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濱口竜介監督映画『偶然と想像』感想 / 「実存と虚構、繋がらない心」

濱口竜介監督『偶然と想像』を見た。
以下、ネタバレありの感想、覚え書き。

濱口監督の映画は、『ドライブ・マイ・カー』、『悪は存在しない』を鑑賞したことがあり(濱口竜介『悪は存在しない』感想 / 自然の摂理 自然の寓話 立ち上る薪割り幻想)、今更ながら、その才能に驚き、他の作品も見てみたいと思っていたタイミングで、旧作をまとめて上映する企画があったので、とりあえず近作の『偶然と想像』を見ることにした。

ただ、予告編を見た感じ、現代劇の恋愛ものという、私はあまり得意ではない、言ってしまえば興味のないジャンルで、これはどうなんだろうとも思ったものの、濱口監督を信じて劇場に足を運んだ。

移動シーンでの長回し、ダラダラとした日常会話、しかし、絶妙に弛緩させず推進力を保つという、いつもの濱口節から始まり、話は徐々に意外な展開を見せる。
映画内でそれまで積み上げてきた、そこはかとなく観客と共有したリアリティ・ラインをふいに(ある種、ジェントルに暴力的に)破る、「こんなことある?」と思える展開、その大胆な偶然性の導入に慄くが、すぐにこの映画のタイトルが『偶然と想像』だと思い出す。

3部構成の短編集、全ての話に共通して、人の生にふいに訪れる「偶然」というものをテーマとして扱っているようで、連想したのは、作家のポール・オースターだ。
ポール・オースターは、幼少時代に、森の中で目の前を歩いていた少年に雷が落ち、その少年が死ぬという事故に遭遇した。
1秒違えば自分が死んだかもしれないその出来事以降、世の不条理性、「偶然の力」を意識し出したという。
後に、『偶然の音楽』というタイトルの、偶然にまみれた小説を書き、ラジオの企画では、信じられないような「偶然」のエピソードを募集し、後に『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』というタイトルで本にもまとめている。

『偶然と想像』の話を動かす偶然性を支えるのは、リアリティである。
あるあるでも、類型的でもなく、だが、鋭い人間洞察力、キャラクター構築能力に基づいた、リアリティを伴った人部像は、生き生きと、画面の中を、フィクションの中のリアリティを、縦横無尽に泳ぐ。

キャスティングの上手さ、人物造形の上手さも印象的だ。
物語世界を超える存在感を発する役者、タレントに頼らず、だが、確固たる個性、味を感じさせる配役は絶妙だと感じた。

どの短編も、別のベクトルの固有の小宇宙を形成しながら、トータルでの整合性を有し、また、相互にその世界観に影響を与え、補完し合っている。
設計図と、ハンドルの遊びのバランスも絶妙で、有機的な膨らみを獲得しているように感じた。

一番印象に残ったのは、第2部だろうか。
コンプライアンスに対する注意からか、教授室の扉は常に開けているが、心の扉は硬く閉ざしている作家の大学教授と、欲望のコントロールが効かない人妻の学生とのやり取りが深遠で面白い。
浮世離れした教授の創作論が真摯で芯を食えば食うほど、あっけらかんとした人妻学生の思惑と噛み合わないのが可笑しい。

第3部は、実存と、社会の中での役割=演技、虚構性との対比、非分離性、侵食性がテーマになっているようだ。
仙台駅前でのラスト・シーン、互いに、自身の実存と虚構が混ざり合い、また相手の実存と虚構の認知もあやふやになった状況で、実存のみでも、虚構(と互いに認知している状態)のみでも辿り着かない物事の核心に、そっと、ふいに、歩みを進める様はスリリングだ。
必然的にリアリティとフィクションを内包する映画というメディアに対する、監督の意識的な取り組み、信仰性と懐疑心を感じさせる。

「人と人は根源的に、少なくとも原初段階として、分かり合えない」とでも言うかのように、どの話も、人と人の繋がらない心、歩み寄る心、すれ違う心が繰り返し描かれるように思うが、そのタッチ、描き方には、細心の注意が払われており、凡庸で退屈なヒューマニズムを回避している。

『偶然と想像』は、『ドライブ・マイ・カー』、『悪は存在しない』の、映像の美しさ、映像を伴った映画的な表現と比べ、文芸的、演劇的な印象だ。
当然のことだが、それを成り立たせているのは秀逸な脚本であろう。
意外性と着実なリアリティの同居、静と動、緩急が豊かで、何かが起きなくとも、何かが起きそうという気配、話の推進力の維持に長けており、実際に写っているもの以上の情報量で見るものを飽きさせない。

唯一、気になったのは、第3部での、未知のコンピュータ・ウィルスが発生し、インターネットが遮断された世界という設定で、効果的に機能していないように、不必要に感じた。

と、思い浮かんだことをメモ的に残しているが、実際に鑑賞したのは、1週間くらい前のことである。
この映画を見た後に、引っ越した友達の新居パーティーに遊びに行き、濱口竜介監督の映画を私より沢山見ている友人と、濱口映画の話をした。
「この頃、『偶然と想像』を見て、面白かった」と言うと、友達は今ひとつしっくり来ていないようで、話を聞くと、理知的で破綻がなく、海外の映画賞を狙いに行っているように感じ、乗り切れないようだった。

なるほどと理解できる面もあるものの、逆に、そういった優秀な才能(濱口監督のWikipediaを見ると、父は官僚、祖父は洋画家だという)が、今の時代に、新自由主義的な数の理論にエネルギーを使うのではなく、純映画的な美学を貫くこと、貫けることは稀有な存在なのではないかと、とりあえず今は感じている。

エンタメと創造性のバランスが絶妙な、長く余韻が残る、面白い映画だった。

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