話を聞く

私は、「話を聞く」ということを徹底している。
なぜなら、話を聞かないということは、間接的に話し手の人格を否定しているに他ならないからである。

最近私の周りに、「話し手の言いたいことを勝手に予測して勝手に割り込んでくる人」が増えた。その人たちは悪い人たちではないから、きっと効率的で、時間の短縮ができて、気を遣った結果だと思っているのかもしれない。しかし甚だ間違いである。実際はその人が結論を導き出しただけで、話し手は自分の言いたいことも言えずに黙らされただけである。話し手の話の終わりはいつかというと、話し手が話し終わるまでである。


ーー悲しい。これが是とされているのが心底悲しく、やりづらい。人の話はきちんと言葉尻まで聴くのが基本だと習わなかったのか。ああ、やり切れぬ。齟齬が生じてはいけないわけであるので、もっと丁寧にすべきだ。それは自分が満足しているだけで、相手を萎縮させる行為にほかならない。はっきり聴こえる耳があるんだから、ちゃんと聴いてやれよと思う。


そのような人は必ず見落とす。誰かが悲しんでいるのも、嫌な思いをしたことも、どこか不調があるのも。私は気こそ利かないが、そういうものはどうにか見逃さないようにしている。様々なことを考慮する。それが邪魔だとしても。

普通の基準に達しないものを切り落とすなよ
普通や常識なんて自分の中にしかない。この世にあるのは意地悪か、優しいか、そのどちらでもないものか。ただそれだけだ。誰かに優しくするために、誰かに意地悪したんじゃそれは優しさでも親切でもなんでもない。


人間の根幹たるものを見失うような人たちには何もできないのである。伝えようとしてくるのを遮る人間は何も伝えることはできない。

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