木曜の昼に今作を見るのが楽しみになっていた。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の脚本を手がけた吉田氏なだけあって、シリーズ構成は巧みで、毎週次の展開が気になって仕方なかった。物語の大枠は分かっているのに、である。広く知られた古典をなぞるだけでなく、別のエンターテイメントとして再生したのは偉業という他ない。学校で暗記を強いられる最初の数節以外は知らない人がほとんどだろうし、僕もそうだった。原作に手を出すのは億劫だった。「源氏が平氏を討ち滅ぼした」という歴史的事実しか知らなかったが、今作はだからこそ楽しめた。こんなにも面白い物語なのかと驚嘆したし、この経験ができて本当に良かったと思う。

今作を鑑賞する前と後で、平家への印象は大きく変わった。「驕り高ぶってた独裁政権が源氏によって滅亡したのだろう」程度の認識でしかなかった。そしてそれは今作の語り部であるびわも同様だ。彼女は常に我々視聴者と視点を共にしてくれる。最初はネガティブなイメージの強かった平家にも、人情があり、心があり、彼らもまたこの平家の世で苦しんでいるのだと知る。我々が平家物語から得るべきことはこれではないかと思う。平家という歴史の試験を解く上で暗記すべきマクロなイメージを拡大していくと、当然そこには人々がいるのだ。彼らは悪の権化なわけではないし、我々と同じように笑い、苦しみ、慈しむ。だからこそ彼らを描くこの作品からは温もりを感じる。

今作の特徴として色彩の優しさが挙げられるが、そんな中でも鮮血だけはその色に容赦がないように思う。まさしく諸行無常である。突如として死を迎える人々、美しく淡い空を背景に散る鮮血、それらの持つ異物感は我々を『平家物語』の中へと引き込むし、同時にひどく現実的だとも思った。当時と現代では死との距離感は変わった。それでも突如として入り込む死は避けようがない。そういった意味でも平安時代と21世紀というときの隔たりこそあれど、我々の世界と地続きである。

今作のテーマ曲である『光るとき』も読み解くと今作と、そして現代の我々とも結びついてるようでとても面白い。「何回だって言うよ、世界は美しいよ」というサビは印象的で、尚且つ力強い。特にこの一節が強く心に刻まれている。

永遠なんてないとしたらこの最悪な時代もきっと続かないでしょう

永遠に続く栄華など無いのは『平家物語』のテーマでもあり、古今東西、興っては滅ぶのが必然であることはよく知られている。我々が生きる世界では疫病が蔓延し、争いが起き、皆それぞれ壁を作る。この曲で「世界は美しい」と歌われることに同意しつつも、「最悪の時代」であることを否定もできない。そんな世界に小さいながらも希望を与えてくれるような、そんな曲だと感じた。また、こんな一節もある。

君たちの足跡は、進むたび変わってゆくのに
永遠に見えるものに苦しんでばかりだね

これは非常にもっともであると思う。永遠に見える何かにずっと我々は苦しんでいる。どれだけ歩みを進め、進歩を遂げようとも我々は何かに苦しんでいる。『平家物語』の作品自体もそうであるように、『光るとき』も、我々が「昔々」だと思っているものと今が地続きであると言っているように感じてならない。

そんな「苦しみ」に今作では一つの答えが示される。癒えることの無い傷も、辛く悲しい現実も、「祈る」ことが救済になるのだと、そうこの作品では示す。
「祈り」と「赦し」は、この二つ無くしてこの作品を語れないほど重要な要素である。いつになっても断ち切れぬ悲しみの連鎖を、赦し、祈ることによって昇華させる。
びわは我々視聴者と視点を共有しているといったが、我々の「物語の行く末を知っている」というメタ的視点も語り部として上手く組み込まれている。彼女には「先を見る目」があるが、先を知る我々視聴者と同様、彼らの結末には干渉できない。平家の人々をよく知るが故に耐え難いもどかしさと苦痛があっただろうと思う。びわは、実の母を赦すことによって、「祈る」ことが唯一びわにできることであり、それが平家を語り継ぐことなのだと示される。
「赦す」ことは相手への救済であると同時に、自分自身をも救う行為なのだと思う。大いなる勇気がいることだし、きっと簡単では無い。だけど、哀しみの中で赦すことがそれを和らげることはきっとあるのだと思う。
「祈る」ことはこの作品の大きなテーマであり、800年に亘って語り継がれた平家物語そのものが祈りでもあった。何も出来なくとも、ただ祈る。その美しさと強かさがこの作品にはある。

「この作品が現代社会と地続きである」と言ったが、詳しく触れていきたいと思う。
現在進行形でヨーロッパで起きている侵略、広がる格差に覇権主義的国家間の争い、同一国内でも起こる分断。こういった苦しみが早く無くなってほしいと思うのは僕だけではないだろう。だが、こういった苦しみは形を変えて太古より人間と共にあったのだと思う。想像はできないが、きっと石器時代にも何かの苦しみがあったのだろう。そんな中で苦しみから逃れたい人々は宗教を作り神に祈った。だが、その信仰の対象はいつしかイデオロギーへと移り、技術の進歩はそれらを塗り替えてしまった。そんな時代に示される「祈り」の在り方は衝撃的ですらあった。『平家物語』で描かれる祈りは神を媒介しない。人から人への儚く、消えてしまいそうな、か細い「祈り」という行為が如何に力強いかを思い知り、強く胸を打たれた。

苦しみの蔓延る諸行無常の世界でも、我々にできることがあるなら、平安の世を願って祈ることでは無いだろうか。

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