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ビクトル・エリセ『瞳をとじて』感想 「映画の中にだけ生きる魂」

数日前、ビクトル・エリセ監督の映画『瞳をとじて』を鑑賞。
以下、壮大にネタバレありの、感想、覚え書きです。

73年撮影、日本公開が85年の映画『ミツバチのささやき』で知られる、スペインの巨匠、ビクトル・エリセ監督の31年ぶりの長編映画。
予告編を見た時から分かっていましたが、『ミツバチのささやき』の映画的な別世界への没入性、瑞々しさとは明らかにトーンが違う現代劇。

思わせぶりで引き込まれる劇中劇の冒頭部分は魅力的で、普通にこれで一本見たいと感じたものの、本編になると(意図的に?)軽みのある話法で淡々とスローな展開。
途中、話動かず、暗い室内での会話シーンも続き、映画の長さ(169分)を確認せず、2時間睡眠で見に来てしまった私は、うっかりウトウト。

時の流れ、実在と不在、喪失、といったテーマは興味深く、周縁を撫でるものの、今一つ掘り下げが微妙な気もしてしまった。
監督と失踪した俳優との結びつき、捜索の行動原理は、(以前からの友人という設定を足してもなお)説得力に欠けるようにも感じた。

後半、ストーリーが展開し出してからは、息を吹き返し(私もウトウトから目を覚まし)話はグルーヴし始める。
主演俳優の失踪によって20年前に撮影中断した映画、その監督と記憶を失った俳優が直面する「映画の虚構性」と、「現実の虚構性」。
そしてそれは、「虚構の真実性」をも暗示する。

『ミツバチのささやき』に撮影当時 5歳で出演、心に残る怪演を見せた、アナ・トレントが今作にも出演している(ビクトル・エリセ監督の長編映画に出るのは50年ぶり! とのこと)。
有名なエピソードで、『ミツバチのささやき』撮影時、アナは現実と映画撮影の区別がついておらず、「共演したフランケンシュタインの怪物を本物の怪物だと思い込んでしまった」というものがある。
そのエピソードを彷彿させる、また監督も意識していたのではと思われる、「映画の中でだけ生きる、生き続ける命」といった側面が、現実と虚構の境界をグラつかせながらクローズ・アップされる。

映画こそが人生だと言わんばかりの、ある種危険にも思える映画愛、映画讃歌が表現されているように感じたが、これは、巨匠の偽りざる気持ちでもあるのだろう。
私も、音楽や文学にのめり込んだ人間なので、作中の世界観、作中の律動が、現実に侵食し、時に凌駕してしまう感覚を理解することができる。

ビクトル・エリセ監督の映画は『ミツバチのささやき』しか見たことがないが、映像美や飲み込まれるような映画的呼吸、示唆的概念的、シンボリックな演出が魅力のように感じた。
今作は、話の土台として、ミステリー風味も漂わせていたが、気の利いた展開、仕掛けがあるわけでもなく(むしろ何もない)、そういった打ち出しは隠れ蓑のようだ。
なんでも綺麗に説明しているのが良いとは思わないが、ストーリー映画として機能させるならは、いくらなんでも失踪の真相があやふやで良いのか? というのは気になった(ウトウトしていた時に見逃したのかもしれない)。

色々思うことがあるという意味では、引っ掛かりのある、面白い映画でした。

映画『瞳をとじて』公式サイト


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