かわいくない私が思うこと。
“かわいい”の汎用性は日本語の中でトップクラスだと思う。きもかわいい、ゆめかわいい、あざとかわいい・・・
その便利さに乗じてか、日本社会のかわいい化は止まらない。
アニメや漫画のキャラクターたちの変化が顕著で、ポケットモンスターたちはどんどん目がクリっとしてきてあまり個性が窺えない。
(サトシも初期とは別人である。)
なぜ、“かわいい”が正義なのだろう?
"かわいい”が持つ力は、あらゆる人に対しての攻撃性・刺激を緩和させる。
今の10代、20代にはそのくらいが丁度いいのかもしれないが、ふんわりとしたコンテンツばかりが流行り、平和ボケしていく世の中が来ないことを祈る。
冒頭から唐突に“かわいい”について話してきたが、そこには訳がある。
現実社会を生きる人たちから、
“かわいい”を求められるとちょっと辛い。
なぜなら私いつもドシっと構えて、
どんな危険も回避できるように見えない予防線を脳内に張りめぐらせているのだ。
仕事は冷静に、ある程度のことには動じない(ように見せている。)
美意識が低いわけではない。
アイブロウ、アイライン、マスカラ、涙袋の形成、この4点をカバーできないと外に出られない。出勤前は命懸けなのだ。
ただ、これはかわいく見られたいからではない。
私が自信をもって私らしく公の場に出たいだけなのだ。
仮にかわいいと言われても嬉しくないし、そんな汎用性の高い言葉でしか他人を褒めることができないの?と解釈してしまう。
そう、私はめんどくさい性格だ。
そんなめんどくさい私が最近思うモヤモヤをひとつ。
働いている人を“社会人”と呼ぶのが好きじゃない。
中学生だって高校生だって幼稚園児だって誰だって何かしらの社会で生きている。
だからこそ、全国民もれなく社会人なのだ。
"社会人"という言葉から、
働かないと社会で認められない。
というように聞こえてならない。
泥臭くてもいい。かっこ悪くてもいい。かわいくなくたっていい。
みんながそれぞれの社会で自分らしく生きていけますように。