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餃子にタレは必要なのか
餃子にタレが必要と考える方を否定するものではありません。まして
『それは本物の餃子を食べたことが無いからだ。3日間、時間を貰おう。俺が本物の餃子を食べさせてやる』
なんて、どこかの漫画の主人公みたいなことを語るつもりもありません。ただ餃子に限らずですが、調理法や味付けは変化していくことが自然な気がしていまして、必然ではないことの象徴として「餃子のタレ」を例示しました。何故なら私はバーミヤンで食事をする待ち時間に本稿を入力しているからです。現在、餃子待ちをしているのです。
様々な食材を美味しく食べるために様々な調理法が生まれたと考えています。先人たちの発想や意欲、食欲に敬意を抱きます。
ただ、タレやソースなどを足すというのは食材に「足りない旨味」があるからかもと考えてしまうのです。もちろん味の相乗効果という狙いもあると考えています。
現代では様々な変革により、生産・輸送・保管方法などの進化により「旨味を足す」だけではなく「足さない技術」とか「引く技術」も有りかもしれないと考えているのです。
パスタは小麦の味と食感を楽しむ、余計なソースは不要ですとか、ラーメンは塩に限るという方には賛同していただけるかもしれません。現代の日本で流通している食材は、そのままで凄く美味しいです。
単純に「煮る焼く炒める」だけで素材の美味しさが凝縮されて、さらに美味しくなることもあるのではと感じています。
だが、敢えて言おう
「タレである」
素材の美味しさは、例えるなら「裸体の美しさ」のようなものかもしれません。その美しさは「真美」なのだと思いますが「裸体に布」や「服」にもまた「真美」があるような気がします。裸体だけでは表現できない美しさの相乗効果、隠すからこそ生まれる心に響く美しさがあるのかもしれません。
ということでバーミヤンにて餃子待ちをしながら考え、実際に餃子を食し、帰宅してから本稿を入力している私の結論としては
「タレがあるとか無いとか、調理方法とかはどうでもいい。
自分が旨いと感じれば、ごちゃごちゃ細けーことはいいんだよ」
ということになりました。
くだらない話にお付き合いをいただきありがとうございました。
2024年6月7日、昼食をサイゼリヤ、夕食をバーミヤンでいただきました。どちらも美味しくいただきましたが
「こんなに安くて良いのですか」
と会計時に恐縮してしまいました。
【餃子にタレが必要か】
なんてくだらないことを考えることができて、安くて美味しいものを食すことができて、命の危険を感じることなく通勤することができるこの国はとても良い国なのかもしれません。
今、ここに生きていることに感謝したいと存じます。
#地には平和を人には愛を
#猫にはチュールを餃子はタレ無しで
#かこに感謝し未来を夢見て
そして
#何を書いても最後は宣伝
創作大賞2024に応募しています。お読みいただけたら嬉しいです。
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