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【駄文】再生

 昨年4月にnote街に参加し、駄文を書き散らしたり、書籍を自費出版したりしておりますが、未だに驚くのは
「自分で書いた気がしない」
「何でこんな言葉を思いついたのだろう」
ということがあることです。何か意図していたわけではないのに、推敲しているうちに、秘めた「繋がりや意味」に気づき、自分で驚くことがあります。

 例えば先月投稿した「前九年役 天喜3年12月」という稿について、冒頭に『竈の火は赤々と燃え』という部分があるのですが、作成時イメージしていたのは、もともと『囲炉裏』でした。ところが、入力した際に何故か『竈』としてしまいました。
 で、続編となる「康平元年12月」の際には『囲炉裏』と素直に出てきまして、「おいおいこの前の原稿は誤入力じゃないですか」と気づき、一人ツッコミを入れ修正したのですが、改めて考えると、「前半と後半は舞台が異なる方が面白いのでは」ということになり、前半は「小さい小屋」、後半では「小さい家」という設定になりました。そうすると「小屋には囲炉裏が無い方が自然」という考えになり、誤入力かと思われた「竈」を改めて採用することにしました。
 最初に出した答えが、正解だったのです。

 で、この後半となる「康平元年12月」には「あの日死んだのだ(中略)、新たな命をいただいたのだ」という独り言の場面がありまして、これも、何か意図していたものではなく、自然に湧いてきた言葉だったのです。
 しかし、この「一度死んで、新たな命をいただく」という「再生」の考え方というのは、「胎内くぐり」という神事とも繋がる概念であり、「穢れを払い生まれ変わる」ということに繋がると、後から気がつきました。そして、このモデルとしている神社にも「胎内くぐり岩」が存在しているので、実に相応しい表現と感じるようになりました。

 はっきりと申し上げます、偶然です。しかし、嬉しく、楽しい偶然です。ただ、もともと福島太郎と言う存在が、本体である「よしきく」が「死からの再生」を強く意識しながら生まれた存在ですので、潜在的には「再生」ということを常に意識しているのかも知れません。
 「黒田製作所物語」にある『その声は新生児があげる産声のように、社員の心に響いた』という表現も、自然に生まれた言葉で、お気に入りのフレーズです。

 なお、「前九年役 天喜3年12月」も「康平元年12月」も、現在、推敲を重ねておりますが、「康平元年12月」は、より深みを増しています。これから完成までに、どんな言葉が生まれ、どのような物語に成長するか、自分でも楽しみです。
 ただ、いつもどおり悪い人は登場しません。そして、いつもどおり、主役は「愚直」を感じさせる方になります。舞台は福島県二本松市木幡ということで、郡山市を飛び出しました。ようやく、「福島太郎」に相応しい舞台となります。そして、全く知らない業界である「神社」をベースとした話になります。

 もしかしたら、原稿を没とするかもしれません。しかし、その時は「再生」することに、期待したいと考えています。「黒田製作所物語」は徹底的に「郡山」に拘りましたが、今度は「(仮題)夢見る木幡山」とあるとおり、木幡山に拘る物語、山が主人公と言えるかもしれません。


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