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アートってなんだろう

生活芸術を表現したくて

パネテリエを開業する時に決めたテーマの一つが
「生活芸術 Art de Vivre」
とはいえ芸術家でもない私がそんな事を表現できるのか、挑戦するつもりで始めたことを覚えています。

広島へ帰ってから農家さんに出向くことの多い仕事をしていた私は、おばあちゃんやおじいちゃんとお話しする機会に恵まれ、昔の暮らしのお話をとても楽しく聞いていました。

昔はね、どの家も卵を取るために縁側の下に鶏を飼っていたのよ。農協ではヒヨコも売ってた。ほら、注文書に書いたら次の週には届いてて。いまもあるか聞いてあげようか?
(私:ニワトリ飼えそうになったらお願い。)

トラクターがなかった(多分まだ高級だった)時代、みんな牛を飼ってたの。あそこの空き家も牛小屋なのよ。うちにも牛鍬が残ってる。(あの木のかっこいいやつね!)いる?
(私:...牛飼ったら貸してね。)

この山のてっぺんで、小麦を育てていたの。うどんが美味しかった。何も買い物する必要のない暮らしね。
(私:種、もうないよね...)

子供の頃は半日かけて炭を担いで町まで歩いて行きよった。その炭のお金でおもちゃやお菓子を買ってかえりよったんじゃ。炭にできるこの辺の木は宝物に思うてな。
(私:薪とパン交換してよ!)

まるで宮沢賢治の農民藝術論の世界観。勝手にセピア色の景色を想像してしまいます。
そこに暮らしがあり知恵がある。当たり前のように受け継がれていたもの。それなのに、儚くも今では若者は聞き流すばかりで高齢者の記憶にとどめるだけの思い出の様に語ってくださいます。

農民藝術かぁ。生活藝術やな。

そんなお話が頭の中でグルグルとまわりながら、このお店を開き、夏には草刈りをして、冬には薪を割り、いつしか時代錯誤のような日々に自分自身がどっぷりと浸かっている事に気づくと同時に、芸術家だけがアートを作っているんじゃないんだな。と、気づかせてくれました。


ところが…

そんなある日、パネテリエにとんでもないアーティストが現れます。定休日のお昼前、見慣れない京都ナンバーの怪しい車。降りてきたのはいかにも怪しい風体の3人組でした。1人は坊主頭、1人は鋭い目つき、1人はドレッドヘア。お店の駐車場から聞こえてくるスタッフとの押し問答。

スタッフ:「今日は定休日なんです、すみません。」
3人組:「いえ、買い物とかそういうのではなくて、ここパン屋さんですか?」
スタッフ:「はい?」
3人組:「あの、僕たちアルミを溶かしてて...」
スタッフ:「はぁ。」
3人組:「パン屋さんて窯とかってあるんですか?」
スタッフ:「ああ、ちょっとまってください」

といった会話がしばらく続いた後、私の元にニヤニヤとしながら駆け寄ってきたスタッフが私に、「なんかヤバイ人がきました。太郎さん案件だと思います。」と一言。

スタッフに私のところへ連れてきてもらい、事件にならないように帰ってもらう方法を考えながらも、それを悟られないよう、もう一度聞こえていた話しを繰り返してもらう事に。
すでにヤバさは聞こえていたので内容というより、どこか言葉を話せない動物を観察するような気持ちでした。

結果わかったのが、その3人組の名前は加藤・星野・吉田、グループ名がヒスロム。京都から来て今美術館に泊まったり(泊まる?たり!?)してる。作品を作る場所を探してる。
次はちゃんとした人を連れてくるから話を聞いてほしい。(ちゃんとした人?)
明日。(明日!?)

全く意味はわかりませんでしたが、言葉にすると...そういう事でした。

しかしそんな意味不明の言葉以上に伝わってくるのが、嘘はなくて、正直で、本気で、自分達でも驚いているようで、ラッキーとか不安とか、伝えたいとか。それと、言葉の端々から自分達なりに失礼の無いように言い直したり3人で言葉を補い合ったり。滲み出る誠実さと感情でした。

面白い事になりそうだ。したい事をしてみればいい。と3人に伝え、手を振って見送りながら小声でスタッフを説得しました。

翌日には学芸員さん3人と共にお越しくださり、決して不審なお話では無い事を説明していただいて、安心したその傍らでドレッドヘアの青年は「あ、スギナ」とつぶやいて足元のメヒシバを食べている。これがカオスか。とその日も楽しい一日を過ごさせていただきました。

これがヒスロム、広島市現代美術館のみなさまとの出会いのきっかけです。そこから巻き起こる珍道中のような日々はまた。

という事で、アートってなんだ、そんな答えが出かけたところで、その考えを打ち砕くような出会いによって、まだまだわからない日々が続いています。というお話でした。 おしまい。


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