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「初めての開催、そして2000万円以上の赤字に」 のその後 vol.1

少し時間があいてしまいましたが、以前に書いた記事

初めての開催、そして2000万円以上の赤字に

の後どのようにTAICOCLUBが成長/変化していったのかを追っていきたいと思います。

別れの決断

2006年、2007年とフェスティバルの内容としてはとても素晴らしいものになりましたが、"集客”という一面から考えるとかなり厳しい状況でした。その頃の僕はというと日中はモデル事務所でモデルのマネージメントの業務をしながら夜中や休日を使ってTAICOCLUBの業務をやる、最近のダブルワークとか副業と言われるような働き方をしていました。そのおかげで、未払分を少しずつ返済しながら精神的にはかなり苦しい状況でしたが、何とか2008年の3回目の開催へと歩みを進めていきます。

その過程でもある2007年末に3人の小さな組織としては大きな判断を下しました。立上げから一緒にやってきたA氏に抜けてもらう事に。元々友人でもあり、僕にとっては高校時代の同級生で自宅をシェアしていたりと、かなり親しい友人だったのでとても難しい決断となりました。それでも、2008年は”興行的な成功”がなければTAICOCLUBの継続は不可能な金銭的事情だったための決断となりました。友達と一緒に始めるって難しい!

バランスと独自性

辞めてもらう判断をするに至ったのはアーティストをセレクトする際の方向性の違いやバランスの問題。2006年、2007年と集客が今ひとつ伸びなかった状況でラインナップに変化が必要でした。拘りのある他とは違うラインナップだけではどうしても間口が狭くなりすぎてしまい伝えたいところまで伝わらない。その部分での食い違いがとても大きかったのだと今でも記憶しています。

関東や関西を含め遠方から開催地である長野まで時間とお金を掛けてまで行きたいと思わせるには、TAICOCLUBでしか見る事ができない環境作りや組み合わせのバランスが重要でした。当時のクラブミュージックが好きな来場者と結びつきの深いライブアーティストやバックグラウンドが近いアーティストなど相乗効果のあるラインナップをより強く意識するようにしました。

それまでは以下の左の図のように、ポイントに当てはまるアーティストを考えてラインナップしてきましたが、ポイントを見つけるのではなく右図のように全体のバランスでTAICOCLUBらしさを表現する方向にシフトさせました。この方向性の変化によってアーティスト個々ではなく、ラインナップとしてTAICOCLUBの独自性が築かれる事となります。

さらに、BOREDOMSだけの独立したステージを作り、周囲を来場者が360°囲む等、TAICOCLUBがその後も大事にしてきた強烈な”ライブ体験”を持ち帰ってもらえるような事にもチャレンジしてみました。その結果2008年はついにチケットはSOLD OUTとなり身を結びました。

その当時のラインナップはこちらです!

BOREDOMSのライブはこんな感じでした。確かMOODMANさんが酔っ払ってステージに登ろうとして、何度もセキュリティに止められてましたね 笑

指定席の獲得

この2008年を境に口コミにより知名度が一気に上がり、年間のフェスティバルスケジュールの6月1週目には”TAICOCLUBの指定席が生まれた瞬間”です。この指定席を得た事は2018年の終了までの中でも最も大きなポイントになったのではないでしょうか。

そして新たな失敗へ

2008年は僕とM氏の2名だけが主要のメンバーだった事もあり、支出も少なく過去2年分の借金をここで一気に支払い終えます!やっと地獄から抜け出せましたが、調子に乗った僕達は2009年から2011年に掛けて今まで以上に辛い経験をする事になってしまいます。

次回は2009年からの調子乗り期について書いてみようと思います。

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Taro Yasuzawa

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こいのぼり株式会社/TAICOCLUB Founder 2006年より12年間に渡りミュージックフェスティバルTAICOCLUBを主宰。日本有数の音楽フェスティバルへ成長させ、2018年にその幕を降ろした。今後は芸術性︎を社会に浸透させていくための仕組み及び場所を運営していく。